第三話「彼女と愚痴」
一m右横で泣いている彼女に、僕は何もしてあげられなかった。「向こうに行って」といわれたのにも関わらずそこに居座り続け、彼女が泣き止むのを静かに待った。
どうすればいいんだろか。こうして隣にいる以上、なにもいわないのはおかしい。僕自身、彼女に何かをしてあげたくてここに座ったんだから、その何かを成し遂げた方がいい。
五分か十分か、それ以上かわからない時間待ち続け、彼女の嗚咽がマシになったとき、僕は彼女の前に立って、何回も脳内で練習した台詞を口に出した。
「僕の家、ピアノあるんだ。弾いてよ」
それは、毎週行われる秘密の演奏会の、無言の約束を破ったのと同じだったのかもしれない。
彼女は驚いたように目を丸くした後、小さく頷いて立ち上がった。じっとしていても汗をかいてしまう真夏に吹く生ぬるい風は、僕と彼女に優しくふれてくれる。それすらも気持ち良く感じたのは、誘いに彼女がOKしてくれたからか、ただたんに汗を乾かしてくれたからか。どうなのだろうか。
***
カチャリ、と無機質な音がして玄関ドアを開けると、彼女は小さく「おじゃまします」といって家の中に入った。靴を脱いだのを確認してから、玄関からすぐ左前にある螺旋階段をあがり、右奥の部屋に誘導する。白く塗られた木のドアを開けて、かばんを適当なところに置くと、彼女もその隣に鞄を置いた。
「グランドピアノ、なんだね」
「お母さんが昔に習ってたらしくて。でも僕は簡単なのしか弾けない」
見慣れたグランドピアノの前に制服姿の彼女が座ると、なんだか落ち着かない気持ちになった。
彼女は真面目なのか制服が好きなのか、部活中は体操服に着替えるのにも関わらず、週に一回の土曜日の朝の練習も制服でやってくる。そして部活前に体操服になり、部活が終わればまた制服を着る。一応は登下校は制服で、という決まりはあるらしいが、先生達も着替えるのが面倒なことはわかっているためか、体操服で帰っていても黙認状態だ。
しかしながら、彼女は本当にセーラー服が似合う。
黒のセーラー服ははっきりいって、他校のものよりダサい。胸元におざなりにあるリボンは小さくて「あるだけいいでしょ」感があるし、スカートのひだは少ない。その上、真面目校のためかスカートを短くすることもない。
イスの高さが合わなかったのか「高さ変えていい?」と確認して、僕が「いいよ」というと何度も座りなおして調節した。一連の動きによって左右に揺れる、緩く結われた髪が可愛らしく思えた。
「楽譜、ちょうだい」
僕を見つめる目の端は、何度もこすったからか赤くなっていて、しばらく目が離せなかった。僕はピアノの左斜めの棚を物色する。ドビュッシー、ショパン、バッハ……いろいろありすぎて迷う。お母さんが幅広く弾いていたのもあって、楽譜は僕の身長を超える本棚に敷き詰められている。軽く五百くらいありそうで怖い。
「どういう曲が好みなの?」
少しでも曲を絞り込むために投げかけた質問は「なんでも」とぼんいやりした答えに終わった。なんでもって……! ノーヒントでこの大量の紙束から曲を選ぶのは至難の業だ。まあ、個人的にドビュッシーが好きなので、ドビュッシーの欄を物色すると黄ばんだ表紙が出てきた。
『亜麻色の髪の乙女』
ゴシック体で書かれたその文字の下にはシャンパンのボトルとグラスの絵が描かれている。シャンパンのラベルから影まで全て黒に統一されたデザインは、一体どういうイメージで書かれたのか全くわからないが、全体的に黄ばんでいる表紙から、昔から使われていたことがわかる。
ぱらぱらと髪をめくると、内側にかけて白くなっていっているのが確認できた。どうやら、長い間日の当たるところに置かれていたらしい。そのくらい不自然に日焼けていた。
「じゃあこれで」
「……亜麻色の髪の乙女。にわか?」
「し、失礼な」
にわかといったのは、この曲が以前に車のCMに使われていたからだろう。全く、失礼極まりないなあ、もう。
僕の返事に小さく笑った彼女は、体を前に向けて表紙を開けた。自分の楽譜でもないのに、慈しむように楽譜を撫でる彼女の指はねこにふれるように優しく、そして微笑んでいるように感じた。まあ、彼女自身は無表情に近いのだけれど。
