三
今となっては誰も信じてくれないでしょうが、ロベスピエールもレオンも熱心な死刑反対論者でした。二人は混乱する仏蘭西が平和を得るまで美徳による恐怖の支配が必要だと考え、実行しました。古き良き風俗を再生し、美徳と慈愛の共和国を創るための山上の冷気のような残虐であると、苦悩しながらの実施でした。
けれども、歴史は人間の思うようには動きません。レオンが言っていたように、事物の力は人間が考えもしなかった結果に人間を導いていったのでした。
四月、革命暦の芽月、ロベスピエールとレオンのかつての盟友が断頭台で死んだ。ロベスピエールの命令でレオンがかれらを告発し、死なせた。政治で足並みをそろえるのに右派も左派も毒でしかない。だから切ったまでのこと。感傷は不必要だった。
寛容派の死の翌日から雨が降り続いた。それまでは暖かかったのに、雨の所為で霜害を心配するほど冷え込んだ。
夜半、わたしは扉を叩く音に目を覚ました。誰も起き出さないようなので、わたしは急いで階下に降りていき、扉を開けた。そこにはずぶ濡れになったレオンが立っていた。
レオンはわたしを認めると、澄んだ青の瞳を真ン丸に見開いた。
「ご機嫌よう、アンリエット」
「今晩は、レオン。こんな夜遅くにどうしたの? 仕事のことなの?」
今にして思えば、愛想のない言い方だった。
「兄を起こしてくるわ、ちょっと待っていて」
「いや、いいんだ。起こさなくていい」
「でも……」
「仕事の話じゃない。私事だ。いいんだよ」
そう言ってレオンは咳き込んだ。濡れた髪が額に貼りついていた。
「帰る」
「レオン?」
「君の顔を見たら落ち着いた。だから帰るよ」
「待って!」
わたしはかれの腕を取った。
「少し休んでいきなさいよ。それじゃ体に良くないわ」
レオンはまぶしげにわたしを見た。かれのノートが原因で喧嘩をし、まだ和解をしていなかった。まず勝手にノートを読んでしまったことを詫びた。その上で、わたしが腹を立てノートのことを問い詰めると、かれはそれは過ぎ去った少年の日の恋の記録でしかなく、かつての恋人には少しも未練がない、わたしが怒ったり嘆いたりする必要は一切ないと説明した。レオンは嘘を吐いていないと信じようとした。しかし、頭の中では納得できても、胸の内が得心できなかった。あなたの言葉を信じるが、そのノートをあなたの手元に置いたままにしておくのは許せない。わたしとの愛を大事と思うのなら、古い恋の形見は焼き捨てて欲しいと頼んだ。レオンはわたしの要求を受け入れなかった。ノートには昔のロマンスだけでなく、友人たちとの書簡の控えや詩や随筆、論文の草稿が書き留めてあり、はいそうですかと捨てられる類のものではないと主張するのだった。そうまで言われるとかれの言うことももっともと思えたので、我慢しようとした。でも堪えられなかった。胸の内からふつふつと湧いてくる不快な感情を押さえることができなかった。レオンはもう終わったことなのに、なぜいつまでも苛々としているのかと言い、わたしはかつての激しい恋の寄り処となるものを捨てられないうちは側に近付くのは止めて頂戴と言う、顔を合わせるたびにその繰り返しになっていた。
できるだけつんとした顔をして、わたしは言った。
「大嫌いなレオンに言ったんじゃないわ。公安委員さんに言っているの。あなたに倒れられたら革命政府が困るわ」
「少しも困りはしないね。それどころか、むしろ祝砲をあげて喜ぶよ」
「冷静に情勢を読んでいるのね」
レオンは肩をすくめた。
「君の言葉は雨よりも身にこたえる」
わたしは強引にレオンを居間に引っぱっていった。暖炉に火を点け、毛布と兄の服を持ってきて渡し、服を乾かすように言った。それからわたしはブランデーを取りに台所に行った。
驚いていた。だが腹も立てていた。豪雨の夜に突然現れて、要件を一切告げず、おまけに相変わらずの澄まし顔で話す口振りが一層苛だたしかった。
しかし、レオンが着替える時間を計りながら、わたしはふとかれの奇妙な趣味を思い出した。かれはときどき夜中に墓場を散歩していた。修道士のように精神性の高さと純粋さを重んずる公安委員は、中世のそれのメメント・モリの思想に共鳴していたのかも知れなかった。死の静寂の中で遙かなる歴史を想い、空虚さの中に溶け込む自分を見つける、あの人は闇の中で死者の声を聞こうとしていた。それが断頭台で死んだ人々への、あの人なりの鎮魂の祈りだった。
しばらくしてわたしは居間に戻った。上着や靴が暖炉の前に並べられ、側に毛布を被ったレオンが身を縮めて座っていた。
「寒いの?」
「ああ」
「雨の中を歩きまわるからよ。どこかへ行ってきたの?」
予想したとおりの答えが返ってきた。五日前に処刑された寛容派――ダントンやカミーユ・デムーラン――の埋葬場所へ行ってきたのだった。なにもこんな夜に出掛けなくてもいいのに。察したようにレオンが言った。
「残された妻たちの処刑が決まった」
「リュシルまで⁉」
「そう、子どもっぽくって、夫を愛する以外の何の能力もないリュシルまで、私は死なせなければならない」
「……」
「きっとリュシルは喜んで死んでいくよ。あれほど仲の良かった夫婦はいない」
レオンはうなだれた。暖炉の炎の揺らめきが、妖しい陰影を映していた。
わたしは黙ってブランデーを渡した。
「有難う」
レオンはそれきり口をつぐんだ。