親子のこと 2
これは悲しい涙じゃない。
そのことを、くるくるっと舞い踊る苺ちゃん達が私に教えてくれた。
それならば、もう焦る必要はない。都子ちゃんが落ち着くまで待とう。
私は都子ちゃんに両手で握り込まれた手をそのままに、空いたほうの手で都子ちゃんのしゃくりあげる背中をそうっと撫でた。
しばらくして、やっと涙が止まった都子ちゃんは、ティッシュで涙を吸い取りながら少し気恥ずかしげに微笑んだ。
「……ご、ごめんね。なんだか、胸がいっぱいになっちゃって……」
「いいよ。なにがあったか聞いてもいい?」
「もちろんよ。――私ね、パパに謝ろうとしたの……」
都子ちゃんは、とにかく謝りたかったのだそうだ。
まず最初に謝らなければ、これから先の話なんてできないと思っていた。
だが、孝おじさんに止められた。
――都子は悪くない。悪いのはパパ達だ。
孝おじさんは、両親の間で板挟みになって都子ちゃんがずっと苦しんでいたのを知っていた。知っていたのに、都子ちゃんの苦しみを取り除こうとせず現状維持を選んだ。
「うちの両親、大学で出会ったの」
孝おじさんは、世間知らずのお嬢さまだった都子ちゃんの母親にひとめ惚れして、頑張って口説き落としたのだそうだ。
「ひとめ惚ればっかり」
「ほんとね」
ふふっと柔らかく都子ちゃんが笑う。
「……ママはね、ずっとお祖母様の言いなりになって生きてきたんだって」
でも大学に進学すると同時に家を離れ、孝おじさんに出会ったことで、はじめて自分の意思で生きはじめた。
大学卒業後、反対する両親を振り切って孝おじさんと結婚もした。
でも、頑張れたのはそこまでだった。
なにもかも指示してくれる存在を失って、彼女はどんどん不安になっていった。
夫から渡される給料では、お嬢さま育ちだった彼女が知っている生活水準を維持することはできない。慣れない家事や子育てに、徐々に追い詰められ、心のバランスを失っていった。
やがて彼女は、自分の辛さや苦しみの全てを、孝おじさんにぶつけるようになる。
そしていつの間にか、自分の母親と同じような子育てをしはじめた。都子ちゃんの自我を認めず、ただ自分の言葉を盲信し依存するような子供に育てようとしたのだ。
孝おじさんはそれを止められなかった。
都子ちゃんが苦しんでいるのに気づいていても、妻の心の危ういバランスを保つ為に見て見ぬ振りし続けた。
彼は妻を失いたくなかったのだ。
「……それでも離婚しちゃったんだよね」
「うん。その離婚もね、やっぱりお祖母様が仕組んだことみたい」
浮気相手とされる女性はたまたま飲み屋で隣りに座った女性だった。
酒量のわりにしたたか酔って前後不覚になった孝おじさんが目を覚ました時には、浮気の証拠とされる写真等を撮られた後だった。
「孝おじさん、濡れ衣だって説明しなかったのかな」
「したけど聞いてもらえなかったって……。たぶんその時には、ママはパパじゃなくお祖母様を選んでたんだと思う」
真実なんてもうどうでもいい。
親の言いなりになってさえいれば、なにも考えずに安心して暮らしていける。
子供の頃のように、ただ安心して暮らしたい。
そして、都子ちゃんの母親は実家に帰っていった。
「都子ちゃんのお母さん、カウンセリングを受けていれば少しは違ってたんじゃないのかな」
一卵性母娘とか親子カプセルとか、親子関係の共依存に関してはうちでもたまに話題にあがる。
ずっと友達がいなかったせいもあって、私はどうしても両親の存在に依存しがちだ。だからこそ、そうならないよう両親も色々と勉強したり気を遣ってくれているんだと思う。
「それはパパも言ってた。でもママが嫌がるから、無理強いできなかったんだって……」
「そっか」
孝おじさんは愛する人を失うことを恐れて行動に移せなかった。
でもそのせいで、都子ちゃんの母親は親との共依存から抜け出す最後のチャンスを失ってしまった。
その結果がこの現状だ。
「パパね、ママと結婚したことを後悔してるって言ってた。中途半端にママを家から連れだして、結局守り切れずに不幸にしてしまったって……」
「……」
結婚を後悔していると聞いて、なんだか凄く不愉快な気分になった。
まだ子供の私には、夫婦間の事情なんて理解しきれない。
でもふたりが結婚をしたからこそ、都子ちゃんは生まれてきたのだ。
その都子ちゃんに向かって、結婚したことを後悔してるだなんて言って欲しくなかった。
私がむっとすると、その顔を見て都子ちゃんは笑った。
「私もね、たぶんそんな顔になったの。ムカッときて、勝手なこと言うなってパパを怒っちゃった」
「怒って当然だよ」
「うん。……一回怒ったら、もう止まらなくなって文句を言いまくっちゃった」
自分達は別れればそれで終わりなのかもしれないけど、後悔する結婚で生まれてしまった子供はどうすればいい?
