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痕跡のこと 3

引き続き動物虐待を仄めかすシーンがあります。

ご用心くださいませ。

 ――欠けてる。


 その意味をちゃんと理解するまで少しだけ時間が掛かった。

 私の日常から、あまりにもかけ離れた事態だったからピンとこなかったのだ。

 都子ちゃんがそんな風に言葉を濁したのは、澱みに邪魔されて三毛猫の状態をちゃんと見ることが出来ない私への気遣いなんだろう。


「ひどい怪我なの?」

「……騒がれないようにどこかで……虐待された後、ここまで連れて来られたんだと思う。だから、もう……」


 都子ちゃんはまた言葉を濁した。

 はっきりと言葉にしない優しさがあることを、かつて私は失敗の痛みと共に実感として学んだ。


 ――でも、こんな酷いことは学ばなくていい。


 目の前に横たわる、澱みでまっくろな三毛猫を見てそう思う。

 こんな酷いことをした犯人の歪んだ思考を実感できるほど理解してやる必要なんてない。

 それでも、目はそらさない。

 こういうことを平気でできる人間から身を守る為にも見て覚えておかなくてはと思う。


 私が車内の冷房対策に羽織っていたカーディガンを脱ぎながら三毛猫に歩み寄ると、都子ちゃんが「どうするつもり?」と聞いてきた。


「こんなとこに置いておけないから、連れ帰ってどこかに埋葬してあげるの。……今日の日帰り旅行駄目になっちゃうかもしれないけど、いい?」

「もちろん」


 おそるおそる聞くと、都子ちゃんは強く頷いた。


「でもその前に、このこと咲希に知らせるね。被害を知らせないとこの子の犠牲が無駄になっちゃうかもしれないから……」

「うん」


 スマホを手に取った都子ちゃんは、咲希ちゃんにモーニングコールをかけて起こし、今すぐ外に出てくるように告げた。

 さして待つこともなく、しっかり閉められていた店舗前のパイプシャッターが開く。


「おはよ。こんな朝早くにどうし……」


 パジャマ姿のままで眠そうに外に出てきた咲希ちゃんは、店の前に横たわる三毛猫を見て動きを止めた。


「たまたまこの近くを通ったから、ちょっと心配で店の前を見に来たの。第一発見者になっちゃった」

「この猫、芽生ちゃんの目にはまっくろに見えてるんですって」

「……邪気に覆われてるってこと?」

「うん。そだよ」

「じゃあ、これもあの人の仕業なんだ。……さすがに、ここまでする人だとは思わなかった」


 咲希ちゃんはへなへなとその場にしゃがみ込んで両手で顔を覆った。


「お父さんにも見てもらったほうがいいと思う。それと、できればこの子を入れる段ボール箱を用意してもらえない?」

「都子達で埋葬してくれるの?」

「うん。邪気まみれだから、咲希ちゃん達は触らないほうがいいと思う」

「わかった。迷惑かけてごめんね」


 家の中に戻っていった咲希ちゃんが大声で父親を呼ぶ声を聞きながら、私達は視線を三毛猫に戻した。


「芽生ちゃん、そのカーディガンを使うつもり?」

「そのほうが素手で触るより澱みがつかないから」

「そう。じゃあ、私がやるからそれちょうだい」

「私が言い出したことだし、自分でできるよ」

