痕跡のこと 1
「……最近よくここで伸びてるけど大丈夫なの?」
日当たりの良い窓辺に寝そべって、べろーんと力なく伸びているぴーちゃんにおそるおそる触れた都子ちゃんが、「あつっ」と手を引っ込めた。
「芽生ちゃん大変! ぴーちゃん熱々よ!」
「うん。知ってる。でも、まだ大丈夫」
焦る都子ちゃんに私は落ち着いて答えた。
伊達に、ぴーちゃんのお世話係を自認している訳ではない。今までの経験上、まだ大丈夫なはずだ。……たぶん。
「せめてレースのカーテンだけでも閉めようか?」
「ううん。それすると、ぴーちゃんが嫌がるの」
ぴーちゃんは黒猫だ。黒は熱吸収の良い色だから、当然直射日光に当たっていれば、そりゃもう熱々になる。
ぴーちゃんを飼い始めたばかりの頃は、直射日光で熱々になったぴーちゃんを慌てて日陰に連れていったりしたものだ。
だがそれはぴーちゃんにとってはありがた迷惑だったようで、すぐにまた日向に戻ってしまう。それならばと厚手のカーテンを閉めれば、カーテンと窓硝子の間に入りこんで、今度はもっと熱々に蒸されてしまうのだ。レースのカーテンでも同じことになる。
どうせ日が当たるのは午前中だけだし、最終的に私は諦めた。
それでもやっぱり心配なので、日の当たる時間帯は冷房を強めにしてあるし、ぴーちゃんの水飲み場を窓辺にひとつ増やしてもいる。
「ぴーちゃんの光の動きの状態も一応確認してるの。ご機嫌だから、まだ平気。心配してくれてありがとね」
「それなら良いんだけど……」
都子ちゃんは少し不安そうにもう一度ぴーちゃんを見てから、私の側に来て手元を覗き込んだ。
「芽生ちゃんって、絵が上手だったのね」
「ふふん。まあね」
私はつるぺたの胸を張った。
一週間の宿題強化期間で私が苦手としている問題集やプリント関係の宿題はなんとか目処がたった。なので今はそれ以外の宿題、読書感想文や選択科目の提出物に取りかかっている。
私の選択科目は美術の油絵コースなので、夏休み中に油絵を一枚完成させるだけでいい。だから一昨日からリビングの一角にイーゼルを置かせてもらって、日向ぼっこで伸びているぴーちゃんをモデルに絵を描いている。
都子ちゃんの選択科目は書道で、自分が選んだ四文字熟語を練習した上で、上手なほうから十枚ほど提出するそうだ。その十枚から先生が一番良い作品を選んで、二学期になってから自分で軸装するのだとか。
「昔からお絵かきは得意だったんだ」
「ふうん。こういう才能ってやっぱり遺伝なのかな。――芽生ちゃんも将来、おじさんみたいに漫画家になる?」
「ならないよ。私にはお父さんみたいにお話を作る才能はないし」
いや、話を作る才能では無く、世界を創りあげる才能か。
私は小説や漫画を読むのは好きだが、自分の中に新たな世界を創りあげ夢想して楽しむことはできそうにない。凄く残念だけど。
「お父さんは、将来私にアシスタントにはなって欲しいみたいだけどね」
「よく芽生ちゃんにおじさんが、ずっと家にいればいいって言ってるけど、あれ本気だったのね」
「そだよ。……ならないけど」
実際問題、今の仕事ペースを続けるなら父のアシスタントはひとりいれば充分なのだ。そして父には、翠さんというプロのアシスタントがいる。
仕事しようにも私が入る余地はない。
「将来かぁ。お父さんが自営業だから、自分が会社で働くとか想像できないんだよね。都子ちゃんはできる?」
「私も無理。……というか、落ち着いて暮らせるようにならないと、将来のことなんて考えられないわ」
「そっか……」
「まだずっと先のことだし、ゆっくり考えましょ」
「そだね」
頷きながら、キャンバスに絵筆で色を乗せる。
ぴーちゃんの毛はちょっとだけ茶色がかっていて、光が当たると毛先が金茶色にキラキラ光る。