離婚した途端、母親は母であることを辞めて娘になってしまった。娘の結婚を望んでいなかった祖母からは厄介者扱いされて、祖母に従属する母親からまで虐げられて、自分にはもう居場所がない。
そもそも、母親から父親の悪口を言えと強要されていた時に、どうして助けてくれなかった?
大好きな父親の悪口を言わされて、苦しんでいたことぐらいわかっていただろうに……。
酷いこといってごめんなさいと謝った時、気にするなと慰められるより、辛いことはもう言わなくていいんだと言って欲しかった。
酷いことを強要してくる母親から、助けて欲しかった。
もう大丈夫だよと、安心させて欲しかったのに……。
都子ちゃんは今まで心の中に留めてきた不平不満をすべてぶちまけた。
――ごめんな。都子の言うとおりだ。
怒る都子ちゃんに、孝おじさんはただひたすら謝ったのだそうだ。
――あの頃の俺は、親になりきれてなかった。そのことも後悔してるんだ。だからもう一度やりなおしたい。都子とちゃんとした親子になりたい。
「親子になりたいって言われて、凄く嬉しかったの。私にも守ってくれる人ができたんだって……」
都子ちゃんがぐすっと鼻をすすり、瞬きする度に黒くて長い睫毛が涙に濡れる。
鼻をすすっていても、私の友達は綺麗だ。
私はなんだか凄く嬉しくなった。
「そっか……。むしろ謝らなくて正解だったんだね。謝っちゃったら、都子ちゃんが悪いことをしたってことになっちゃうもの」
そうだ。都子ちゃんはなにも悪くない。
幼い頃から、歪んだ母親の意思に従わされてきただけなんだから……。
親の愛情を必要とする子供にとって親の言葉は絶対だ。
大好きな父親の悪口を言わされてきた都子ちゃんは被害者だった。
だから、謝らなくて正解。
孝おじさんはそれがわかっていたから、都子ちゃんを謝らせず、ちゃんと正しく怒れるよう誘導してくれたのかもしれない。
そうならいいなと私は思った。
「ちゃんと怒れてよかったね」
「ありがとう」
都子ちゃんは、とてもすっきりした顔をしていた。
時計を見ると、もう十二時過ぎていた。
「そろそろ寝なきゃいけない時間だ」
「……そうね」
スパルタ都子ちゃんのお蔭で、試験勉強のほうは問題ない。
むしろ寝不足のほうが大問題だ。
「孝おじさんに、おやすみなさいしてこようか?」
私が都子ちゃんを促してリビングに行こうとした時、慌ただしい足音と共に扉が開いて、血相を変えた母が現れた。
「都子ちゃん、お父さんはお酒飲める?」
「え、はい。普通に飲んでました」
「じゃあ、アレルギーは?」
「ないと思います」
「ああ、よかった」
ありがとうとお礼を言うと、母は慌ただしくリビングに戻っていく。
ただごとじゃない雰囲気に私達も後を追った。
リビングに行くと、孝おじさんがソファに寝かされていた。
「パパ!」
「きゅ、救急車……」
都子ちゃんが孝おじさんに駆け寄っていき、私はあわあわとその場で足踏みした。
「アレルギーもお酒も大丈夫よ」
「そうか。よかった。――都子ちゃん、芽生、心配するな。三ツ谷さんはたぶん寝てるだけだ」
父達は、都子ちゃんのことをある程度話し合った後、お近づきのしるしにとビールで乾杯していたのだそうだ。
「ひとり暮らしだっていうし、かなり疲れてるみたいだから泊まるように勧めたんだよ」
最初は固辞していたが、父がうちにいる間の都子ちゃんの様子を教えると言うと、あっさり折れてくれたそうだ。
そして泊まるのならばと、大人同士の交流を図るべくビールで乾杯して、ぐいっと半分ほどビールを飲み干して……。
「そのままひっくり返っちゃったんだ。いやもうびっくりしたよ。飛行機であまり眠れてなかったのかもしれないな」
「娘の無事を確認して、一気に疲れが出たのかもしれないわよ」
とりあえず三十分程度ここで様子を見て問題ないようなら、都子ちゃんの部屋のベッドで寝かせると父が言う。
「都子ちゃんは芽生の部屋で寝てくれるか?」
「はい。あの……父がご迷惑を……」
「気にしなくていいのよ。どうしてもっていうなら、ちょっとお手伝いしてくれる?」
「はい!」
都子ちゃんは母に連れられてリビングを出て行った。
私は、孝おじさんが寝やすいように襟を緩めたり、ベルトを外したりしている父の側でぼんやりしていた。
「どうした?」
「んー……都子ちゃん、いつまでうちに居てくれるのかなぁって考えちゃって……」
父親に会えたからと言って、明日からすぐ一緒に暮らせるようになるわけじゃない。
でも、そう遠くない未来に都子ちゃんはうちを出ていってしまうだろう。
「寂しくなっちゃったか」
「うん。ちょっとね。……でも、いいことだし」
