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 いつものレオンとは違っていた。

 心が揺れた。萎れた花や傷ついた小鳥を見ても、これほどは胸を痛めないだろう。あれ以来、この人のためにどれほど辛く苦しい涙を流したか知れないのに、この人の打ちひしがれた姿を見ていると、声高に罵り、弾劾することができなかった。

 額に貼りついていた髪が雫を落とし、わたしはその雫を拭った。

「兄にそのことを?」

「私事と言ったはずだ」

「そうね」

「もう私に構わないでくれ」

「いいえ、側にいます」

 わたしは濡れた黒髪をかきあげ、大理石の頬に触れた。かれにとってわたしが何の価値もない存在だったとしても、わたしにとってレオンは生命よりも大切な人だ。どんなことがあっても、気持ちは変えられない。

「君の手は温かい」

 レオンはわたしの手を取り、握りしめた。

「あなたの手は冷たい」

「雨の所為さ」

 そう、雨の所為だった。

 色の薄い青の瞳がわたしをじっと見詰めていた。レオンはわたしを抱き寄せた。息ができないくらい、きつくきつく抱き締めた。

 かれの腕、かれの胸は雨で冷え切っていた。心の奥底まで凍えているに違いなかった。

 可哀想な人。白く優しい手を地に染、花車(きゃしゃ)な肩に仏蘭西の行く末を背負ってこの人は生きてきた。新たに流される血や、使命に対する恐れや戸惑いに、水面に写った影が風ではかなくかき消されてしまうような、そんな今にもくずおれてしまいそうな、心の脆さを覚えても詮無いことだった。恐怖政治の大天使と畏怖され、敬されていても、レオンはまだたったの二十六歳の、女性のような面差しの若者だった。

 バスティーユの陥落、国王の逃亡、大恐怖(グラン・プール)、仏蘭西は混迷していた。少年だったレオン自身も仏蘭西革命の混乱のさなかに、理想の共和国を築くという強い光を探りあてた。祖国の変革を行い、革命の指導者として厳しく自他を律し、清廉に生きていく道を選びとった。少年の日の彷徨を終えて、飛び込んでいった政治の世界。その世界でレオンは数々の成功と称賛を、その手に収めてきた。それが何程のものになろう。軍人としても、政治家としても、立派に勤めを果していても、旧秩序を破壊し、新しい政策を打ち立てていく者は、常に批判や反発がつきまとう。レオンが懸命になればなるほど、人々の憎しみを受けるようになっていった。自由の権利を享受すべき民衆たちは、その権利の意味するものを知らず、自分たちを支配していた王族や貴族が処刑されていくのを、手を打って、ただ喜んでいるだけだった。

 理想が空回りしている、何かが遠ざかっている、そんなレオンの苦い気持ちが自分の胸の内のことのように理解できた。けれども、子どものようにわたしに取り縋って涙を流す、疲れ果てたこの人にどんな言葉を掛けてあげればよかったのだろう。わたしは黙ってレオンの肩を抱き締めていた。

 寂しい人。己の原理に忠実たらんとするゆえに自然な心の動きも、他人の思惑も認めない傲岸な孤独が感情に負けたのだ。果断な恐怖政治家が自らの宿命を畏れ、泣いていたのだ。

