第2話
ひたすら男性の語りです。長くなりますが、お付き合い頂ければ嬉しいです。
「先週の日曜日のことです。私はこの時間、今立っているこの場所で釣りをしていました。この池に来たのは、その日が初めてです。私は普段、暇な時には家を出て、近所の池で釣りをして時間を潰しているのですが、向こうのタワーマンションに住んでいる同僚が、雰囲気が良いからとこの池を勧めてくれたので、その同僚と待ち合わせをして朝から一緒に釣りをする約束をしていたんです。
その日、約束の時間より早く着いてしまった私は、先に始めていようと早速釣り糸を垂らしました。よく釣れるとも聞いていなかったですし、同僚が来るまでのんびり浮きでも眺めていようと思っていたんです。
しかし、釣りを始めて10分経ったか経たないかくらいの頃でしょうか。急に浮きが沈み、竿が勢いよく引っ張られたんです。鯉やフナなら釣ったことがあるので分かりますが、その引きは明らかに経験したことが無いものでした。変な外来魚かとも思いましたが、そんな生ぬるい引きじゃありませんでしたよ、あれは。まるで、鯨か何かでも食いついているような感覚でした。このままじゃ池に引きずり込まれると思って、竿を離そうとした、その時です。
ザパッ、と、まるで水中から飛ぶように、そいつが現れたんですよ。イルカかシャチに似たような顔でしたが、頭部だけで1mはありました。大きなヒレが、腹部に6本……それから、鋭く尖ったくちばしと、細かいギザギザした歯が沢山生えていました。よく覚えています。あんなに大きくて恐ろしい生き物は、見たことが無かったんですから!」
興奮しきったように悲鳴みたいな声で言い切ると、彼は肩で息をしていた。私は黙って頷きながら聞いていた。呼吸が整うのを待って、ゆっくりと口を開く。
「まるで、海にいた恐竜みたいな生物ですね。太古の生き残りでしょうか」
「分かりません……ただ、とても恐ろしかったことだけは確かです。でも貴方の言う通り、恐竜と言われても納得できるほど大きかった。全長は見ていませんが、たぶん10mは超えていたと思います。身体も丸々と太ったようで、大きくて……それから、真っ赤でした」
「真っ赤?」
「ええ。全身、真っ赤な身体をしていました。間違いありませんよ」
私は改めて池を見る。ここに真っ赤な色をした、10mを超えるほどの生物がいたとは到底思えなかった。もしそれが本当にいるのだとすれば、瞬く間に発見されてしまうだろうと考える程度にはごく普通の池であり、大型の生物が隠れられるほどの水深も無さそうだ。
「私はそいつを見た瞬間、まるで身体が動かなくなったんです。釣竿を離すことも忘れて、ただ茫然と、馬鹿みたいに突っ立っているだけでした。そいつは大きな身体を見せつけるように飛び上がった後、そのまま水中へ潜っていきました。釣竿を離さなかった、馬鹿な私がどうなったのか想像が出来るでしょう。そのまま、池の中に引っ張られてしまったんです。
本当に、どうしてすぐに竿を離さなかったのか……今でも後悔しています。ただ、どうしてもあの時は動けなかったんです。人間って、どうしようもなく怖い目に合うと、何も出来なくなるものなんですよ。そのまま私は、間抜けにも竿を掴んだまま、ずーっと水中の奥へ、奥へと引っ張られて行きました。
このままあの怪物に食われるのか、それとも溺れ死ぬのが先かと考えました。でも、急にアレッと思ったんです。だって、底に向かっているんだから、暗くなるか地面に当たるかのどちらかでしょう。それなのに光が見えるんですよ。
私はそこでやっと竿を離して、光の方へ向かって泳いで行きました。するとね、水中から上がれたんですよ。呼吸が出来て、やっと安心して、でも怪物がまた来るといけないから、必死で岸まで泳ぎました。どういうわけか、あの怪物は追ってきませんでした。無事に岸に着いて呼吸を整えながら目の前の景色を見ていると、またアレッと思いました。私が釣りをしていたこの景色とは、まるで違っていたんです」
そう言って、男性は周囲をゆっくりと眺めた。私もつられて同じように見回す。広葉樹で囲まれた薄暗い景色と、木々のサワサワという音、時折聞こえる鳥の鳴き声、土と枯れ葉と苔の匂い、静かに揺れる池の水面。それらが、私たち二人のいるこの池の全てであった。
「その場所は……池というよりも、湖という方が正しいような広さでした。向こう岸に山脈が見えて、水の色も、こういう濁った緑みたいな色じゃなく、トルコ石みたいな綺麗な青い色でしたよ。
私はしばらく、ぼーっとその光景を眺めていました。夢を見ているんじゃないか、もしかしたら自分はもう死んでいるんじゃないかと思ったんです。
