第9話:エルヴンハイムの門
王都から三日間の旅を経て、理人たちの馬車は深い森の中へと入っていった。
この森は、王都周辺の森とは明らかに異なっていた。木々は遥かに高く、幹は太く、そして何より空気が澄んでいた。魔力が濃密に満ちているのを、理人は肌で感じることができた。
「もうすぐです」
リーナが前方を指差した
「あの大樹が見えますか?あれがエルヴンハイムの入り口の目印です」
理人が目を凝らすと、森の奥に巨大な樹木が見えた。高さは優に百メートルを超え、幹の太さは建物ほどもある。
「あれは......普通の木じゃないですね」
「はい。世界樹の末裔と言われています。千年以上生きている古木です」
馬車が大樹に近づくと、突然、前方に人影が現れた。
長い銀髪、整った顔立ち、そして長い耳。エルフの戦士たちだった。彼らは弓を構え、警戒の目で馬車を見ている。
「止まれ」
リーナが馬車から降り、フードを外した。
「私です、リーナ・エルヴィンシアです」
戦士たちの表情が驚きに変わった。
「リーナ様!十年ぶりではありませんか」
「ええ、帰ってきました。そして、大切な客人をお連れしました」
戦士たちは理人たちを見た。その視線には、明らかな警戒心が含まれていた。
「ヒューマンとドワーフ......なぜ、外部の者を?」
「彼らは私の恩人です。そして、我が民を救うかもしれない知識を持っています」
「知識?」
「詳しくは、長老たちに説明します。通してください」
戦士たちは顔を見合わせたが、やがてリーナの要求を受け入れた。
「分かりました。ですが、武器は預けていただきます」
グランツが腰の斧を外した。
「これは武器じゃなくて工具なんだがな」
「それでも、です」
グランツは渋々斧を手渡した。
大樹の根元には、巧妙に隠された入り口があった。そこを抜けると、視界が開けた。
理人は息を呑んだ。
目の前に広がっていたのは、想像を超える光景だった。
巨木の間に、無数の木造建築が築かれている。それらは地上だけでなく、木の上、木と木の間にも作られていた。吊り橋が空中で建物を結び、螺旋階段が幹を登っていく。
そして何より、その美しさ。建物の一つ一つが芸術品のように精巧で、自然と完璧に調和していた。
「これが......エルヴンハイム」
「私の故郷です」
リーナは誇らしげに言った
「エルフの森の都」
街を歩くエルフたちは、皆優雅で、その動きには無駄がなかった。子供たちは木から木へと軽やかに飛び移り、大人たちは魔法で植物を操って作業をしている。
だが、理人たちが通ると、エルフたちの視線が冷たくなった。
「ヒューマンだ」
「ドワーフまでいる」
「なぜ、外部の者が......」
囁き声が聞こえる。明らかに歓迎されていない。
「気にしないでください」
リーナが小声で言った
「エルフは外部の者に慎重なだけです」
「慎重というより、敵意を感じますが」
グランツが呟いた。
彼らは街の中心部へと案内された。そこには、最も大きな巨木があり、その内部が巨大な会議場になっていた。
中に入ると、円形の広間に長老たちが座っていた。五人のエルフ、いずれも白髪で、長い年月を生きてきたことが窺える。
中央に座る、最も年老いた男性が口を開いた。
「リーナよ、よくぞ戻った」
「長老たちよ、ただいま帰りました」
「だが、なぜ外部の者を連れてきた。我らは人間やドワーフとは距離を置いてきた。それがエルヴンハイムの掟だ」
リーナは一歩前に出た。
「掟は理解しています。ですが、彼らは特別です。彼らは、私たちが長年苦しんできた問題を解決できるかもしれません」
「問題とは?」
「病です。十年前、母を含む多くの同胞が命を落とした、あの病です」
長老たちの表情が変わった。
「あの病は、治癒魔法でも治せなかった。それを、外部の者が治せるというのか?」
「治せるとは言いません。ですが、原因を解明できます。そして、予防する方法も」
「根拠は?」
リーナは理人を見た。理人は前に出て、丁寧に頭を下げた。
「初めまして。私は蒼葉理人と申します。遠い国から来た研究者です」
「遠い国......どこだ」
「それは......説明が難しいのですが」
理人は慎重に言葉を選んだ
「魔法ではなく、科学という学問が発展した世界から来ました」
「科学?」
長老の一人が眉をひそめた
「その言葉は聞いたことがない」
「科学とは、観察と実験によって、世界の仕組みを理解する学問です」
「魔法とは違うのか?」
「はい。魔法はマナを使って現象を起こしますが、科学はマナを使わずに、自然の法則を利用します」
長老たちは顔を見合わせた。
「我らは魔法で生きてきた。それで何の不自由もない。なぜ、科学などというものが必要なのだ」
「確かに、魔法は強力です」
理人は答えた
「ですが、魔法にも限界があります。例えば、病気。治癒魔法は傷を癒やすことはできますが、病気の根本原因を取り除くことはできません」
「それは、我らの魔法が未熟だからだ」
「いいえ」
理人は首を振った
「病気の多くは、目に見えない小さな生物によって引き起こされます。それを理解しなければ、どんなに強力な治癒魔法でも、完全には治せません」
「目に見えない生物?馬鹿な。そんなものが存在するというのか」
「存在します。そして、それをお見せすることができます」
理人はエドワードに合図した。エドワードが顕微鏡を運んできた。
「これは、顕微鏡という道具です。目に見えないほど小さなものを、何百倍にも拡大して見ることができます」
