第16話 意外な言葉
逆上せた事もあって温泉から上がった。
湯上がりに烏龍茶を飲み煙草を吸いながら黄昏ていた僕に、受付にいた初老の男性が意外な言葉を掛けてきたのだった。
東京では桜の花弁もすっかり落ちきってなくなり、大分暖かくなってきたとはいえここは信州。
しかも市街地から離れ北志賀高原にある温泉である。
時間も夕方に差し掛かっている事もあって結構冷え込んできた。
それが逆に露天風呂の高温を少し緩和してくれて、猫肌の僕にとっては好都合であり、心地良さも手伝って普段以上に湯船に浸かっていたのだが、流石に逆上せてきた自分に気付く。
いつまでも入っていたいこの不思議かつ心地良い感覚に終止符を自ら打ち、名残惜しいけれど湯船から上がる事にした。
持参したバスタオルを篭から探し出し身体を丁寧に拭く。
同様に持参した新しい下着を履き、少し抵抗があったが脱ぎ捨ててある今まで着ていた服を着た。
最後に外していた君の形見をしっかりと首から下げる。
昔から銭湯なり温泉なり風呂上がりには瓶の牛乳、もしくはコーヒー牛乳を仁王立ちで腰に手を当てて飲み干すのが定番である。
普段はしないのだが、たまにはいいかと思い受付横にあったガラス張りの業務用冷蔵庫を目指し緩やかな階段を昇る。
辿り着き視線をその冷蔵庫にやるや否や、生憎その両方とも置いてはいなかった。
その気持ちを察してか、先程も受付にいた愛想の良い初老の男性が、売り切れなんだよ、と申し訳なさそうに言った。
苦笑いをしながら、仕方なく烏龍茶を冷蔵庫から取り出し、代金を払った。
入口でサンダルを拝借し、外にある赤く年季の入ったベンチに腰を降ろして先程買った烏龍茶を一口飲んだ。
煙草を目の前に止めてある愛車に取りに行き、戻ってきてもう一度ベンチに腰を降ろして火を付けた。
高原の木々の間を抜ける風が少し寒く感じ、湯冷めを心配しつつも僕は全く気にする事なく煙草を吸い、そして烏龍茶を飲んでいた。
別に湯上がりに休憩したかった訳ではなかった。
ただ、君の事が頭をずっとよぎっていたのだ。
君は羨ましいと思っているかな
僕はそんな事を思っていた。
元はと言えば僕よりも君が好きだった場所。
そして、君と一緒に訪れたかった場所。
そんな複雑な気持ちが寒いと感じられる風の中、僕はその場を動けずにいた。
何分くらい経過したのかは分からなかったが受付にいた初老の男性が心配したのか、こちらに向かってくるのが見えた。
そして相変わらず愛想良く話し掛けてきた。
湯冷めして風邪引くよ
その優しく、温かい言葉が普段無感情気味な僕の心に響いた。
ありがとうございます
考え事してて
愛想笑いをしながら答えた。
すると初老の男性がこう言った。
お兄さんは若いから色々あるだろうね
でもね
でも、負けちゃダメだよ
意外だった。
そんな事を言われるとは夢にも思わなかったというのもあるが、それよりもまるで全てを見透かされている様だった。
思わず込み上げてくるモノを自分自身感じたのだが、必死に堪えて会釈するのが精一杯な僕だった。