第4話
ここから異世界に入ります。
どのくらい潜り続けたのか、意識が遠退きはじめた頃だった。どんどん暗くなっていくだけだった視界が、急に明るくなってきたのである。私は男性の言葉を思い出し、一目散に上へ、上へと泳いで行った。
何故かあの女性は既にいなくなっていて、身体も自由だったので、浮力に任せてひたすら泳ぎ続ける。そうしてやっと水中から顔を出すことが出来て、死に物狂いで岸まで辿り着いたのだ。
恐ろしい体験のせいか、それとも寒さのせいか、身体がガタガタと震えて止まらなくなっていた。私は改めて振り返ると、そこは私とあの男性が語った、見覚えのある場所ではなくなっていた。
池なんて小ささではなく、一瞬海かと見間違うほどの大きな湖である。周囲は拓けていて、太陽の光が燦々と降り注いでいる。対岸の奥には森が広がっているようで、その奥の様子は伺い知ることが出来ない。
まさしくあの男性の話通りの光景が、私の眼前に広がっていた。私も恐らくあの男性と同じような顔で、呆然と目の前の湖を眺めるしか無かった。
水面に太陽の光がキラキラと反射している。ゆらゆらと穏やかに揺れる湖の様子を見て、本当に先ほどの出来事は本当にあったことなのだろうか、ついに自分がおかしくなってしまったのか、奇妙な夢だったのではないかと考え始めた。
「あぁっ! 参ったな……一体、どうしたもんか」
私は飛ぶように立ち上がり、声が聞こえた後ろを振り返る。まさか話に聞いた爬虫類人間か、それとも別の怪物かと身構えた。しかし、現れたのは同じように驚いた表情を浮かべる男性だった。明らかに普通の人間だと信じられる人に会い、私はやっと安堵する。
彼は明らかに異国人と思える容姿だった。赤毛とブルーの瞳、密生した髭をやや湾曲させ上へ跳ね上げる形に整えている。デザインは古めかしいがよく手入れされた黒みの強い茶色のジャケット、下に来ているのは新品のように白いシャツ、首元には緋色のスカーフがネクタイ代わりに巻かれている。180cmを超えるにも関わらず、その長身が貧層に見えないほど堂々たる体躯の男だ。
その人は同じように私を一通り観察すると、慌てて傍まで駆け寄った。
「一体、どうしたって言うんだ! びしょ濡れじゃないか。湖にでも落ちたのか?」
突然出た日本語に驚きつつ、そういえば先ほど聞こえてきたのも母国語だったと思い出す。
「ええ、まあ、落ちたんですが、ここでじゃなくて……」
「そりゃ大変だ! こんな格好じゃ風邪をひくぞ。とにかく、うちまで行こう。ああ、いやいや、それは駄目だったんだ」
彼は私の話を最後まで聞かず「とにかく来い」と早急に言って私の手を引き、ずんずんと先に進んでいく。私は一度だけ振り返って、穏やかな湖を後にした。
短い林道と抜けるとすぐ街に出た。道すがら見かけた人たちは男性のような異国の人ばかりで、皆一様に19世紀かと思うような古い恰好をしていた。それだけなら文化の違いとも思えるが、異様に耳が長かったり、尻尾や羽が生えていたり、手が獣のような者が普通にそこらを歩いていて、私を一々混乱させた。
やはりこれは夢なのだろうか。そうでなければ、ここは異国というより異世界と呼ぶ方が妥当であろうと思い始めた時、一軒の家の前で足を止めた。
「さぁ、着いたぞ。早く入れ、入れ」
男性に急かされながらレンガ造りの建物に入る。すると、私と同い年くらいの、菫色の髪を持つ青年が奥から慌ただしく出てきて、怪訝そうな顔で私と男性を交互に見た。
「どうしたんだ、エルスハイマー。こちらの方は?」
「湖に落ちたらしい。タオルを持ってきてくれ。それから、オルメスはいるか?」
「今日はどこにも出かけてないよ」
「そうか、良かった。ああ、それからあんた……えーっと、名前は?」
「山口広也です」
「ヤマグチヒロヤ……聞き慣れない名前だな。すまんが、どれが名前だ? 呼ばれたい名前でも良いが。愛称とか」
「広也です。そう呼んで下さい」
「分かった。じゃあ、ヒロヤ。グウィン……そっちの男から、シャワーを借りてくれ。じゃあグウィン、後は頼んだぞ」
グウィンと呼ばれた青年は「分かった」と頷き、好感の持てる笑顔でシャワー室まで案内してくれた。
「タオルは後から持ってくるよ。脱いだ服は、そこの籠に入れておいて」
「あ……ありがとうございます」
礼を言うと青年はニッコリと躑躅色の目を細め、軽く頭を下げて出て行った。私は言われた通り服を脱ぎ、植物で出来た籠の中に入れた。それは細い蔓を編み込んだもので、指先で触ると陶器のようにつるりとしていた。試しに少しだけ押してみると、グニグニと固いこんにゃくのような弾力で押し返してくる。不思議な感触に好奇心を刺激され、籠を持ち上げて良く観察してみるが、私の知識ではこれが何の植物なのか、そもそも本当に植物で合っているのかも分からなかった。
浴室に入ると、浴槽は無くシャワーだけが設置されていた。壁は灰青色の石材で出来ており、窓も無いのに室内は明るい。なのに、壁や天井を見ても、灯りらしきものは見つからなかった。
私は疑問ばかりを浮かべながら、シャワーのつまみを探す。しかしそんなものは無く、代わりにルビーのような石が壁に埋め込まれており、壁の中で煌めいていた。浴室に宝石があるというのもおかしな話である。一体何かとそれに触れてみる。すると上から突然丁度良い温度のお湯が降り注ぎ、思わず驚いて声を上げた。
身体を飛び退かせて距離を取る。見上げれば、何も弄っていないシャワーからザアザアと雨のように湯が出ている。もしかして、この宝石がシャワーを出したり、止めたりするための装置なのだろうか。私はもう一度その宝石に触れてみる。お湯はぴたりと止まり、私はこの現実か夢か分からない世界の奇怪さを再認識したのである。
お付き合い頂きありがとうございました。