「僕」と「犬」と「あられ」と
ゴーという大きな音と共に天から降り始めた”それ”が大地を潤す。
その凄まじい轟音に、僕は思わず外を眺めた。
窓から見える景色に映るそれは、雨にしてははっきりとしていて、雪にしては落ちる速度が速い。
なんだろうと少し不思議に思い、僕はこたつから這い出し窓へと近づいた。
よく見ると、小さな白い粒が地面にぶつかり、2、3回ピョンピョンと跳ねているのが見える。
跳ねては消え、跳ねては消え。
「おお、あられだ」
空から大地に降り注ぎ、アスファルトの絨毯の黒をより一層黒く染め上げるそれは”あられ”と呼ばれるものであった。
「ほらクゥ見てみな、あられだよ」
雨や雪はよく見るけれど、あられなんてそう何度も何度も降るようなものじゃないし、降っていたとしても建物の中にいれば、そのほとんどに気付く事はできないだろう。
実際僕もここ数年見た記憶がない。
たまたま今日が休みで、たまたま降った時間に起きていて、たまたま見ていたテレビがつまらなくて、たまたまこたつから出る気になった。
そんな偶然や気まぐれが重なり合ったからこそ、見る事ができた。
そんなに特別な事でもなければ、貴重なものでもない”あられ”。
でもなぜか僕は、アスファルトの上で身を躍らせるそれから目を離せないでいた。
「よいしょっと、クゥ見えるかい?」
僕は足元にいる彼女、愛犬のクゥを抱き上げた。
僕の愛犬クゥはミニチュアダックスフンドの女の子。
彼女が僕の家に来たのは、僕が小学生高学年の頃だ。
ダックスフンドというしっかりとした犬にも関わらず、彼女は捨て犬だった。
父の友人がたまたま道端でさ迷っているクゥを見つけ、拾われた。
初めは殺処分にされてしまうのを心配し、家に置いたまま飼い主を探したり、交番に問い合わせをしたりしていたらしい。
しかしどれだけ待とうと、手がかりすらつかめなかった。
父の友人宅では既に犬を1匹飼っていた、2匹も犬を飼う余裕のなく困り果てた末、頼られたのが父であった。
父は小さい頃犬を飼っていたらしい、その犬が死んだ事が悲しくてもう2度と生き物は飼わないと思っていたらしく、初めは僕が飼いたいと言ってもかたくなに反対していた。
しかし実際にクゥを見て抱いてしまったが最後、情が移ってしまいほぼ即決で飼う事を認めてくれた。
彼女はうちに来たとき、どれだけ外を一人で迷っていたのか、体は痩せ細りところどころがハゲてしまっていた。
エサもあまり食べなかったし、散歩に出ても全く歩けなかった。
心配になった両親はクゥを拾った父の友人と相談し、病院に連れて行くことにした。
検査が終わり先生が僕たちに告げたのは、ひどく残酷な言葉であった。
『もう長くは生きられないかもしれません』
年齢的にはまだまだ子供だと言う、しかしながら幼いゆえに回復するまで体が持つか分からなかったのだ。
さらに追い討ちをかけるように先生が告げたのは、足が悪いという事だった。
骨の形成が異常で、後ろ足が両方とも本来ならありえない形に曲がっていたのである。
僕も両親もほんのひと時の彼女との生活を覚悟した。
しかしクゥは先生の言葉など、まるで嘘であったかのように夢であったかのように、瞬く間に元気になった。
そして周りからの愛情を一身に受け、みるみるうちに成長していった。
ご飯もがっつくようになったし、歩くどころか元気に走り回るようにもなった。
夏には近くの公園で一緒に芝生の上を思いっきり駆け回った、冬には家の前の道を埋め尽くした真っ白な雪の上を一緒にバカみたいに転げ回った。
特に雪が大好きみたいで、雪の中にその小さな全身をすっぽりと埋めながら、ウサギのように跳んではしゃぐのである。
彼女はとても賢い犬だ。
来たばかりのときから家の中で排泄をすることもなければ、何を見ても誰を見てもほえる事など全くなく、いたずらなんて当たり前のようにしなかった。
静か過ぎて、寝ていればどこにいるか分からずこっちが心配になって探すほどであった。
そんな彼女も今ではおばあちゃん、僕はもう大学生になっている。
クゥが来てから実に約8年ものときが流れた。
今ではすっかり年をとり、ご飯だけは相変わらずがっつくものの、足の悪さが年齢と共により顕著になり、散歩もあまり遠くへ歩けなくなった。
何を見ても反応を示す事が少なくなり、しっぽを振ることもあまりなくなったし、名前を呼んでも振り向く事さえしなくなった。
今では一日のほぼ全ての時間を寝て過ごしている。
彼女は家に来て2度も手術を受けた。
1度目は悪い腫瘍が見つかり、2度目は顔に膿が溜まってだ。
そして2度目の手術のせいで歯のほとんどを失った。
そうやって少しずつ目に見える速度で、今でも彼女は衰弱していっている。
そんな彼女に最後になるかも知れない”あられ”を、見せてやろうと僕は考えたのだ。
「ほら、あれは”あられ”って言うんだ」
抱き上げた彼女にそう言ってみたのだが全く興味がないらしく「フッ」と鼻で息をして、そっぽを向いてしまった。
すっかり軽くなってしまった、クゥの体を床に下ろす。
――最後になるかもしれない
そんな僕の心の言葉が、再び僕の頭の中を埋め尽くして目が熱くなった。
そしてそんな事を冗談でも思ってしまったことを、ひどく後悔した。
足元で行儀よく座る彼女を見つめる。
「僕はね、君がいつまでも一緒にいると思ってるんだよ」
僕は思いがけず口からそんな言葉を漏らした。
そう、死ぬ事なんて考えていない、考えられない。
だから、散歩に行くのやご飯を作るのが面倒だと思うこともあるし、冷たく当たってしまった事もある。
しかし彼女はいつか自分の前からいなくなる、それは変えられない事実だ。
命あるものいつか最後は死に辿り着く、そして失った命は2度ともとには戻らない。
でも人はそれを忘れて、身近な大切なものになかなか気付けない、そして大切なものは失った後に気付く。
僕だって同じだ。
きっと君がいなくなった後、君がどれだけ大切だったか、どれだけかけがえのない存在だったかに気付く。
そしてもう遅いって後悔して泣きじゃくるんだ。
「救えないだろ?」
僕がそう言うとクゥはなぜか立ち上がり、僕をじっと見つめしっぽを振り始めた。
そして突然「ワンッ」っと一回大きな声でほえたかと思うと、のそのそとこたつの中に入って行った。
僕は燃え上がるように熱くなった両目から、あふれる涙を堪えることは出来なかった。
あまり振ることのなくなっていたしっぽを振り、家に来てからほとんどほえた事のない彼女が「ワンッ」と声を上げたのだ。
それはまるで「私はまだまだ元気だよ、まだまだ生きるよ、ずっとそばにいるよ」って言われたようで。
目から溢れた熱い雫が僕の頬をつたい落ちる。
ふと窓の外を眺めると、涙のせいで湾曲した景色の向こうで”あられ”はやがて大粒の粉雪に変わり始めていた。
そして真っ黒だったアスファルトの世界を少しずつ銀色に変えてゆく。
きっと明日は雪が積もる、そしたらまたあの頃のように一緒になって、バカみたいに雪の中をはしゃぎ回ろう。
それまではゆっくり……
「おやすみ」