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第一話「彼女とピアノ」

 夏休みの朝。もうすでに始まっている部活動の人たちの声が、外よりも幾分か涼しい校舎内にまできこえている。下生地の薄くなった上靴から伝わる固い床の感触と、手でふれたコンクリートの壁の冷たさはいつもと変わらない。階段には足音が微かに響いていた。

 一階と二階の間の踊り場を過ぎた辺りから耳に届いた黒の鍵盤楽器の音は軽やかで、心地よいメロディを紡いでいた。各階に備え付けてある――場所によって数分のズレが生じている――時計は、僕が所属している部活の開始時間の一時間前を示している。

 少しだけ息を切らしながらも三階にたどり着いた。自分の体力のなさにうんざりしながらも、既に開けられていたドアをくぐり、靴箱の前で少し温もりを感じる上靴を脱ぐ。部室内、すなわち第一音楽室では室内の飲食は禁止のため、靴箱の前で少し色あせてきた学校指定のリュックサックから水筒を取り出した。家を出る前にたくさん氷を入れておいたおかげで、水筒に入った水は頭が痛くなるほど冷たい。夏真っ盛りの今、氷を入れても部活が始まるときには全て溶けているので、これを感じられるのも今のうちだ。

 水筒を出すついでに取り出したタオルで首筋を滴る汗を拭きながら、室内へと足を踏み入れる。すっかり慣れた足裏のちょっと冷たい、薄汚れたピンク色のカーペットの感触を感じながら自分の机に向かう。入口は西側にあり、入口からすぐ右の壁には、授業でもほとんど使っているところを見たことがない新品のような綺麗さを保っている黒板。その前には授業で頻繁に使われているホワイトボードと大きなテレビが存在感なく居座っている。その黒板とホワイトボードの間を通り抜け、自分の机にリュックサックを置く。

 その机は、部屋の南北にある全開されている窓の少し下、壁に沿って並べられてある机。その連なりの一部、部屋の南側、手前から三番目に静かに佇んでいた。

 リュックサックと水筒、タオルを机の上に置き、机の引き出しからは最近練習している曲たちが入ったファイルを取り出し、床にほっておく。リュックサックから筆箱も出して、ファイルの上に置いた。

 振り向くといつも通り、部屋の中央に置かれているグランドピアノを弾く、同い年の女の子がいた。

 全開にされている窓を通って、夏にしては珍しく吹いている涼しい風が、彼女の豊かな膨らみの真ん中ほどまである黒髪を少しだけ揺らす。低い位置で二つに緩く束ねられた髪は、彼女の真面目さを表しているようで、とても似合っている。

 普段かけている薄いピンクのメガネは楽譜台のところに置かれていて、しかし肝心の楽譜はそこになかった。つまりこの、清らかな音が紡ぐメロディを暗記しているのだ。複雑そうな――あんなに音と音が重なった和音をよく覚えられるなあと感心してしまうのは、自分が彼女のようにピアノを上手く弾くことができないからだろうか。


「おはよう」

「……おはよう」


 それだけで僕と彼女の会話は終了し、僕はいつものようにピアノの上に置かれた楽譜を手に取った。

『世界のピアノ全集(3)』『ドッピュシー名曲集』『人気ポップス曲をカバーNO.1』『うっとり酔いしれるjazz』……様々な楽譜がある。どれも見慣れているものなのだが、ときたま新しいものがある。一曲しか収録されていないものが増えていたりしたら、「この曲、お気に入りなのかな」と勝手に想像するし、変色していたりしてやけに古そうなのが置いてあったら、「片づけのときとかに見つけて懐かしいとか思ったのかな」と考えるのも、楽しみの一つだった。

 新しく増えていた、ちょうど一年くらい前に流行った映画の主題歌の楽譜にネコの付箋を貼って、楽譜台の横のスペースに置いた。そして、『チャイコフスキー全集(1)』の「くるみ割り人形」のページにもネコの付箋を貼って、さっきの薄い楽譜に重ねる。

 そうすると、彼女はそれらを弾いてくれる。その間、会話は全くない。

 その光景を見ているのは、彼女が弾いているピアノと、入口の正面奥ある僕と彼女が所属している合唱部の賞状。バッハやベートーベンなどの絵。そして、周りの机たちだけだった。