「うん。でも芽生ちゃんには猫の姿がちゃんと見えてないんでしょう? 痛いところに触っちゃったら猫が可哀想だしね」


 死んじゃっててもこれ以上痛い思いはさせたくないからと言われて、私は渋々都子ちゃんにカーディガンを手渡した。

 咲希ちゃんの父親に見せる前に動かすことはできないので、とりあえず三毛猫に近付いてその場にしゃがみ込む。


「……まさか……」


 ふたりで三毛猫に手を合わせようとしたとき、都子ちゃんが慌てて手を伸ばして三毛猫に触れた。

 同時に、都子ちゃんの指先も黒く染まる。太陽の光に晒せば消えるものだと分かっていても思わずゾッとした。


「ちょっ、都子ちゃん、直接触っちゃ駄目!」

「この子まだ生きてるわ!」

「ホント?」

「うん。まだ温かいし、微かに胸も動いてるもの」

「あ、じゃあお医者さんにつれて行こう。ぴーちゃんが行ってる動物病院なら二十四時間体制だからすぐに診てもらえるし」

「とりあえず、止血するね」


 生きていると分かれば、もう咲希ちゃんの父親を待っている暇なんてなかった。

 都子ちゃんはハンカチを取り出して三毛猫の応急処置をはじめた。

 私の目には、三毛猫の姿はどろりとした澱みに覆われていて、どこがどう怪我しているのかも見えないから、手伝えないのがもどかしい。


「その子、まだ息があったの?」


 店の中から出てきた咲希が慌てて駆け寄ってきた。


「うん。今から医者に連れて行くから」

「じゃあ、私も一緒に行くわ」

「駄目だよ。咲希ちゃんまだパジャマでしょ。それにお父さんと早めに話し合ったほうがいいよ」


 私は、咲希ちゃんの後ろから歩いてきた彼女の父親に目を向けた。

 作務衣姿で頭には手ぬぐいを巻いていて、朝早くから仕込みをしていたことが一目で分かる姿だ。

 彼は三毛猫を見て痛ましそうな顔になる。

 優しい人なんだと少しほっとした。


「お父さん、この子達が私の友達。ゴミが捨てられてることを知ってたからずっと心配してくれてて、それで第一発見者になっちゃったの」

「そうか……。その猫、家の前に捨てられていたのか?」

「はい。ゴミを撒いた人と同じ人の仕業だと思います」


 私は立ち上がって答えた。


「なんでそう思うんだ? なにか証拠はあるのか?」


 それを聞かれると弱い。澱みがどうのと言ったところで、きっと信じてもらえないだろうし……。

 困っていると、「あるわ」と咲希ちゃんが答えた。


「たぶんまたゴミをばらまきに来ると思ったから、お母さんと相談して店の前にカメラを仕掛けておいたの」


 商店街の防犯カメラだとどうしても遠目にしか映らない。だから少しでもはっきり犯人を捕らえられるよう、咲希ちゃんは家の前に小型カメラを仕掛けておいたのだ。


「きっとまた顔を隠してるだろうけど、知ってる人が近くで見たら仕草やシルエットで犯人が誰かわかると思う。――だから、お父さんもちゃんと見て」

「お前、まさかまだあいつを疑ってるのか?」

「だって、タイミング的にもあの人しかいないじゃない!」

「馬鹿を言うな!」


 いきなり親子げんかをはじめた二人を、「ちょっといいですか?」と冷ややかな声で都子ちゃんが遮った。


「一刻も早くこの子を病院につれて行きたいんで、親子げんかは後にして。――おじさん、この子をちゃんと見てください」