曲はひとつの音を伸ばしたところから始まる。演奏者によって長さが変わるその音を彼女は思っていたより短く弾き、続くメロディーを比較的早めに弾いた。結構この曲って一音一音を大事に弾くイメージがあったのだけれど、彼女は短めながらも手でそぅっとすくいあげるように弾いているようで、これはこれでいい感じだ。
しかし、どんどん早まっていくテンポに、後ろ姿を見ていた僕に動揺が生まれた。いつもなら優しく弾く和音も極めて雑で、一音一音はどんどん短くなっていく。
優しい音で作り出されるはずの音楽は、雑な音によって不完全な世界を作り出していて彼女らしくない。最後の段違いに弾かれた高音を弾いた後、彼女は手を無造作に体の横に垂らして、
「速い曲ちょうだい」
と呟いた。彼女から選択を迫られたのは、おかしな関係が始まってから初めてだということも気づかず、慌ててテンポが速めの曲を頭の中にリストアップした。だめだ、弾けそうにない曲ばっかり出てくる……。同年代の彼女がどれだけピアノが上手なのかとかは僕にはわからないけれど、パッと浮かんだ曲の楽譜の一つを選び、彼女に渡す。
ショパン『幻想即興曲』
この曲は、『亜麻色の髪の少女』のように音を伸ばしたところが始まるところから始まる。そこから奏でられる早すぎるメロディー。一音でも外したら再起不能になってしまうほどの速さが楽譜に記されているこの曲は、だんだんとテンポが速くなっていき、そして途中で少しゆっくりめになるという、なんともテンポ表現も難しそうな曲である。
彼女の顔を見るのがなんとなく恐くて、背後からゆっくりと差し出した楽譜は音を立てて乱暴に取られ、楽譜を広げて早々に彼女の細い手が白い鍵盤に下ろされた。
最初のピアノとの息を合わせるかのような音が響いたあと、指はそれぞれが別の生き物のように動きだす。間違えることなく確かに弾かれるその旋律に耳を傾けながら、彼女のあの細い腕からどうやってこの力強い音が紡がれているのかと不思議に思った。もしかしたら、筋肉とかはそれなりについているのかもしれない。
「めくって」
投げ捨てられた言葉はまるでひんやりとしたハサミのように鋭く、僕を突き動かした。どのタイミングでめくればいいのかわからず、紙を指で掴んでいると「今っ」という焦った声で指示が出され、慌ててめくる。
そしてふと、彼女の顔を見ると、大粒の涙がこぼれていた。
涙は頬を伝ってスカートの上に次々と落ちていく。そのゆっくりとした実景と、それに反してものすごい速さで動く指のコントラストはこよなく映画のワンシーンのような、心に衝撃を与えるもので、瞬きすら惜しいような感覚までも与えた。
最後を悲しむようにゆっくりと離されたペダルのカタン、という音が鳴ったときも、僕は何を言っていいか、はたまた拍手をしていいのか、と困惑し、きっと呆れるようなくらいの気の抜けた顔で彼女を見ていたに違いない。
「はやすぎ」
「え……ご、ごめん」
キッ、と腰から上をこちらに向けて睨む目には涙はもうなかった。今まで見たことのないその表情に、「腕、つるかと思った」と少し理不尽な愚痴をこぼすその姿に、僕は笑った。
大笑い。百人に街頭調査すれば百人がそうだというくらいの大笑い。
お腹が、腹筋が痛くなるほどの。そして、笑い過ぎて床に蹲る僕を彼女は「なに笑ってるの」と軽蔑するような声色でいった。
「あははは! ごめんごめん、はは。『革命のエチュード』とかの方が良かった?」
「……『エリーゼのために』ぐらいの速さで良かったのに。人をいたぶる才能でもあるんじゃない?」
それをきいて大爆笑を再発させる僕につられ、彼女も笑みをこぼした。その笑顔は、何にも代えがたいものだと、まだまだ人生を開始させてそんなに経ってもいないのに思った。
ひとしきり二人で笑った後、僕は彼女に「お菓子でも食べない? 愚痴でもきいてあげるよ」と誘った。
彼女が、普段から考えられないくらいに部員に対する不平不満、あらゆることを話し続けたのは、僕の胸だけにしまっておくことにする。