 このよくわからない関係が始まったのは二年前。僕と彼女が合唱部に入って最初の夏休みだった。部活にもちょっと慣れてきたくらいで、初めてのコンクールがもうちょっとっていう時期。夏休みは日曜日以外は朝から昼くらいまで練習があって、今まではパートごとの練習ばかりだっただけに全部パートで、しかも生徒だけじゃなくて先生と一緒にする練習は色んなことに神経を凄く使った。

 そんなある日、全パートで合わせるときにどうしても他パートにつられてしまって歌えないところがあったため、早めにいって練習しようと部活開始三十分前に部室へ向かった。すると、凄く綺麗なピアノの音が聴こえてきたのだ。

 誰が弾いているんだろう? クラシック弾く人とかいたっけ……?

 ドアの前までくると、それがドッピュシーの「月の光」の中盤だとわかった。折り重なる和音が追いかけっこをしているかのような旋律が好きで、できればずっと耳を傾けていたかったが、いつまでも入らないわけにもいかない。上靴を脱いで、ドアをなるべく静かに開けて中に入った。

 しかしピアノの音はとまってしまった。(直できいたことはないけれど)讃美歌のような旋律が途切れてしまって、世界が静止してしまったような感覚を覚えた。そのくらい、その演奏は空間を支配していたのだ。


「お、おはよう」


 精一杯の勇気の挨拶はなんとも無機質な声で「……おはよ」と返されてしまった。さっきまでピアノが鳴っていただけに、この痛いくらいの静けさがしんどい。僕も彼女も動かない。彼女は鍵盤にふれていたであろう、細い指を膝の上で握っているし、僕は僕で笑顔が引きつっているかもしれない。

 ど、どうすればっ!?

 回らない頭を一生懸命働かせても、浮かんできた案は少ない。きかなかったふりをするか、出ていくか、会話を始めるか……それとも?

 少し悩んだ末、結局は一番難易度が高そうな選択使を選ぶことにした。だってもう、この時点で気まずいのだからふっきれればいいと思ったのだ。


「えーっと、弾いていいよ?」


 言葉にしてからちょっと違うな、と思って訂正する。緊張しいのため彼女の顔は見れない。あ、ただのへたれかも。


「あ、えっと違うくて……綺麗だったからもっとききたいっていうか、えーあー、何いってるんだろうね」


 焦ってきてだんだん顔が熱くなってきた。今、絶対顔が赤い。自信ある。


「……何か好きなの弾こうか?」


 よく通る声が音楽室に反響する。そういえば、彼女の担当はソプラノだった。発声練習のときも、軽やかな声が微かにきこえている。

 静かに椅子から立ち上がった彼女は、部屋の南側の手前から二番目――つまり僕の隣の机――の引き出しから何冊か取り出した。そしてそれをどさっとピアノの上に置く。


「え、じゃあ……さっきのやつ弾いてもらっていい?」

「わかった」


 彼女は持ってきた本を引き出しに片づけて、ゆっくりと演奏を始めた。最初の途中途中に挟まる和音は優しく、またなめらかに動く指の一本一本がそれぞれの意思をもっているみたいに思えた。ああいう複雑なものはどのように記憶しているのだろうか。感覚? それとも楽譜を覚えているのか。あんなたくさんの音を一度に弾くのに、まず目でも追いかけられないという素人目線とは裏腹に、彼女は僕がきいたことのあるドッピュシーの「月の光」を間違えることなく演奏していく。

 物静か、という印象だった彼女がピアノを弾いているところを、それまで見たことがなかった。僕はピアノの上手さとかはちゃんとはわからないけれど、彼女がピアノの鍵盤に壊れ物を扱うように触れたことによって広がる音は、僕を包み込んでくれているようで……なんだか優しさがあって好きだった。彼女とピアノが作っている風景が神聖なものに思えた。





 あれから二年が経った。僕と彼女は変わらない関係を続けている。

 土曜日にある週に一回しかない、朝からの練習。その一時間前にこうして、僕が曲を選んで彼女がそれを弾く。交わす言葉は「おはよう」だけ。

 それだけでよかった。

 二年生の夏の終わりに先輩たちが引退してから、彼女が部長で僕が副部長になってから、普段の会話も増えたけれど、週に一回の二人だけの演奏会のことは話題に上がらない。

 けれどもうすぐ、その関係にも終わりがやってくる。引退したら、もう終わりなのだ。しょうがない。

 僕は何もしらなかった。



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