 都子ちゃんは、咲希ちゃんが持ってきてくれた段ボール箱に横たえた猫を、ずいっと咲希ちゃんの父親に近づけた。


「この子を虐待して、ここに捨てていった人がいます。こんな酷いことをする人の犯行が、これで終わりになるとは思えません。きっとまだまだエスカレートしますよ」

「……小動物を虐待する人は、やがて人間にも手を出すようになるってよく聞く話よね」


 ぼそっと咲希ちゃんが呟き、都子ちゃんが頷く。


「おじさん、目をそらさずに現実を見て、私達の友達を守ってください」

「当たり前だ。そんなこと、あんたに言われるまでもない」

「それならいいんですけど……。どうかおじさんが守るべき相手を間違えないでください」


 お願いしますと、都子ちゃんが頭を下げる。

 私も慌てて一緒に頭を下げた。


「芽生ちゃん、行こう」

「うん。――咲希ちゃん、後で連絡するから。充分気をつけてね」

「わかった。迷惑かけてごめん。その子のこと、よろしくね」


 心配そうな咲希ちゃんに小さく手を振ってから、都子ちゃんを先導するように走り出す。

 車に着くとすぐ、両親に事情を話していきつけの動物病院につれて行ってもらった。

 病院では当直の先生が、三毛猫をひとめ見て痛ましそうな顔をした。


「これは、ちょっと厳しいな」


 それでも治療を施しつつ簡易検査もしてくれたが、やはり結果は同じだった。


「野良猫だったのなら、このまま当院で引き取りますよ。これ以上、無駄に苦しめるのも可哀想ですし……」


 安楽死を仄めかされた父が、「どうする?」と私を見た。


「……できれば、家に連れ帰りたい」


 猫のためを思えば、一刻も早く楽にしてあげたほうがいいのかもしれない。

 でも澱みにまみれた真っ黒な三毛猫の姿は、どうしても私にそれを躊躇わせる。



「澱みに覆われたまま死んじゃったら、この子、悪霊になるんじゃないの?」


 日帰り旅行を中断し、治療を終えた三毛猫を家に連れ帰る車の中で、私は自分の不安を皆に話した。


 以前、家に現れた真っ黒な這いずるもの。

 澱み――邪気にまみれていたそれを、オカルトライターをしている城崎さんは、悪霊化しかかっている生き霊だと言っていた。

 心霊スポットに存在する霊は邪気にまみれているとも言っていたような気がする。


「もしもそうなるなら、動物病院にこの子を置いていくことはできないよ」


 病院では、感染予防なのか使い捨ての手袋やシートを使って治療してくれていたから、無駄に澱みが病院内を汚染することはなかった。

 でも、あの場で死んだこの子が万が一悪霊化したら、そんなものでは被害を防ぐことはできないだろう。


 具合の悪いペット達が沢山通ってくる場所に悪霊を発生させるわけにはいかないし、そんな状態になるかもしれないこの子をこのまま放っておくこともできない。


「……その三毛猫、そんなに澱みまみれなのか?」

「うん。私の目にはまだ真っ黒にしか見えないよ。この澱み、本当に粘着質でしぶといの」


 これ以上無駄に苦しまないようお医者さんが痛み止めの注射を打ってくれたようで、三毛猫はずっと眠ったまま。都子ちゃんが言うにはゆっくり呼吸する度にお腹の辺りが小さく動いているらしいのだが、澱みに邪魔されてそれすら私には見えない。

