黒い靄のこと 1
花火大会の翌日、和也さんが父に対して雇用条件に誤解があったことを告げるというので、万が一にも父が和也さんをクビにすることがないよう立ち会わせてもらうことにした。
「……誤解? ゲイじゃない?」
「そうなんです」
和也さんから話を聞いた父は、露骨に嫌な顔をした。
「じゃあ、もしかして、おまえ今フリーなのか?」
「はい。無事に大学を卒業して、漫画家として独り立ちするまでは恋愛している余裕なんてありませんから」
両親と絶縁してまで選んだ漫画家への道だ。援助してくれている竜也さんに報いる為にも、色恋に浮ついている余裕はないと和也さんが言う。
ちょっと残念とがっかりする私とは対照的に、父はぱあっと嬉しそうな顔になった。
「そうかそうか。立派な心掛けだ。誤解があったことに関しては、高遠さんの早とちりが原因みたいだし気にするな」
父は物分かりのいい雇用主の顔で頷いた後で、私をちらりと見て勝ち誇ったように笑う。
「漫画家で大成できるのは、ほんの一握りの人間だ。まあ、目標に向かって脇目もふらず、がむしゃらになって頑張れ。応援するし相談にも乗るからな」
「ありがとうございます」
和也さんは感謝していたが、私はチベットスナギツネみたいな目つきになっていた。
父はこれで当分の間、私から和也さんを遠ざけておけるとでも思っているのかもしれない。
だが、そもそもそれは無用な心配だ。
中学生に間違えられる低身長に、女性らしい丸みのない性別不詳な体型。
今の私は大学生の和也さんから恋愛対象として見てもらうには、あまりにも外見が幼すぎる。それこそロリコンでもなければ興味を持ってもらえないに違いない。
だからこそ、実をいえば、漫画家として独り立ちするまでは恋愛する余裕はないという和也さんの発言はわたし的には大歓迎だった。
漫画家として独り立ちするまで和也さんは恋人を作らない。
その間に私は恋愛対象として見てもらえるよう、すくすくと成長して大人の女性になるのだ。
……なれるよね?
思わずつるペタの胸を見下ろした私は、母もつるペタなことを思い出してちょっと憂鬱になった。
それでもまだ身長は伸びるはずだから、今日から乳製品を多めに食べようと心に誓ったのだった。
こうして和也さんの件は無事に片付いたので、次は都子ちゃんの番だ。
「ねえねえ都子ちゃん。花火大会の時の杏ちゃん、ちょっと変だったよね? なにかあるの?」
リビングのソファで読書感想文用の読書にいそしんでいた都子ちゃんに声を掛けると、都子ちゃんは本から顔を上げて私を見上げた。
「運動部は上下関係が厳しいから、きっと色々あるんでしょう」
「その色々の中身が聞きたいんだけど……」
「私にだってテニス部内部のことはわからないわ」
芽生ちゃんと一緒だよと都子ちゃんが笑う。
そらっとぼけちゃって……。
知らぬ存ぜぬを貫き通すつもりらしいが、都子ちゃんがなにも知らないわけがないのだ。
知っているからこそ、あの時私の手をぎゅううっと痛いぐらいに握って、杏ちゃんを問いただそうとする私を止めたのだろうから。
私は本日二度目となるチベットスナギツネみたいな目になった。
「……芽生ちゃん、その目つきやめて。可愛い顔が台無しよ」
「台無しでもいいもん。教えてくれないんなら、直接テニス部に差し入れにいっちゃおうかな~」
以前、夏場でも屋外で部活している美結と杏ちゃんに、なにか差し入れしに行こうかと私が提案したことがあったが、都子ちゃんからテニス部は大所帯で色々厳しいみたいだからやめておこうと言われて止められた。
きっとあの頃から、都子ちゃんはなにか知っていたに違いない、
「……やぶ蛇って言葉知ってる?」
「知ってるけど、蛇は怖くないもん。……毒持ってたら困るけど」
「その毒持ちなのよ。もうしょうがないなぁ」
溜め息をつきながら本をテーブルに置いた都子ちゃんが、隣りに座るよう促す。
私は喜んで隣りに座った。
「美結には内緒にしてね」
「なんで? 咲希ちゃんならいいの?」
「うん。だって最初に気づいたのは咲希だから」
その後、都子ちゃんが話してくれたところによると、テニス部自体にはさほど問題はないのだそうだ。
「主に問題があるのは、杏達と同じ中学出身の二年の先輩ひとりだけ」
「その人が杏ちゃんに意地悪してるの?」
「意地悪というか、八つ当たりね。それも的外れの」
その先輩が本当に意地悪したい相手は美結なのだと都子ちゃんが教えてくれた。
「美結ってね、本当に将来有望なテニスプレイヤーだったらしいの。順調に育っていけばプロ入り確実だって言われていたんだそうよ」
美結は同年代の選手達に比べると、頭ひとつ抜きん出ている存在だった。当然学校側もテニス協会も彼女に期待して、優遇して育てようとした。
美結はああいう単純な性格だから、周囲に期待されればされるほど調子にのって頑張って良い成績を残していたらしい。
だが、強く光が当たる者がいれば、その影となって目立たない者もいる。
美結の一学年上の世代がそれだった。
「中学の部活動で、損をしちゃった人達がけっこういるんだって」
中学生の美結はシングルスだけじゃなく、余裕がある時はダブルスにも手を出していた。