これをどう表現するか。まだ油絵をはじめたばかりで描き方のコツみたいなものもわからないし、夏休み期間中ずっと試行錯誤していくつもりだ。
モデルになったぴーちゃんに動くなというのは無理なので、とりあえず気に入った寝姿の写メを撮って、それを基本にして描いている。
ただ、光が当たっているぴーちゃんの毛並みの感じは、リアルのぴーちゃんを見て描くのが一番だから、だいたい絵を描くのは日当たりのいい午前中になりそうだ。
「完成までどれぐらい?」
「まだまだだよ。これから細かい所を描き込んでいくの。ぴーちゃんから出てくる淡いピンク色の光も描き込むつもり」
「いいわね。芽生ちゃんに見える光って映像には残らないから、絵に描いてもらえると、実際にどんな風に見えるのかわかって嬉しい」
「……そっか。絵に描けばみんなに見てもらえるんだ」
自分が見ている世界を、絵を通してみんなと共有できる。
それは、とても嬉しいことのように思えた。
「ねえ、芽生ちゃん。いつか夕香さんの絵も描いてくれる?」
「お母さんの絵って……。あれ?」
私は、窓の外のバルコニーで夏野菜を植えた家庭菜園の世話をしている母を指差した。
「そう。植物の世話をしてるところ。凄く綺麗なんでしょう?」
「うん。そだよ」
ふわふわと植物達から無数に浮かび上がる小さな白金の光と、その間をくるくるっと楽しげに飛び回る母から発生するライムグリーンの光。
まるでお互いを祝福しあっているようで、見ているだけで幸せな気分になれる光景だ。
あの雰囲気を、油絵をはじめたばかりの今の私に表現できるとは思えない。
でも都子ちゃんが見たいのならば頑張ってみようか。
「いつになるか分からないけど描くよ。それでもいい?」
「もちろん」
楽しみにしてるねと都子ちゃんが笑うと、苺ちゃん達も嬉しそうにくるくるっと舞い踊る。
いつか、この笑顔も描けたらいいなと私は思った。
「芽生、このニュース、お前の友達の件じゃないか?」
夕食の席に着いてすぐ、父が自分のスマホを私に差し出した。
受け取って、隣りに座っている都子ちゃんと一緒に画面を覗き込むと、渋谷に新しくオープンする複合施設に関する詐欺行為への注意喚起の記事が載っていた。
「……多分そうだと思う」
「そうね。企業名も同じだし」
私達が甘味処ほしのに行った日、咲希ちゃんはあの後すぐに複合施設を経営している企業にメールを送ったそうだ。そして、一時間も待たずに返事がきたらしい。
その結果わかったのは、すでに詐欺の被害者が数人出ていたということだ。お金を振り込むと同時に、関連企業の名刺を持って現れた人物と連絡が取れなくなり、困った人達からどうなっているのかという問い合わせの電話があったらしい。
もちろん名刺の人物はその会社には存在せず、名前も偽名だった。
警察の調べによると、営業に訪れた人物は複数人いるらしく、詐欺グループの関与も予想されていた。
「友達のお父さんは、まだ本当のことを言ってないのか?」
「うん。……咲希ちゃんとおばさんが説得してるけど駄目だって」
咲希ちゃんの活躍で自分が詐欺被害に遭いかかっていたことを知っても、咲希ちゃんの父親は取り調べにきた警察に島村さんのことを話さなかった。いまだに飛び込みの営業だったと証言しているのだ。
騙されかけても子供の頃からの友人である島村さんのことを見捨てられなかったのだろう。
なんとか連絡を取ろうとしているようだが、スマホもマンションも解約されていて八方ふさがりなのだとか。
咲希ちゃんの父親が証言して、島村さんの存在が明らかになれば警察の調査ももう少し進むと思うのだが……。
「下手に隠すと、咲希ちゃんのお父さんも罪に問われかねないぞ」
「そうなの?」
「ああ。罰金刑程度だろうけどな」
