第二話「彼女の素顔」
八月に入ってすぐ、平和学習をするために設けられていた日。その日は、久しぶりに午後から僕が所属する合唱部の活動が行われていた。一年生にとって初めてのコンクールであり、初登板は明後日に迫っていて、どこか緊張した空気が漂っていた。
お昼ご飯を食べて練習を始めようとすると、三年生が三人いないことに気付いた。そのことに部長である彼女も気付いたのか、僕に「どうしよう」という目線を向けてくる。
「ほっとけばいいんじゃないかな?」
「……そうかな」
もうすでに一・二年生が全員集まってくれているのに待たせるのも申し訳ないと思ったのだろう。彼女はみんなを静かにさせ、「一応ですが」と前置きしてから明後日の確認し、準備体操を開始した。
遅れた三人が来たのは、練習を始めるとあらかじめ予告していた時間から約十分後だった。
「遅れてすみませーん」
なにやらニヤいていたのが気に障ったのだろう。三年の一人が「なに遅れてんのにヘラヘラしてんだよ」と指摘した。すると、三人はお互いに責任を擦り付け合いだした。周りは真面目に準備体操をしているにも関わらず、騒ぐ彼らにほかの三年も非難し始める。彼女の顔をちらりと見ると、一・二年生への影響を気にしてか、少し困ったように顔をしかめていた。
「ほら、部長も何かいってよ」
ついに彼女まで飛び火をした。彼女は小さく「えっ」とこぼしてから、少し迷ったように遅れてきた三人を見た。
「……遅れるのはよくないし、今しゃべるのもよくないよ」
しかし声が小さかったからか、全く怒っているようには見えず、三人は無視をして自分たちの話に花を咲かせる。それを三年が見かねたように注意するが、結局、先生が部室をのぞき、三年が三人の態度を報告するまでとても悪い状態が続いてしまった。
「もう、部長なんだからちゃんと怒ってよね」
準備体操と発声練習の間、三年生の一人がいう。彼女の表情は見えなかったが、微かに頷いたことは確認できた。
こういうことは何度かあった。彼女はもともと物静かで、どちらかといえば他人には強くいえないタイプ。そのこともあって、何度か彼女が「部長なんだから――」と責められている姿を見ることは一度や二度ではなかった。僕からしたら、いっている人がもっといえばいいと思うのだけれど、やっぱり「部長」という位置は特別らしい。顧問も「部長なんだから、ちゃんと注意してね」と口を酸っぱくする。
別に彼女が何も口に出していないわけではない。ただ単に、怒ることができなくて凄みがない。怒っていると本人がいっても、周りからは怒っているようには到底思えないのだった。
どちらかといえば無表情が多かったが、部長になってからは笑顔が格段に増えた。前に立つ以上、みんなの雰囲気をよくするためには笑顔が先決らしいと、誰かがいっていた。
だから、かなり驚いた。
彼女がその日の帰り道、一人で泣いていたのを見て。
***
下校するときに先生に頼みごとをされて、いつも帰っているメンバーと時間がずれてしまった。早めの時間から部活を始めたため、太陽はまだまだ空の高いところに居座っている。部室はクーラーがついていただけに温度差が激しくてしんどい。どうしても外の部活が盛んだと、音がきこえにくくなるため窓を全て閉めてしまうのだ。クーラーは乾燥するから喉によくない、とはいっても暑さには勝てない。
他の部活とも下校時間が被らず、元気な掛け声をBGMにして一人道を歩いた。すると、前方に黒髪の彼女が歩いていたのが見えた。そういえば、今日の日誌当番は彼女だったなあ。
前方といってもかなり向こうだ。特に追いかける用事もないため、僕はゆっくり歩き続けた。二つ目の曲り角を曲がったとき、ずっと前の方にいた彼女の姿が消えたが、あまり気にしなかった。
最強に困る状況を想像したことがあるだろうか。
例えば「空から女の子が降ってきた」
例えば「自分の体操服だと思ってきたら、隣の子の体操服だった」
ああ、全然浮かばない。というか、浮かんだものも最高に困る状況かわからない。普段の生活がいかに地味なのか思い知ってしまう。
けれど僕にとって今のこの状況は、これまでで最も頭を抱えるものだ。
同い年の女の子が目の前で泣いている。
決して綺麗ではない石段の上に座り、柔らかそうな淡い水色のタオルに顔をうずめる彼女を、僕は目が離せなかった。
いつもは、あのお淑やかなユリの花のような大人っぽい笑みを浮かべる彼女が、肩を震わせるくらい泣いている。彼女の後ろの無造作に生えている木や雑草と彼女がミスマッチ過ぎて、でも、どうしてもほっておけなくて、僕は彼女に近づいた。
足音で気が付いたのか、ゆっくりあげたその顔は、決して可愛いものではない。
鼻水がぐじゅぐじゅで、涙で前髪が額に引っ付いていて、泣くのをとめようと顔がこわばっている。
けれど、涙を浮かべる黒い目や、それを縁取る長いまつげ、涙が伝う白い頬はほんのりリンゴ色で……いつもとは違う雰囲気に、僕は圧倒されてどう声をかければいいのかわからなかった。
「――って」
それはあまりに小さな声で僕の耳には届かず、僕は思わず「え」とこぼした。
「むこういって」
再びふわふわのタオルに顔をうずめたので声がくぐもっていたけれど、彼女は強く僕を拒絶した。そしてまた、肩を震わせる彼女から、僕は離れていくことができなくて、彼女の隣に座った。一mくらい開けて座ったのだけれど、彼女は肩を大きく震わせた。
「むこういってって」
彼女の言葉を無視し、僕は自分の行動の意味も解らずに、彼女が泣き止むまで全く変わらない景色を眺める。
彼女は、ときおり嗚咽が混ざっていたけれど、静かに――まるで冬の雨のように静かに涙を流し続けた。