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 (テルミ)(ドール)の九日、運命の日だった。朝に小雨が降った所為で、だんだんと蒸し暑くなってきた。

 兄は、今日は特別な日になると、国民公会に出掛けていった。この頃は傍聴席に行かず、家で義姉と甥の身の周りの世話に明け暮れているわたしは、兄に付いていきたかったが、いつもは機嫌よく兄を見送るフィリップが大泣きをするので、懸命にあやす義姉を置いては行けなかった。

 レオンがいる、あの人がいればきっと上手くゆく、祈るような気持ちだった。

 レオンが祖国を愛し、どんなに努力しているか知っているからこそ、何事も綺麗に収まるだろうと、夏の空を見上げつつ、願った。

 ――力強く、万物を照らす太陽よ、今はレオンに力をください、わたしの命の全てを捧げて構わない、愛する男性を守って欲しい。

 正午が過ぎ、日が陰りつつあったが、まだ暑かった。街中が騒がしくなってきた。

「暴君が捕らえられた」

「ロベスピエールが逮捕された」

 そんな声が響きはじめた。

 一体何が起こったのか、信じられなかった。

 人々が国民公会で起こった出来事を触れ回るのを聞こうと、玄関先に出てみた。

「ロベスピエールとその一派はろくろく演説もできなかった。タリヤンだか、議長のコローが遮って、喋らせなかった。怒号の中、奴らは逮捕されたって話だ」

「タリヤンが暴君を倒すとナイフを振りかざした」

「暴君って誰だ? タリヤンこそ情婦(いろ)が監獄入りしていたんだろう」

「クートンもサン=ジュストも何もできないままとっ摑まったらしい」

 断片的なことしか判らなかった。国民公会か巴里市庁舎に行けばいいのか、このまま家で待てばいいのか、蜂の大群が頭の中で蠢動しているかのようだった。眩暈を感じながら、家に入った。

 義姉のエリザベートはフィリップを抱きながら、わたしに何事かと尋ねてきた。

「よく判らないわ、でも大変なことになっているのだけは判る」

 義姉は泣きそうになっていた。

「戸締りをして、兄を待ちましょう。こんなに騒がしいのでは危険だわ」

 肯く義姉を落ち着かせるようにして、わたしは扉を閉ざした。

 やがて、西日の時刻、兄が戻ってきた。衛兵たちと一緒だった。やはり兄は逮捕されたのだ。兄の立ち合いのもと、家宅捜索が始められた。

「フィリップ、どうしたの」

「大丈夫だ。まだ巻き返しできる。ただ、今日は国民公会で、こちらの発言が封じられて、反対派に付け入られただけだ。まだ、市民は我々の味方だから、安心していなさい」

 兄の名を繰り返しながら、義姉が兄の言葉を一言たりとも聞き逃すまいと側に立とうとするのを、兄を拘束する衛兵が邪魔をした。兄はひたすら義姉と甥をなだめようとし、わたしにはレオンは無事だからと伝えた。

「レオンは何もできなかったの?」

「違う。一番目に演説を始めたが、タリヤンに妨害された。かれはそれきり黙ってしまった。それから、ロベスピエールが発言を求め、演壇に上がろうとしても、議長が許可せず、大混乱になった。互いに冷静さを取り戻せば、また話し合える」

 そんな悠長な状況なのだろうか。ロベスピエール派が逮捕され、こうしてその一派の家に衛兵が捜査に来ているのだ。

 兄は、愛する義姉を嘆かせたくなかった。それだけなのだ。

 それにまだジャコバン派の民衆が動いてくれると希望があった。その希望は、斜面を転げ落ちそうになっている者を引き上げる頼母しい腕なのか、蜘蛛の糸のようなあるかなしかのものなのか。どうかたくましい腕であって欲しかった。心臓が胸の中に納まりきれないくらい激しく鼓動していた。

「私もレオンも、ロベスピエールさんたちも大丈夫だから、アンリエットはエリザベートを頼む。頼んだよ」

「フィリップ、兄さん、どうか気を付けて。レオンにもそう言って!」

「判っている。どうか落ち着いて待っていてくれ」

「フィリップ、あなた、わたしはどうしたらいいの」

「愛するエリザベート、これから私は監獄入りだ。でもすぐに解放される。この子と待っていてくれ、アンリエットを頼りなさい」

 赤ん坊を抱く義姉を抱き締めると、兄は衛兵に連れられ、出ていった。衛兵は文書の束を持ちだし、家中散らかしっぱなしにしていってくれた。

 義姉は呆然として、子を抱き、座ったままだった。わたしは涙も出なかった。黙々と家を片付けた。そして、兄の当座の着替えや毛布、食糧などを見繕って、まとめた。

「アンリエット、どうするの?」

「フィリップのいる監獄に行くのよ。すぐに解放されるといっても判らないし、お腹が空いていたら、いい考えも浮かばないでしょう。とにかく、差し入れを作るのよ」

「そ、そうね。わたしも行く」

「赤ちゃんは?」

「お乳を飲ませたら、少し眠ってくれるでしょうから、お隣の奥さんに頼むわ。今晩くらい見てくれると思う。ところで、差し入れ先は判るの?」

「衛兵さんはラ・フォルス監獄と言っていたわ」

 義姉はわたしをじっと見て、有難う、と言った。義姉のような女性が世の中、愛すべき女性と呼ばれるのだろう。わたしや、義姉の実姉のエレオノールはしっかりし過ぎて可愛げないと言われている。でも性分なのだ。やれることをやっておかなければ後悔する。

 なんとか家の片付けと、差し入れ分の荷造りを終えて、赤ん坊のフィリップを預け、義姉と二人で辻馬車を拾い、ラ・フォルス監獄へ向かった。

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