どのくらいそうしていたでしょうか。多分、一時間は過ぎていないと思いますが、急に辺りが騒がしくなりました。何事かと思って振り向くと、後ろには森みたいな木が沢山生い茂っていた場所があったんですがね、そっちの方から何やら声が聞こえてくるんですよ。人がいると思った私は、喜び勇んで声のする方に向かいました。早く家まで帰りたいという一心で、助けて下さいと叫びながら。
でも、私のその行動は間違いだったんです。私の声を聞きつけて来たそいつらは確かに二足歩行でしたが、決して人間なんかじゃありませんでした。
身長は私を軽く越して、バスケット選手みたいな高さでした……多分、2m近いと思います。皮膚は茶色、緑、青色と、個体によって違いました。どれも人間の皮膚とは程遠く、鱗がびっしりと生えていました。目は琥珀みたいな色で、真ん丸でした。その丸い目で、一斉に私の方をギョロッと見たんです! 思い出しただけでも恐ろしい……5,6体はいるそいつらに一斉に睨まれて、私は情けない声しか出ませんでした。後ずさりすると、一番前にいた、一際大きな奴が、チロチロと赤い舌を出し入れしながら、ゆっくりとこっちに近づいてくるんです。私は一目散に逃げました。どう逃げたのかは覚えていません。ただ、森の中を縦横無尽に走り続けました。
気が付くと、洞穴の前までやってきました。ヘトヘトになっていた私は、洞穴の中で休むことにしました。ふと空を見ると、もう夜だったんです。辺りは真っ暗だったのに、そんなことにも気づかないほど夢中で走って逃げたんだと思うと、改めて自分の体験がまた恐ろしくなりました。当然、眠れるはずもありません。私は少し洞穴から頭を出して、夜空を眺めることにしました。
遮るものと言ったら木々くらいで、電灯も家の灯りもネオンも無い場所でしたから、星が綺麗に見えました。満天の星空なんて、人生で初めて見ました。星っていうのは凄いものでね、一瞬、あの恐ろしい出来事を忘れさせてくれるんですよ。ええ、星だけなら、本当に素晴らしく、私の心を慰めてくれました。
でも、月は違いました。大きくて、真ん丸の満月です。紫色の、見たいことが無い色をしていました。赤い月なら見たことがあります。だけど紫色の月なんて、見たことも聞いたこともありません。
私はまた怖くなって、洞穴に潜ったその時です。奥から、ウ~ッ、ウ~ッ、と獣の呻き声みたいなものが聞こえて来たんです。私は尻もちをついたまま後ずさりました。ズシン、ズシン、と何かが近づいてくる音が聞こえてきます。あの呻き声も近くなってきました。そのままじっとしていたら、きっと食べられていたか、八つ裂きにされていたでしょう。私はまた一目散に逃げだしました。
逃げて、逃げて……またあの湖に戻って来ました。水面にはあの紫色の月が揺れていました。そこからの記憶はおぼろげなんですが、何か歌が聞こえていたような気がします。とにかく、あの湖に着いてから、頭がボーッとしてしまって、よく覚えていません。ただ湖に入らなければと思いました。私は躊躇することなく、湖にどっぷりと浸かりました。今思えば、あの怪魚がいる水中に入るわけがありません。でもその時は、そんなこと全く考えもせず、まるで引き寄せられるように入っていけたんです。
ただ、これだけはよく覚えているのですが、全身が水に浸かった時、すごい勢いで足が引っ張られました。私は水中に引きずり込まれ、グングンと水の底へと沈んでいきました。必死で下を見ると、髪の長い女が私の足を掴んで、引っ張っていたんです。そいつは私の顔を見て、ニタリと笑いました。
随分と水中の奥に行った気がしますが、また光が見えました。私は必死でそこまで泳いで行くと、無事に岸まで着くことが出来ました。あの女はいませんでした。そしてよく見ると、私が辿り着いた岸はまさにこの、あの時釣りをしていたこの場所でした。私は帰って来れたんです! 命からがら、何とか戻ってくることが出来ました。
丁度同僚が来て、びしょ濡れで真っ青な顔色の私を見ると、すぐに駆け寄って心配してくれました。私はもうパニックになってしまって、あの出来事を包み隠さず話しました。しかし、同僚は信じてくれませんでした。神妙な顔つきになって一つ頷くと、私を病院まで送り届けました。医者には、釣りをしていたら誤って池に落ち、一時的なパニック状態になっていると説明したようです。医者もそれを信じて、身体に異常がない事が確認されると私は家に帰されました。
確かに非現実的な話です。でも事実です。私はこれを家族にも話しました。しかし妻も娘も息子も誰も信じてくれず、息子に至っては話のネタになるとからかうばかりで、妻は私の精神がおかしくなったのだと言い出し……でも本当のことなんです。夢でも幻覚でもなく、実際に私が体験した話なんです!」
お付き合い頂きありがとうございました。