八
既に黄昏と言うより宵に近かった。監獄の門では、警備兵とそれを取り囲む巴里市議会議員その支持者が揉み合っていた。わたしたちが来たのに気付くと、一層声が高まり、手薄な警備の中、本日逮捕された人たちが解放された。ロベスピエールの弟のオーギュスタン、そして兄のフィリップ・ルバ。レオンはここにいなかった。
「逮捕後、我々は別々の場所に収監されたんだ。ほかの監獄にも助けの手は回っている。レオンもロベスピエールさんも同じだよ。これから皆で巴里市庁舎に向かう」
ほかの人たちと、わたしたち三人は巴里市庁舎へ歩み始めた。
「もう家に帰りなさい」
「いいえ、せめて市庁舎までご一緒させて」
「判った。でも危険な場所があればそこで帰るんだよ」
「ええ、ええ、でも大丈夫よね」
「愛するエリザベート、命よりも大切なエリザベート、子どもは?」
「眠っているので、お隣に預けてきました」
「一目顔を見ておきたかった」
「あなた!」
「あの子は母乳で育ててくれ。決して手放さないで、大事に育ててくれ。そして、父が祖国のために立派に死んでいったと教えてやってくれ。愛国者になるよう育ててやってくれ。Adieu、愛しいひと、さらば」
「フィリップ、これで永のお別れなんて言わないで」
「いいや、恐らくは二度と会えない。
アンリエット、エリザベートを、小フィリップを支えてやってくれ」
「どこまでできるか自信はないけれど、力は尽くします。フィリップ兄さんもレオンも勝ち残れるように、祈ります」
涙に曇りながらの道行きだった。このまま巴里市庁舎に着かないでずっと歩いていけるのならどんなに良かったのだろう。義姉はただ夫を失いたくない一心だった。兄は妻と子を思い遣り、わたしを頼るように繰り返した。正気を保てるかどうかの混乱の中、兄の言葉を忘れまい、この光景を忘れまいと、必死になっていた。
このまま地の果てまで歩いても苦しくないのに、巴里市庁舎に到着しつつあった。既に大勢の人たちが集まっていた。入口近くまで、私たちを通してくれた。
兄は義姉を抱き締め、何度も語りかけていた。妹には関われない世界だ。
オーギュスタン・ロベスピエールとフィリップ・ルバが到着したと告げる者があったのだろう、市庁舎の中からレオンが出てきた。
「アンリエット!」
レオンはわたしを抱き締めた。
「この危険な中、よくここまで来てくれた」
「レオン、一体どうなってしまうの? どうか一緒に連れていって頂戴」
「いいや、私が死の時に女性を道連れにしたと言われたくない」
ああ、もうそこまで覚悟したのだ。レオンも兄も……。
道連れになりたいと願うのは思い上がりだろうか。でも、それはかれの美意識だ。わたしはまだ妻ではなかったし、子もいなかった。このまま別れゆくのが一番傷つくまいとレオンが考えているのが伝わり、編み上げた布地が解けていくような、糸が双手から滑りゆく、覚束なさ。息が詰まりそうなほど、かなしかった。なぜわたしの心を知りながら、それを叶えてくれなかったのだろう。
「わたしも義姉と同じで、こんな所で永のお別れになるのは辛いの。
あなたを夫と呼べないままなのは、残念だわ、せめて、せめて……」
言葉が続かなかった。
レオンはわたしを長い時間見詰めた。そしてもう一度抱き締め、口付けをしてくれた。
「これがレオン・ド・サン=ジュストとアンリエット・ルバの婚礼だ。あなたが受け取るべきものは私自身。これを持っていてくれ」
レオンはわたしに一冊のノートを渡した。
「これは……」
わたしたちの諍いの元になったノート。
「これをあなたに渡す。手元に残そうが、焼き捨てようがあなたの望むようにしてくれ。でも私の想いを知っていてくれ。あなたを愛している。あなたは全てを受け取る資格がある」
「レオン……」
「今まで私があなたにしてきたことを許してくれるか?」
許すも何も……。わたしはできるだけ穏やかな表情をしてみせた。
「あなたはわたしの道徳そのもの。あなたは何も恐れないで」
レオンは微笑んだ。
「さらばだ、私の最愛のひと」
「さようなら、さようなら、レオン、わたしの愛しいひと!」
ふたたびレオンはわたしにキスをすると、振り向かず、市庁舎の中へ入っていった。
兄もまた、レオンに続いた。
狂騒のなか、わたしと義姉の周りだけが重苦しい沈黙が占めていた。
「帰りましょう、赤ちゃんが心配よ」
わたしが声を掛けると、義姉は力なく肯いた。
「どうなるのかしら」
「もう、どうにもならないわ。わたしたちは生き抜くことを考えましょう」
市庁舎へ人々が集まるのに逆らいながら、わたしたちは家路についた。
とぼとぼと歩き続けると、走りながら、「ロベスピエールとその仲間は法の保護外になった」と叫ぶ男がいた。
わたしも義姉も足を止めた。
「一体どういう意味?」
「家に戻りましょう、家で説明するから」
「アンリエット、あなたは意味が判っているのでしょ!」
「エリザベート、まず赤ちゃんよ、そして落ち着きましょう」
「わたし、怖いわ」
「わたしだって怖いわ。でも、フィリップが言ったでしょう。子どもを立派に育ててくれって」
途方に暮れたような義姉はやっとのことで付いてきた。