六
六月、牧月二十日、「最高存在の祭典」が行われた。画家のダヴィットの演出により、花々で街を飾り、シャン=ド=マルス広場への行進。行進の先頭はロベスピエール。シャン=ド=マルス広場には大きな山が築かれていて、議員たちや市民の代表、楽士たちが登り、賛歌を奏で、市民たちの歓声に応えた。
レオンは派遣委員としてフリューリュスの会戦に参加していたので、この祝祭には居合わせなかった。いなくてさいわいであった。
革命の成果を晴れがましく演出しただけでなく、ロベスピエールの独裁の印象を強く受けた者も少なくなかった。巴里に戻ってきたレオンは、公安委員の中の不和をまざまざと感じ取ったようだった。責任の一端はレオンにもあった。軍隊の指揮系統を預かるラザール・カルノーを無視して、強硬な攻撃を率先して行い、勝った。わたしにはよく判らないが、戦いは勝てばいいものではないらしい。当然のこと、レオンはカルノーからの怒りを買った。
レオンも兄も一層無口になり、仕事からの帰りは相変わらず遅かった。
義姉のエリザベートが男の子を出産したばかりで、家の中ではてんてこ舞いをしていた。兄はこの子どもを、自分と同じ名前、フィリップと名付けた。義姉の実家のデュプレ家――ロベスピエールが寄宿していた――も、兄も義姉には革命政府がどのようなことをしているか話をしていなかったらしい。残虐は知らせずを通し、ロベスピエールやレオン、兄は政府で立派な仕事をしているとしか知らされていないようだった。戦場の近くまで同行した経験もありながら、義姉は状況が読めず、どうして姉のエレオノールとロベスピエールさんは結婚しないんでしょう、どうしてあなたは婚約者と詰まらない喧嘩をして結婚を延期してしまっているの、と呑気にお喋りをしていた。義姉の世間知らずには呆れもしたが、赤ん坊にお乳を与えるのに障りになってはいけないからと、細かい説明はしなかった。それに、十八になったばかりでわたしを叔母さんにしてくれた甥っ子を可愛いがっていたかった。
恐怖政治は人々を恐怖させ、委縮させるだけでなく、保身のための嘘や陰謀をも引き起こす。ロベスピエールがそれに気付かぬはずがないと思うのだが、どこかあの人は浮世離れしていた。徳と理性を第一とし、自らがそうあるべきと律しているので、周囲も民衆もそのようにできると、信じこんでいたのかも知れなかった。誰もが嫉妬や不満を持たず、正直に清貧に暮らせるのなら間違いはなかったのだろうけれど、自らを無垢と言い切れる人物はそういない。
やがて、七月、熱月になった。
一月近くも公安委員会にロベスピエールは出てこなかった。公安・保安両委員会を開き、なんとかロベスピエールと反ロベスピエール派との和解を図ろうと、レオンも兄も努力したが、ロベスピエールが妥協を嫌った。旧知の仲であったダントンやデムーランを切ったのだから、公安・保安委員の中にいる腐敗分子を徹底して排除していこうと考えていたらしかった。ここまで革命が進み、反革命容疑者からの財産を没収し、国有財産として貧困層に優先的に分配しようと「風月法」が提案・可決されているのに、法案の解釈の仕方や既得権益を守ろうとのらりくらりと言をかわす人たちがいる一方、過激な行動に走り、派遣先の地方で批判を浴びている人たちがいた。
「清廉の士」は清廉でない者の気持ちが判らず、真剣になれと態度を示せば心を入れ替えると信じて疑っていなかったようだ。しかし、光源に照らされれば影が現れる。反ロベスピエール派はロベスピエールが次に誰を粛清しようとしているかと、少なからぬ後ろ暗さから不安を募らせ、憎悪を強めていったのだろう。
熱月の八日、国民公会でロベスピエールは演説した。曰く、卑怯者たちが私を暴君と呼ぶ。しかし、もしそうなら、かれらは私の足元に這いつくばるだろう。私を糾弾しないだろう。公会に革命の裏切り者たちがおり、その残酷な策謀が公安・保安両委員会を対立させている。善良なる議員諸君は私の味方だ。共和国内で正義が絶対的な権力を持って支配しなければ、自由は空虚な名ばかりのものになる。富裕な債権者に与し、貧乏人を更に絶望させる詐欺師、反革命者、かれらを追放するのは人民の義務である。
国民公会でロベスピエールは非難の嵐を受けた。それに反してジャコバンクラブでは熱烈な歓迎で迎えられた。民衆はまだ、ロベスピエール派の味方と安心した。
わたしの伝え聞く内容は以上である。