 レオンが声も立てずに肩を震わせていたのはごく短い間だけだった。青年が顔を上げたとき、青い瞳は弱々しい微笑を含んでいた。

「済まなかった」

「知らないわ。わたしが風邪をひいたらあなたの所為よ」

「返す言葉もない」

 もう少しも怒っていなかったけれども、言った。

「あなたなんか大嫌い」

「返す言葉もない」

 そんな返事は聞きたくなかった。

「あなたらしくないわ。そんなこと言うなんて」

「そうだね」

 レオンは生乾きの髪をかきあげ、座り直した。

「今晩は独りでいるのに急に耐えられなくなって、君に会いたくて、ここへ来たんだ。こんな晩の、こんな時間に悪いと思ったんだが、矢も楯もたまらず、ここに来てしまった」

「わたしに?」

「そう。それなのに君ときたら、婚約者の顔を見た途端、仕事なの? 兄さんを起こしてくるわ、なんて言い出す」

「知らないわ。あなたはこの家には私より兄さんに用があって来る方が余程多いじゃない」

 お互い顔を見合わせて、クスリと笑った。久し振りにレオンの素直な言葉を聞いたと思った。

「あまり無理をしないでね」

 言わずにはいられなかった。

「あなたも辛いわね。よく知った人が続けて処刑されていくんですもの」

 レオンは、しかし、かぶりを振った。

「辛いとか辛くないとは関係ない。それがわたしの仕事だ。この国を安定させるため必要なことなんだ」

 わたしにはそんなあなたの姿が痛ましかった。

「そうやってあなたはわたしのことなんかすっかり忘れ果てて、お仕事ばっかりしているんだわ」

「そんな悲しそうな顔をおしでないよ。私が可愛い君を忘れるわけがないじゃないか」

「知らないわ。他の女を思われるより、お仕事で忙しい方がよっぽどいいけど……」

「お莫迦さん。まだそんなことを言って、仕方のない娘だね」

 とレオンは優しくキスしてくれた。

「私は片時も君を忘れたりしないし、誰よりも強く君を愛しているんだよ」

 レオンのその言葉を深く信じてはいたけれど……。

「わたし、寂しいの。あなたはいつもお仕事に去ってしまって、わたしはいつも取り残される。あなたの気持ちも、あなたのお仕事の内容(こと)、どんなに大事なことかってよく判っているけど、あなたが側にいてくれないと、寂しくて寂しくてたまらないわ。気の紛らわしようがないくらい。

 わたし、どうしたらいいか、判らないわ」

 動揺が空気を流れた。

「済まなかった。君の聡明さや心の強さに甘えたがために、君に辛い思いをさせてしまったんだね。許して欲しい」

 わたしは首を振った。

「わたし、あなたが思っているほど頭が良くないし、強くもないわ。あなたから求められて結婚を承諾したのに、結婚する前から未亡人みたいな暮らしをしているのよ! あなたを待つだけの生活が続くのなら、別れた方が気持ちだけでもずっと楽になるわ」

 レオンはぎょっとした。

「なんてことを言うんだろう。君はどんな酷いことを言ったのか、自分で判っているのか?」

 わたしは答えなかった。心の中で何度も繰り返してきた言葉。何度も言ってしまおうと思い煩っていた言葉。取り消すことも、また説明することもなかった。どれほど激しい情熱でわたしはレオンを愛してきたかしれない。熱病に罹ったように、日々レオンを思って過していた。この炎は如何なる力を以てしても消し去れはしまい。かれにはわたしを一番に思って欲しかった。二番、三番は死んでも嫌。かれの心を占める一番の存在になりたかった。一番になれないのなら、レオンを失ってもいい。傲慢の罰を受けても一向に構わなかった。

「君の意見は尊重したい」

 レオンは言った。

「しかし、別離は許さない」

 青い瞳がかなしげに揺れた。

「私の存在には君が必要だ。私が私であるためにも。

 君がこの巴里にいるだけで、私がどんなに勇気づけられてきたことか。君を想うだけで心が安らいだ、疲れを忘れられた。

 君は私が自分と一緒に過してくれないと嘆いているが、それは私とて同じなんだよ。私だとて君と一緒に居たいんだ。君といることが何よりも一番の至福の時だ」

 レオンはわたしの手を強く握り締めた。

「私は二度と恋を失いたくない。

 君を失いたくない!」

 胸が熱くなった。強く心が揺さぶられた。レオンはわたしを愛してくれている。わたしはレオンを愛している。その真実さえあれば充分ではなかったか。愛を信じていれば、辛いときも乗り越えられよう。

「私の言葉が信じられない?」

「信じていいの? わたしを誰よりも愛している?」

「愛している」

 わたしはレオンに縋りついた。レオンはわたしをしっかりと抱き締めた。愛していると繰り返しながら顔中にキスしてくれた。

「今すぐにでも結婚してくれる?」

 レオンははっとなった。

「今すぐは無理だ」

「何故? 忙しいから?」

 そうだよと、レオンはうなずいた。

「仏蘭西が安定した政局を迎えるまで、私は休息しない。この身は仏蘭西のために捧げたのだから」

 かれの言い分はよく判っていた。そう返事するだろうと思っていた。

「どれくらい待たなくてはならないの? わたしが我慢できるくらいの時間?」

「あと少しの間だよ。数ヶ月もない。きっとそれくらいの時間で政情も大丈夫、良くなるよ」

「ほんとに……⁉」

「私はそう確信しているんだ。だから安心していておくれ。君が寂しさに耐えているのもあとわずかだ。

 すぐに迎えにくるよ。結婚式を挙げるんだ。そして長い休暇を取って二人で私の故郷に行こう。なにもかも忘れて、君と二人で生きていきたい」

 レオンらしくない、やや感傷的な言い方に、わたしは顔を上げ、かれを見詰めた。レオンは優しく微笑んだ。

「私の恋人よ」

 わたしは問いただせば良かった。レオンの表情にふっとよぎった陰りの意味を。だが訊けなかった。口に出してしまったら、この愛が消えて仕舞うような気がしたから。そして、わたしは仕合せに酔い痴れていたかったから。

 不安など忘れ果てて、レオンの腕の中にいたかった。レオンの瞳を見詰め続けていたかった。

「わたしは仕合せだわ」

「有難う」

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