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短編小説 亡景(ゴースト・ビュー)

作者: 水本爽涼
掲載日:2011/10/02

 そうか、あの娘はもういないんだ…、と私は過去を巡っていた。

 慈照寺に訪れたあの日、そう…確か十年ばかり前になる。厳寒の古都に降り立った風景が、今、私の深層にくすぶり、揺らめいている。それは当時への郷愁にもなるのだが、何故か切なさをも含んでいる。ふと、回想の場面が脳裏を過ぎった訳は何故なのか、…分からない。

「ははは…、冬場は底冷えしますんで、(あんま)りお勧めできぃしまへんけど、一度、よろしぃおしたら、おこしやす」

 母の知人で徳山栄吉と名乗る還暦近い男が、いつだったか家へ寄り、そう云っていたのを私は記憶している。とはいえ、当時の私は、日本の中学へ転校したばかりだった。徳山と母がどういった関係だったのか…、その辺りのところが私の記憶回路に残片を留めていない。その年の冬、母に連れられ初めて古都へ旅した場面へ記憶が短絡して飛翔する。

「よう、おみえやしたなぁ、お寒いところを…。さあさあ、(はよ)う、お上がりやして…」

 徳山は、私と母を愛想よく迎え入れた。この辺の場面は、私の脳裏に鮮明に残っている。

 上がって通されたのは、昔造りの薄暗い部屋であった。(はり)、鴨居、(つか)、敷居、それに刻み柱などのあらゆる木々は、紅殻(べんがら)墨子(すみこ)を雑ぜたものが塗られているのだろう。見るからに黒々しく、部屋は不気味さを漂わせて冷んやりと暗い。しかも陰鬱であった。無論、当時の私は、気持が悪い部屋だと単に思っただけで、それが墨子を含んだ紅殻の所為(せい)だとは気づいてはいなかった。

 案内されて座った囲炉裏端の位置からは、恐らくこの部屋で唯一と思われる切子細工の丸窓があり、光が差し込んでいた。採光の為なのだろうが、何故か違和感があったように記憶する。

 座っている(ゆか)板を凍てつかせる冷気が流れ、外では淡雪が舞いだしたのだろう。それは、丸窓の周囲が、ふんわりと白く縁どられて気づいた。

  古くから住まいする人々には至極ありきたりの添景なのだろうが、 訪う母と子にすれば、初めて遭遇する冬の風情なのだ。

「雪のようですわね…」と、母も気づいたらしくポツリと徳山に云った。

「? ああ…、明日は積もりますやろな、この凍てつきやと…」 徳山は意に介せず、チロチロと燃える火の具合を 母の隣で加減している。自在鉤(じざいかぎ)に釣られた鋳物製の鉄瓶、これも今辿れば茶釜だったか? とも思えるのだが、それが、シュンシュン…と音を主張して蒸気を吐いている。

「荒れてきましたさかい、今夜はお泊りやして、明日ゆっくりお帰りやす…、大したお持て成しはできぃしまへんけどな。ははは…、急がれしまへんのやろ? 明日はここのほん(ちこ)うに在ります銀閣を案内(あない)しますよって…」

 柔和な笑みを浮かべた徳山が、母のほうへ首だけ回して云う。私はというと、それどころの話ではなくなっていた。座布団はあるものの、(かじか)む足先と手指、この処理を如何したものかと思い(あぐ)ねていた。ひとまず手先は擦り、囲炉裏へと近づける。足はどうしよう…と思うのだが、まさか行儀悪く囲炉裏端へ投げ出す訳にもいかないな…などと、子供心をつまらなく巡らせていた。正座が長い為に疲れも加わり、既に足先の感覚は失っている。それに冷えも手伝い、次第に息苦しくなっていた。そんな私は、見られていたのだろうか。

「おぼっちゃん、足を崩しておくれやす。そない借り(もん)の猫みたいに遠慮なさらんと」と、徳山が笑った。

 渡りに舟、やっとお許しが出た…と思った。取り分けて正座を強制されていた訳でもなかったのだが…。母は一瞬、私の顔を見遣った。

「そうさせて、お貰い…」

 許しと同時に私は足を崩していた。急に天上の人の心地となった。そして、ふくよかに笑う母の顔に安堵した。

 そんなこんなで四方山(よもやま)話が続き、瞬く間に夕刻が迫っていた。昼前から舞いだした雪は、赤子から小児へ、そしていつの間にか、娘から貴婦人へと変貌を遂げていた。子供心に私はこの雪が女性だと思い込んでいたようである。吹雪く猛々しい男性ではないのだと…。

 宿泊するということになったから、時の余裕はたっぷりとあった。私は二人の会話を抜けると、木戸を開け表へと出た。やはり、私が想い描いた女性のような雪が舞っていた。歳の頃は私の妹ぐらいか…などと、今となれば恥しくなるようなことを考えていた。ハワイでは目にすることもない雪という存在そのものが、妙に不思議なものに思え(てのひら)を広げてみる。舞い落ちたその一片は、身体の温もりに永く姿を留めてはいない。すぐ水滴へと化身する。十四の私と彼女との初めての出逢いだった。