「そうだな。ただ、当分の間は家に居ることになると思うぞ」
「そうなの?」
「ああ。現状じゃ都子ちゃんが三ツ谷さんと一緒に暮らすのは難しいからな」
都子ちゃんの親権を持っているのは母親だ。父親と暮らすには、母親の同意を得るか、親権を父親に移す必要があるという。
「都子ちゃんのお祖母さんはかなり強烈な人物みたいだし、下手すると誘拐されたって騒ぎそうだろ?」
「そだね。うちにいるのは大丈夫なの? 私達、誘拐犯になったりしない?」
「うちは大丈夫さ。なにしろ、都子ちゃんは友達の家に遊びに来てるだけだからな」
ひとり暮らしの友達がトラブルに巻き込まれたことをきっかけに、落ち着くまで保護しているだけ。
つまりは善意の第三者というわけだ。
「親権取るのってやっぱり大変なのかな」
「話し合いで済めばいいが、向こうの家は三ツ谷さんを毛嫌いしているみたいだし、たぶん裁判になるだろうな。その時は芽生も協力するんだぞ」
「私にもなにかできることあるの?」
「あるさ。うちにいる間に都子ちゃんの母親から連絡が来てなかったって証言できるし、都子ちゃんから家族の話を聞いて芽生がどう感じたのかを話すだけでも、きっと三ツ谷さんの助けになるよ」
「そっか。じゃあ頑張る」
都子ちゃんは、ちゃんとした親子になりたいと孝おじさんに言われて凄く喜んでいた。
都子ちゃんのためにも、なんとしても孝おじさんに親権を取ってもらわなきゃならない。
「それとな。三ツ谷さんは都子ちゃんと一緒に暮らせる部屋を探すそうだ。だから、うちの近くで探すようにって勧めておいたよ。今回みたいに三ツ谷さんが長期出張に出ることがあったら、都子ちゃんだって近くに知り合いがいた方が安心だろう? なんだったら、その間だけうちで暮らしてもいいわけだし」
だからそんなに寂しがらなくてもいいぞと、父が言う。
いつもそうだ。父はこんな風に先回りして私の不安を和らげてくれる。
いつも私は両親に守られて生きてきた。
でも、都子ちゃんは違う。
――私にも守ってくれる人ができたんだって……。
私は、都子ちゃんが涙ぐみながら言った言葉の意味を、やっと本当に理解できたような気がした。
両親の間に挟まれた都子ちゃんがどんなに悲しかったか、母親の実家に戻った都子ちゃんがどんなに不安だったか、分かっているようでわかっていなかった。
相変わらず私の理解は上っ面ばかりで実感がまだまだ足りてない。
親だなんて名ばかり、自分のことばかり考える大人達に囲まれて、都子ちゃんはずっとひとりだったのだ。
母親の意思に流されてしまえば楽だっただろうに、都子ちゃんは自分を手放さずに、ひとりで戦い続けてきた。
今は私と一緒に笑って暮らしてるけれど、ここは都子ちゃんにとって一時的な避難所だ。
都子ちゃんの足元はまだ不安定で、いつひっくり返されて転ぶかわからない。
心から安心できる場所に辿り着くまで、都子ちゃんの戦いは終わらない。
「うう~ん」
気持ち良さげに眠っていた孝おじさんが、唸りながら軽く身じろぎする。
起きるかな? と見守っていたけど、すぐにまた眠ってしまった。
「……起きないか」
「だね。孝おじさんって、やっぱり都子ちゃんに似てるよね」
「そうだな。目元のきりっとした感じがそっくりだ」
「イケオジだね」
父と二人で孝おじさんの寝顔を眺めていると、「どうかしたの?」と都子ちゃんもやってきた。
不安そうな声は、私達が孝おじさんを眺めているのを、具合が悪くなってのことだと勘違いしたようだ。
「寝顔を見てたんだよ。都子ちゃんに似てるなぁって」
「そう。……パパが痩せたせいで以前より似てるかもね」
「そういえばお腹出てないね」
「パパ、ちゃんとご飯食べてるのかな」
「心配?」
「うん。……夕香さんのお蔭で料理のレパートリーも増えたし、一緒に暮らせるようになったらたくさん食べさせてあげなきゃ」
「そだね」
都子ちゃんがその日を迎える為には、越えなきゃならないハードルがまだいくつもある。
寂しがるより先に、はじめての友達の為にできることがまだたくさんあるはずだ。
「私も頑張ろう」
都子ちゃんが安心して暮らせる場所に辿り着けるように……。
「芽生ちゃんは料理を作る前に、もう少し包丁を使う練習したほうがいいと思う」
気合いを入れるための私の独り言は、残念ながら都子ちゃんに誤解を与えて、危ないから無茶しちゃ駄目よと逆に心配される結果となった。
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次話は、お買い物。
台風被害があまり酷くならずにすみますように……。