長老たちは懐疑的な表情で顕微鏡を見た。
「そんなことが可能なのか?」
「お見せします」
理人は準備してあった水のサンプルを顕微鏡にセットした。それは、エルヴンハイムの近くの池から採取したものだ。
「どうぞ、こちらを覗いてください」
中央の長老が立ち上がり、慎重に顕微鏡を覗いた。
次の瞬間、彼の目が見開かれた。
「これは......何だ......」
「微生物です。水の中には、無数の小さな生物がいます」
「動いている......本当に生きている......」
他の長老たちも次々と顕微鏡を覗いた。全員が驚愕の表情を浮かべた。
「信じられん......こんな世界が、我らの目には見えていなかったのか」
「はい」
理人は続けた
「そして、病気の原因となる微生物もいます。それを理解すれば、予防することができます」
「具体的には?」
「まず、清潔を保つこと。手を洗い、水を煮沸し、食べ物を適切に保存する。それだけで、多くの病気を防げます」
エドワードが補足した。
「十年前、私がこの森の近くを訪れたとき、簡単な衛生指導をしました。それで病気の拡大が止まったはずです」
「確かに......あのとき、旅の商人が来て、妙なことを言っていた」
長老の一人が思い出すように言った「水を煮てから飲め、手をよく洗え、と」
「それが科学の知識です」
長老たちは長い沈黙の後、中央の長老が口を開いた。
「理人殿、あなたの知識は興味深い。だが、一つ疑問がある」
「何でしょうか?」
「なぜ、あなたはその知識を我らに教えようとするのか。見返りは何だ」
理人は真剣な目で答えた。
「見返りは求めません。ただ、科学の価値を理解してほしいのです」
「科学の価値?」
「はい。今、ラグナロク王国では、科学が異端とされています。科学的思考を持つ者は迫害され、処罰されています」
長老たちは眉をひそめた。
「聞いている。王国が愚かな政策を始めたと」
「私たちは、その政策に反対しています。科学は危険なものではなく、人々を救うものだと証明したいのです」
「だから、ここに来たのか」
「はい。エルヴンハイムで科学の有用性を示すことができれば、それが他の場所にも広がるかもしれません」
長老たちは再び相談し始めた。長い議論の後、中央の長老が決断を下した。
「理人殿、我らはあなたの提案を受け入れよう」
「本当ですか!」
「ただし、条件がある。まず、あなたたちはエルヴンハイムの掟に従うこと。エルフの文化を尊重すること」
「もちろんです」
「次に、あなたの科学とやらが、本当に我らの役に立つことを証明すること。もし、証明できなければ、速やかに立ち去ってもらう」
「承知しました」
「最後に」
長老は厳しい表情になった
「我らの秘密を外部に漏らさないこと。エルヴンハイムの場所、生活、魔法の技術。これらは我らの宝だ」
「お約束します」
長老は頷いた。
「では、リーナよ。彼らを客人の家へ案内せよ。そして、明日から本格的に、科学とやらを見せてもらおう」
「ありがとうございます、長老たち」
理人たちは会議場を後にした。外に出ると、グランツが大きく息を吐いた。
「固い連中だな。エルフってのは」
「彼らは三百年以上生きています」
リーナが説明した
「長い年月を生きる種族は、変化を恐れるのです」
「でも、受け入れてくれました」
理人は前向きに言った
「これからが勝負です」
リーナは彼らを、大きな樹の上にある客人用の家へと案内した。木造の美しい建物で、内部は意外なほど広かった。
「ここで休んでください。明日から、活動を始めましょう」
「リーナさん、ありがとうございます」
理人は感謝を述べた
「あなたがいなければ、ここまで来られませんでした」
「いいえ、私こそ感謝しています」リーナは微笑んだ「ようやく、母の死が無駄ではなかったと証明できる機会を得ました」
その夜、理人は窓から外を眺めていた。
エルヴンハイムの夜は美しかった。無数の魔法の灯りが木々を照らし、まるで星空のように輝いていた。
「この世界に来て、二週間か......」
理人は自分の手を見つめた。もう、元の世界の感覚が遠くなりつつある。だが、戻る決意は変わらない。
「父さん、母さん。もう少しだけ、待っていてください。私は今、大切なことをしています」
エドワードが隣に来た。
「理人さん、明日からが本番ですね」
「はい。エルフたちに、科学の真価を見せます」
「何から始めますか?」
「まず、衛生管理の徹底です。手洗い、水の煮沸、食品の保存方法。基本的なことから」
「それで、病気を防げることを示す」
「ええ。そして、顕微鏡で病原菌を見せる。目に見える証拠があれば、理解が深まります」
グランツも加わった。
「俺には何ができる?」
「グランツさんには、道具を作ってもらいます。煮沸用の器具、保存用の容器、そして可能なら、もっと高性能な顕微鏡も」
「任せろ。ドワーフの技術を見せてやる」
三人は、明日への決意を新たにした。
エルヴンハイムでの挑戦が、今始まろうとしていた。
科学は、閉鎖的なエルフ社会に受け入れられるのか。
そして、理人たちは王国の迫害から逃れ、新たな拠点を築けるのか。
すべては、これからの行動にかかっていた。
森の夜は深く、しかし理人の心には希望の光が灯っていた。
科学と魔法の融合。
それは、決して夢物語ではない。
この世界で、それが可能であることを証明する。
そして、元の世界への道を切り開く。
理人は、静かに決意を固めた。
明日から、新たな戦いが始まる。




