第5話 見えない不安
君の母親からの不意の電話。
それに動揺する自分。
逃げ出したい衝動を必死に堪え、意を決して君の母親の元へ向かうのであった。
5分くらいか、いや10分くらいだったかもしれない。
正確にはわからないが、君の母親との重く、そしてかなり長く感じられた電話を切った後、淋しそうにテーブルに取り残された半分弱のカフェラテを一気に飲み干し、手短に会計を済ませた後、僕は駅前の小洒落た店を後にした。
翌日、いつもよりもかなり早く目が覚めた僕は、何だか全くもって落ち着きが無かった。
君の母親との約束の時間は11時で、支度の時間を加味しても9時に起きれば十分間に合うが、5時過ぎに起きてしまった事もあって、何をしていいか迷う自分がいた。
とりあえず使い古したヤカンに冷蔵庫に入っているミネラルウォーターを注ぎ、コンロの火を付けた。
その間に、これまたいい具合に使い古したコーヒーメーカーをキッチンの収納から取り出し、定位置である部屋の真ん中に鎮座するテーブルの上にセットした。
数分後、コンロの上にあるヤカンからうるさい鳴き声が聞こえてきたので、小走りで火を止め、それをコーヒーメーカーに注いだ。
煙草に火を付けゆっくりと一服しつつ、入れたての少し酸味のあるコーヒーを口に運んだ。
寝起きの空腹状態で口にしたコーヒーは、刺激的かつ胃に染みる様に感じられたが、僕は気にする事などなく、煙草とコーヒーを交互に口にし続けた。
様々な事が自分の頭の中を巡り巡っていた。
君の母親の用はなんだろう
僕に何を喋りかけ、何を伝えるんだろう
これから全く予想出来ない未知数な展開に不安と少しばかりの恐怖を覚えた僕は、身震いしながらも、何とか毅然としようと思い、立て続けにまた煙草と新たに入れたコーヒーを口に運んでいた。
気付けば部屋の壁に掛けてある時計は8時半を回っていた。
根が生えて、すっかり腰が重くなった身体に鞭を打ち、かなり熱目のシャワーを長めに浴びた後、普段と同じブルガリの香水を控えめに付け、無難なシャツに無難なボトムで身を包んだ。
多少早くはあったが、この部屋に居ても落ち着かないだろうと思い、一つ大きな深呼吸をし、意を決して玄関の扉を力強く開け、そして家を出た。
駅迄の道程は、思いの外遠く感じた。
歩き慣れている筈なのに、足がまるで棒の様になっていたのか、前に全然進んでいかない気がした。
ようやく駅に着いた時には、左手に偉そうに輝くオメガのスピードマスターが9時半近くになっていた。
やはり予定よりも随分早いとは思ったが、このままこの駅前で躊躇っていては、逃げ出し、そして行かなくなるかもしれない。
僕は自宅を出る時同様、一つ大きな深呼吸をし、タイミング良くホームに滑りこんできた京王線に急ぎ足で飛び乗ったのだった。