罰金刑だろうと罪は罪だ。
客商売だけに前科がつくのは絶対によろしくない。
凄く心配だけど、私が心配して駆けつけたところでなにが出来るわけでもなく、トークアプリで咲希ちゃんの愚痴を聞いてあげることぐらいしかできない。
私がしょんぼりしていると、父が言った。
「そういえば、甘味処ほしののあんみつって絶品なんだって? 一度食べたいもんだな。締め切りが近くなかったら、自分で買いに行くんだけどなぁ」
「だったら、私が買ってきてあげる!」
こういう気遣いには、まんまと乗せられるのが正解だ。
私は「はい」と手をあげて買い出し係に立候補した。
そして翌日、少しでも涼しい午前中のうちに都子ちゃんと甘味処ほしのに向かった。
もちろんトークアプリで咲希ちゃんにテイクアウトの注文も済ませてある。
「午前中でもやっぱり暑いね」
最寄り駅について甘味屋ほしのに向かって歩きながら、私は汗をぬぐった。
今日は私も日傘を持参しているので、残念ながら都子ちゃんとの相合い傘はなしだ。
「こう暑いと屋外の部活動の人達も大変よね」
「そだね。そのうち、杏ちゃん達の差し入れに行ってみる?」
「ん~、テニス部は大所帯だし、色々厳しいみたいだからやめたほうがよさそう。行くとしたら、美結の陸上部ね」
「美結かぁ……。まあ、特別に行ってやってもいいかな。――あいつ、ちゃんと宿題やってると思う?」
「咲希ちゃんの話だと、毎年夏休み終わり近くになると友達に泣きついてたらしいわよ」
「友達に? じゃあ、私にも泣きついてくるかな?」
泣きついてきてくれたらちょっと嬉しいなと、浮き浮きしてしまった私を見て都子ちゃんが笑った。
「来るかもね。でも見せちゃ駄目よ」
「え……ちょっとぐらいなら……」
「駄目よ」
都子ちゃんは笑顔で私の希望をバッサリ切り捨てる。
自分にも他人にも厳しい私の一番の友達は今日も絶好調だ。
ちょっとしょんぼりしながらとぼとぼ歩いているうちに、商店街の入り口に辿り着いていた。
「打ち水したのかな。道が少し濡れてるね」
打ち水は少しだけ気温を下げる効果があると言われてるけど、実際のところ湿度が増して、プラマイゼロなんじゃなかろうかと思いながら指をさすと、都子ちゃんが不思議そうに言った。
「濡れてるって、どのお店?」
「え? あちこち、道が濡れて黒ずんでるよね?」
黒ずんだ道を指差したまま都子ちゃんを見上げると、都子ちゃんはハッとしたように眉根を寄せた。
「芽生ちゃん。私の目にその黒ずみは見えないわ」
「え、じゃあ、あれって……」
私は慌てて走って駆け寄り、黒ずみを間近で見た。
「……澱みだ」
間違いない。遠目では濡れたように見えていたその黒ずみは、太陽の光で浄化され、徐々に薄れつつある澱みだった。
「澱みが見えるの?」
追いついてきた都子ちゃんに聞かれて、私は頷いた。
「うん。……この商店街の歩道の所々に澱みが残ってる」
しかも、それぞれ店の真ん前辺りに濃い固まりがより多く残っているようだ。
「このまま放置していても大丈夫?」
「うん。お日様がずいぶんと浄化してくれてるから大丈夫。地面に落ちてるから人の身体につくこともないだろうし……」
靴裏についたとしても歩いているうちに消えてしまうだろう。
だから、そういう意味では大丈夫なんだけど……。
「どうやれば、こんな風に澱みをまき散らすことができるんだろう?」
澱みの発生源である誰かが、商店街の歩道を這いずり回るか、ジャンプして身体についた澱みを振り落としでもしなければこんな風に澱みが残ることはないような気がするのだが、実際にそんな真似をする人がいるとは思えないし……。
私は今まで見たことのない奇妙な痕跡に困惑していた。
読んでくださってありがとうございます。
次話は、悪化。




