底辺作家がなろうのポイント議論に際し感じたおことば。
なんか話題になってるエッセイがあったので読んだ。
暇にかまけて腱鞘炎になりそうなほどキーボードを叩いてはなろうに投稿している、来年就活を控えている大学三年生にとっては非常に耳の痛くなる(或いは目の痛くなる)話であった。
しかしそれは理性で考えてみればの感想であり、直感的にそれを見て最初に思ったのは、
「うわっ、なろうの作者間でもオフ会とかやってんのけ!」ってのと、「俺にとってはなんと贅沢な悩みなんだろう」といったようなことだった。
前者。Twitterで作家フォロー。交流。オフ会。なるほど、そんなこと思いもよらなかった。家がド田舎で街に出るのが非常に億劫な俺にとってはかなり大変そうな行為だが、しかし創作活動に関しては非常に大きな刺激となりうるだろう。参考にしたいなと素直に思った、というかツイッターアカウント作ろっと。
後者。このクソ底辺作家の俺ですら、ありがたくも60ポイント少々は頂いてる。この世界には0ポイントの小説なんてザラだし、実際俺の短編はだいたいそうだ。
けれどなんだろう。この世界、マイナスの点ってのが無いですからね。下には限度があるわけです。
ポイント一辺倒になるというのは、正確に言うと「より高いポイントを目指すこと一辺倒」ということですよね。実際劣等感からその競争意識は来る訳ですし。
そう言うときはですね、言い方は悪いですが下を見るのがいいんじゃないかと思ったわけです。
下ってのは別に他者のことじゃありません。過去の、ポイントが低かったころの自分です。
そんなときに一つついたブックマークの喜び。それを振り返ればいいと、そういうことですよ。
要するにその時の喜びを失いさえしなければ、手厳しく現実を突きつけてくる友人に対しても反論できるわけです。理屈で返すことは出来ず、感情的に「ただ楽しく、嬉しいから」と返すほかないわけですが、熱意っていうのはこの寒く世知辛い世の中でもまだまだ人の心を動かす力があるわけです。松岡修造がそれを証明してくれています。
ですから、熱意を失ってしまった人に対しては処方箋を示すことは出来ません。鉄は熱くなったうちに打たねば、歪んだレールは元に戻せないでしょう。
しかし人間は火薬では無く鉄なのです。燃やせばそれっきりの火薬と違い、鉄は熱せればまた温まります。
ですからどんな作家も、一度筆を握ったからには再び握れるようになる時が来る訳です。死なない限りはね。あの見るからに偏屈の権化といった様子の筒井康隆すらそうなんだから。
あーあ、俺も議論巻き起こしたり、みんなから熱いメッセージ送られたりしてえなあ。
一度でいいから大論争の中心になってみたい、肥大化した自意識の塊である一底辺作家からでした。
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