 十四の学生が淡雪に乙女を想う。歳のわりに、ませていたように思うが、ハワイで育ったゆえか、全てに対して感性が大人びていたのだろう。

 ゆったりと過ごし、心の籠った持て成しを受けた母と私は、翌朝、徳山の案内で慈照寺を訪れた。昨夜の雪が枯山水の庭に絶妙の景観を与えていた。だが当時の私は、このときも、綺麗な所だな…と思う程度であった。ただ一点、雪に対する感性だけが昂ぶっていた。

 夜来、降りしきった雪は、既にその気配を残さず、ほとんど止みかけていた。もう、小児の趣ほどに勢いを弱めている。私は単純に雪という存在を好きになった。雪に恋していた。

 ハワイで農園を営む父は、今でも(かたく)なに農園を守っている。当時の私が、何故、日本へ来ることになったのか、それは話が長くなるので端折るが、父は日系二世で母は日本人である。二人は母がハワイへ旅したときに結ばれたらしいが、父に別の女性ができて別れた…と、まあそういうことだ。しかし中学生の私には、何故、日本へ行かねばならないのかが理解できなかった。ハワイで一生を過ごすもの、と思い込んでいたからだが、その想いが、私の成長後の人生を大きく左右することになるのである。

「有難うございました。いい想い出になりますわ」

「もうちょっと、ゆるりとしやはったら、よろしいおますのにな・・・」

「いえ、そうも出来ませんの。弟には今日のうちに着くと云ってますし、…それに明日は、この子の学校のこともございますから…」

「…、そなら仕方おせんな。またお寄り、やしとくれやす」

 それから私は、母の弟夫婦の家で暮らし高校までを過ごした。叔父の家でも、厳寒になると雪が確かに舞った。しかし私は、その舞う雪に彼女を想い描かなかった。いや、描けなかったのだろう。古都で出逢ったその時とは、何かが違った。

 今思うと、本来、降る雪に(さが)などないのだ。男でもなければ女でもない。中学生の私が古都で出逢った淡雪は、私の中でのみ彼女だったのである。

 母は取り分けて父を憎んではいなかったようだ。私が高校を終え、ハワイのカレッジに留学すると、彼女との逢瀬は、全くの亡景(ゴ-ストビュ-)となってしまった。あの、フワリフワリと漂う彼女を忘れ去った訳ではない。ただ、運命というよりか、宿命ともいえる時の流れが、私をふたたびハワイへと引き戻し、彼女との仲を引き裂いたように思えるのである。

 父は農園の後継者として、既に私を決めていた。その手段として、私立カレッジにそれ相応の資金を供給したのだろうし、事実、私は何の困難もなくカレッジへ入学し、充実した大学生活を送った。そして、父の農園を手伝いながら、父の経営をも学ぶことになった。ハワイへ戻った時点で、彼女との接点は完全に途絶えてしまっていた。何故か、それが侘しかった。

 母は私が留学した一年後、いい男ができたのか、再婚した。一通のメ-ルで、そのことを知らされた私は、男女とはそんなものなんだ…と、若く思った。ただ、いつ男と女のかかわりが母にあったのだろう…と、そのことの方が私の心に(わだかま)った。

 それには、もう一つの理由(わけ)があった。その相手、つまり母の再婚相手というのは、あのときの、そう…徳山栄吉だった。今辿れば、中学自分の私は、男女のそういった細やかな情念の世界が解らなかったのだろう。既にあの頃から…下卑た言い方だが、母と徳山はできていたのかも知れない。そういえば、妙に馴れ馴れしい二人の遣り取りがあったではないか…と、思えたりもした。

  母のことはいいとしても、私には淡い思いへの郷愁が、やはり忘れられなかった。あの娘にはもう逢えないのだろうか…と、想えさえした。

  慈照寺の楼閣が雲間がかりの蒼天に浮上している。私は、ただじっと、銀閣と寒の空域を見つめる。

  しばし時が流れて、上空を見遣る私の眼も、そして首も、流石に疲れて視界を落とした。そのときである。一瞬ではあるが、頬に何やら冷たさのような感触を覚えた。よく見れば、空域のあちらこちらに風花が舞っていた。

 ━私が今いることを、あのも分かっているのか…━

  想いの途切れ途切れには、彼女にふたたび巡り逢えた感慨がある。昂まる喜びが溢れた。

  私は動くことをやめ、なおもその場に佇んだ。すると、どうだろう。夢か幻か、ふたたびあの頃の情景が…、赤子から小児へ、そして娘へと変貌を遂げて私に逢いに来ている。だが、妙なことに貴婦人にまでは変貌を遂げない。私にはその訳が計りえなかった。想えることといえば、彼女の含羞はにかみだが…、いや、私を励ましてくれているのだろうか…、やはりその意が汲み取れない。だがもう、亡景ゴスート・ビューでないことは確かなのだ。彼女は現実に逢いに来てくれた…、来てくれている。空は蒼く晴れているというのに…。

  私は幸せの絶頂の佇んで、慈照寺銀閣の楼閣を見上げていた。いや、その実は、彼女を見上げていたのに違いない。何故そうした行為をしていたのかは分からないが、何故か愛しい想いに駆られていたことは疑う余地がなかった。

                                         完

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