学校側は上級生とのペアを薦めたようなのだが、美結は気が合うからという理由で杏ちゃんを選び、良い成績を残してきたのだという。
「その時にふられたのがあの場にいた先輩だったわけ」
自分の方が力は上だったのに、杏ちゃんは友達だからというだけの理由でパートナーに選ばれて記録に残る成績を残した。
そのことを彼女はずっと不満に思っていて、次に機会があったら絶対に自分を選ばせてやると奮起して頑張っていた。高校も美結が選びそうな強豪校である我が校を選んで進学した。
だが肝心の美結が、高校進学前に怪我でテニスを辞めざるを得なくなってしまった。
「……その悔しさを杏ちゃんに向けてるの?」
「そうみたい。最初はその先輩ひとりだけだったのが、面白がって手を貸す先輩が増えてきちゃったみたいで……」
テニス部内部に数人、杏ちゃんを苛めている人達がいるのだと都子ちゃんが言う。
「だったら学校側に言おうよ! うちの学校、そういうの厳しいからすぐに対処してくれるよ」
「そうね。だからこそ、杏は口を閉ざしちゃったのよ」
杏ちゃんは私達の中では一番大人しめに見えるが、本来は体育会系で粘り強く負けず嫌いな性格だ。決してイジメに屈するような人じゃない。
「杏ちゃんはイジメを表沙汰にしたくないってこと?」
「そうなの。運動部で体罰やイジメがあったときの罰則知ってる?」
「詳しくは知らない」
「最低でも一ヶ月の部活動停止なんですって。もちろん、その間の試合も出場不可。杏はそれが嫌なの。なにがなんでもテニスを続けていたいんですって」
「苛められても?」
「うん。美結と約束したからって」
都子ちゃん絡みの一件で美結と杏ちゃんが仲直りした後のことだそうだ。
『とりあえずあたしは陸上部で頑張ってみるから、杏はテニス部で頑張って』
『わかった。私は美結の分まで頑張るから』
それが美結にとってどれぐらい重みがある発言だったのか定かではない。私なんかは案外軽い気持ちで言ったんじゃないかと思うのだが、生真面目な杏ちゃんにとっては重大な約束事になってしまっていた。
「イジメに真っ先に気づいた咲希が学校側に報告しようとしたら、杏に止められたそうよ。こんなのたいしたことじゃないって。テニスが出来なくなるほうが辛いんだって……」
「それで我慢してたんだ」
でも本当にそれでいいのだろうか?
嫌がらせをする人数が増えているということは、イジメが悪化しつつあるという事だ。
ここで止まればいいが、悪化し続けたら、この先どうなってしまうんだろう?
「……あの先輩達の光、黒い靄に覆われてるみたいに見えてたんだよね。あれがなんか嫌な感じで……」
「黒い靄? なにそれ」
聞かれてあの夜に見た光を覆う黒い靄のことを話すと、都子ちゃんの眉間がきゅうっと寄った。
「澱みとは違うのね?」
「うん。あそこまで濃くないの。煤でランプが汚れて、光が遮られてるみたいな感じ?」
「今まで見たことある?」
「ううん。はじめて見た」
だからこそ不安なのだ。
あれをこのまま放って置いていいものかどうかがわからなくて……。
そんな私の不安に答えをくれたのは、城崎さんと一緒に夕食を食べにきた従姉妹の茜さんだった。
「あー、それ、けっこうマズイかも。早めに対処しないと悪化する。下手するといずれ中心にいる人間が邪気をふりまきはじめるからね。……っていうか、芽生ちゃんは今までイジメを目撃したことないの?」
母の肉料理を次々と口に収めながら、どこにでもありそうなのにと茜さんが不思議そうな顔になる。
暑い季節なので、今回は冷しゃぶメインで、唐揚げの甘酢掛けやしそと梅肉の鶏肉巻き等、夏らしいさっぱり系肉料理がテーブルには大量に並んでいる。
「ないよ。私がいるクラスではイジメは発生しないから」
イジメは嫌いだし、そもそもイジメをする人間の気持ちがわからない。
他人をイジメて楽しいのか?
そもそも、そんなことをしてなんの意味があるのか?
興味津々な私は、大きく目を見開いてイジメをしている人達をじいっと見てしまう。
見られた人は、私にじいっと見られると呪われるという噂を思い出すらしい。それ以降、イジメをやめてしまうのだ。
なので結果的に、私がいるクラスではイジメは初期段階で終了してしまうことになる。
私がその話をすると、茜さんや城崎さんだけじゃなく、都子ちゃんまでおかしそうに笑った。
「芽生ちゃんって格好いいね」
「そう?」
格好いいと言うわりに笑っているのはどうしてなのか。
私は首を傾げた。
「あの黒い靄を見たことがないってことは、芽生ちゃんは今まで誰かに嫌われたことがないのね」
「えー嫌われまくりだったよ。都子ちゃんと友達になるまで、学校ではずっとぼっちだったんだから」
「得体が知れないって警戒されてたんでしょ。私達はこの目のせいで反応が独特だからね。気づく人は気づいちゃうし……。あの黒い靄はね、心から溢れて滲み出る悪意みたいなものなのよ」
この年齢まで知らずにいられたなんて羨ましいと、茜さんは軽く口の端を上げて苦く笑った。
読んでいただきありがとうございます。
予告詐欺で花火大会後の話になってしまいました。
次話こそ、都子ちゃんの危機……になるかもw