 生きているのを確認するには、澱みへの嫌悪感をこらえながら直接触れて温もりを確かめるしかなかった。


「とりあえず、家に帰ったら城崎くんに相談してみるか」


 後部座席に寝かせてある三毛猫を心配そうに覗き込みながら、「そうね」と母が言う。


「猫ちゃんに直接塩や除菌スプレーをかけるわけにはいかないから、水晶とかお香とかを試してみるのはどうかしら?」

「水晶は良さそうですね。でも、匂いに敏感な猫にお香はキツいかも」

「そだね。数珠とか仏像のフィギュアとかも試してみようよ」


 医者からは、三毛猫の命は夕方までもつかどうかだろうと言われている。

 それまでになんとか、三毛猫の身体にまとわりついている澱みを払ってあげたい。

 太陽の光に直接当てれば消し去ることもできるかもしれないが、弱り切っている三毛猫にとって真夏の直射日光は毒にしかならない。死期を早めるだけだ。


「城崎さんの知り合いの神職の人にお願いできないかな?」

「それも電話で聞いてみよう」


 命は助からなくとも、せめて安らかに旅立って欲しい。

 死んでからまで、自分を傷つけ殺した人間から押しつけられた悪意に苦しむことがないようにしてあげたかった。


 両親や都子ちゃんも同じように思って心配してくれているのか、澱みで真っ黒になった三毛猫にみんなの光がくっついては、澱みと相殺するようにじゅわっと消えていく。

 目に見えるほどの効果はないけれど、ほんの少しずつでも澱みが減っていくのがありがたかった。




 家に帰るとすぐに、リビングの日当たりのいい窓際に三毛猫の寝床を用意した。

 直射日光ではなく、レースのカーテン越しの淡い光を当てる作戦だ。


 日向ぼっこのお気に入りの場所を取られたぴーちゃんは、三毛猫の澱みが見えるからか警戒しているようで少し離れたところからこっちをじいっと見つめていた。


「水晶は澱みをちょっとだけ吸収してくれるみたい。仏像のフィギュアは全然駄目」


 水晶はある程度澱みを吸収すると真っ黒になって効果を無くすようだ。お日様に当てるとまた少しずつ透明に戻っていくが、なかなか時間がかかるようで何度も繰り返し使うことはできなかった。


「お父さん、城崎さんに連絡ついた?」

「駄目だ。電波の届かないところか電源が入っていない為かかりませんってアナウンスが流れてて通じない」

「じゃあ、茜さんは?」

「同じだ。ふたりとも仕事中なのかもな。神職さんのいる神社に電話してみたが、こっちは時間外アナウンスが流れてる。本人の携帯番号教えてもらっとけば良かったなぁ」

「あ、じゃあ、神社からもらったお札は?」

「ああ、あれか」


 父が祀っている場所からお札を持ってきて三毛猫に近づけると、薬で眠っているはずの三毛猫が急に苦しみだした。

 それなのに澱みは薄くなってない。

 これでは苦しめるだけだと、元の場所に戻すしかなかった。


「なんでお札で猫が苦しむの?」

「それだけ、澱みと一体化してるってことかもしれないな」

「芽生ちゃん。澱みの濃さはどう? さっきから全然変わらない?」

「うん。あんま変わってない。薄くなっててもおかしくないんだけど……」


 レース越しとはいえお日様の光に当たっているし、皆の光が次々にくっついては澱みと相殺されていっているから、絶対に薄くなってなきゃいけないはずなのだ。

 それなのに、澱みの濃さは変わってない。

 ということは……。


「もしかして、この子自身が、澱みを生み出しちゃってるのかも」

「考えられるな。これだけ酷い目にあったんだ。人間に恨みを抱いてもおかしくない」


 しかもこれだけの澱みに覆われているんだから、きっと負の感情だって増幅されまくりだろう。


 このままこの子が死んでしまったら、やっぱり悪霊になってしまうんだろうか?


 身体という器をなくして完全に悪霊になってしまったら、私達を守ろうとするあのお札の力で消されてしまうかもしれない。

 この子はなにも悪いことをしてないのに……。

 そんなのあまりにも可哀想だ。


「お父さん、直接神社につれて行ったらどうかな?」

「……三毛自身が穢れになりかかってるなら、お札を近づけたときと同じことになるんじゃないか?」


 苦しめるだけならつれて行っても無駄だろう。


「言葉が通じるなら、謝ったり慰めたりして心を落ち着かせることもできるんでしょうけど……」

「この子は、ぴーちゃんとは違うもんね」


 少し離れたところからこっちをじいっと見つめているぴーちゃんに視線を向けると、ぴーちゃんは溜め息をつきながら立ち上がって、ゆっくりこっちに歩いてきた。


「ぴーちゃん?」


 コツンとわざと私にぶつかってから、そのまま三毛猫の元へ行って、そっと隣りに寄り添うように座る。


「ぴーちゃん。澱みがついちゃうよ!」


 ――そんなこと言われなくてもわかってるわよ。


 私の忠告にフンと鼻息で答えたぴーちゃんは、そのままぺろぺろと澱みまみれの三毛猫の毛繕いをしはじめた。

読んでくださってありがとうございます。


次話は、今度こそ救済。

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