サラリーマンの苦悩は世界を救うか
あんなに怒ることないじゃないか。
シンは2時間ずっと怒鳴り続けていた上司の顔を思い出し、溜息をつく。
帰り道の踏切は、先ほどから鳴りっぱなしで、まるでシンの帰り道を阻んでいるようだった。
担当する地区で行われたイベントの帰路に、シンはいた。
彼はイベントの実行委員を任されていたのだ。
イベントは混乱こそあったものの、大盛況のうちに幕を閉じた。
しかし、その出来が上司にとっては甚だ不本意だったらしい。
企画で提示されていたものとは違う仕上がりになってしまうことは、重々承知していた。
ただ、提示された計画書の通りでは、客先が求めるものは手に入らなかっただろう、とシンは思う。
「結果的によかったから、では済まないんだ! 何故言われたとおりに出来ない!」
シンの言い分を聞いた上司は、そう言ってはまた声を荒げていた。
しかし、自分の独断で得たものは少なくないはずだ。
関わった人たちは最初こそ混乱してはいたものの、結果的には目に涙を浮かべて喜んでいたのだ。
嫌なことは忘れよう。
帰りのコンビニで、普段よりちょっと高いアイスでも買おう。
こういうときに酒でも飲めればな、とシンは苦笑いをする。
彼は大の甘党で、酒は一滴も飲めないクチだった。
しかし、気を抜くとまた厳しい叱責が脳裏をよぎる。
「いいか、お前がやっていることは自己満足だ。決まっている通りにやって、初めて数字を出す必要がある。今回は先方も喜んでくれていたから、まだいい。でもな、仕様を勝手に変えて、成果が出なかったら賠償じゃ済まないんだぞ!」
真っ赤に染まった頭。
上司はまさに怒髪天を衝く勢いで、激昂していた。
それでも、シンは自分の行ったことを間違えているとは思えなかった。
「1623円になります」
コンビニでレジを打つ若い女の子が言う。
シンは慌てて財布を取り出し、そして今が給料日前だという事を思い出した。
財布には、明日と明後日の昼食代がギリギリあるだけである。
「すみません、やっぱりいいです」
自分へのごほうびを買い損ねたシンを見送るのは、かわいらしい女の子の舌打ちだった。
「言われた通り、やってりゃいいんだよ」
シンに仕事を教えてくれた先輩は、よく彼にそう言った。
でも。シンは彼のことを思い出す。
そう言っていた先輩は、成果を出せず仕事が回されなくなり、今ではゴロツキのような真似をしているらしい。
そうはなりたくない。人の為になってこその、仕事じゃないか。
「ただいまー」
誰もいないアパートのドアを開けながら、シンは言う。
寂しい行為ではあるが、やめるにやめれない。長年の彼の習慣なのだ。
安普請のドアを閉め、冷蔵庫から作り置いているアイスティーを飲み下す。
冷たい液体が喉を過ぎていく。
しかし、飲み下せない何かがずっと詰まっていた。
「燃料稼げるからまだいい。納期が少し先になるもの、先方は納得してくれた。だがな、お前何の許可も得ないでこんな真似して、燃料先に寄越せっていわれたらどうすんだ? お前がどっかから持ってきてくれんのか?」
何をしていても、あのハゲ頭の言葉が再生されてしまう。
わかっているんだ、そんな事は。
ただ、地域に根付いた人々との交流を深めすぎてしまった彼には、どうしても仕様書のままに住民達が殺戮されていくことは許せなかった。
「住民共なんて、どうせまた生まれるんだ。疫病を流行らせて魂集めるのも、神の仕事だろうが。勝手に特効薬の作り方なんて教えちまいやがって。ただいい人してるだけじゃ、仕事なんて出来ねえんだぞ」
怒鳴りつかれたのか、上司は最後にそう静かに言った。
わかっている。
それでも、自分を信仰してくれる人々を、ただ見捨てることは出来なかったのだ。
あの川沿いの村は、いずれ繁栄して今より多くの魂を得られるだろう。
社内での彼の評価は下がるだろうが、客先もシンの提出した資料の見込み回収量を見て頬を綻ばしていた。
長いスパンで考えれば、あの川沿いの村が発展しないわけがない。
「アイス食べたかったなあ」
大勢の命を救った神は、そっと愚痴った。
薄汚れた天井を眺めながら、意識に逆らうようにまぶたが下りてくる。
そうして彼は適度な疲労感に包まれ、薄い布団の上で眠りにつくのだった。




