第8話:逃走
「エドワード!最後の警告だ!開けなければ、力ずくで入る!」
扉の外から響く怒号に、研究室は緊張に包まれた。理人の心臓は激しく打っていた。
「どうする......」エドワードの声は震えていた。
グランツが素早く周囲を見渡した。
「他に出口は?」
「ない......この階段だけだ」
「なら、戦うしかないのか」
「いや」
理人が冷静に言った
「戦っても勝ち目はありません。それに、暴力を使えば私たちが悪者になる」
「では、どうする!」
理人は顕微鏡を見た。せっかく完成した装置。これを破壊されるわけにはいかない。そして、エドワードが三十年間蓄積してきた研究資料。
「エドワードさん、重要な資料はどこに?」
「あの棚だ。三十年分の研究ノートが」
「グランツさん、その資料を運べますか?」
「重いが、俺なら何とか」
「では、お願いします。エドワードさんは顕微鏡を」
「理人さん、あなたは?」
「私は、時間を稼ぎます」
理人は階段へ向かった。エドワードが叫ぶ。
「待ってください!危険です!」
「大丈夫です。信じてください」
理人は階段を上り、扉の前に立った。深呼吸をして、扉を開けた。
目の前には、五人の武装した警備隊員が立っていた。彼らは剣と魔法の杖を手にしている。
「あなたが、エドワード・マーチャントか?」
隊長らしき男が尋ねた。
「いいえ、私は蒼葉理人と言います。エドワードさんの知人です」
「知人?ならば、あなたも共犯の可能性がある。下がれ。我々は令状に基づいて、この建物を捜索する」
理人は動かなかった。
「令状を見せていただけますか?」
「生意気な」
隊長は令状を取り出した。
理人はそれを受け取り、ゆっくりと読み始めた。実際には、時間稼ぎをしているだけだが。
「エドワード・マーチャント、異端思想の所持と研究。科学的書物の隠匿。魔法の原理を冒涜的に解明しようとした罪......」
理人は心の中で、地下のエドワードとグランツに時間を与えようとしていた。もう少し、もう少しだけ。
「読み終わったか?」
「はい。しかし、疑問があります」
「疑問?」
「この令状には、『科学的書物の隠匿』とありますが、科学の定義が明記されていません。何をもって科学とするのですか?」
隊長は苛立った表情を見せた。
「屁理屈を言うな。魔法以外で世界を説明しようとすることだ」
「では、鍛冶屋が金属の性質を研究することも科学ですか?料理人が火加減を工夫することも?」
「それは......」
「つまり、この令状は曖昧です。何が違法で何が合法か、明確な基準がありません」
隊員の一人が前に出た。
「隊長、こいつは時間稼ぎをしています」
「分かっている。もういい、力ずくで入る」
理人は覚悟を決めた。もう十分時間を稼いだ。
「分かりました。どうぞ」
理人は横に退いた。隊員たちが階段を降りていく。
地下室に入った隊長は、驚いた表情を浮かべた。
「なんと......こんな広い研究室が」
だが、室内は既に整理されていた。重要な資料は消え、顕微鏡も見当たらない。残っているのは、基本的な実験器具と、一般的な商品だけだった。
「おかしい......情報では、大量の禁書があるはずだが」
隊員たちが棚を調べ始めた。だが、魔法や商業に関する一般的な書物しか見つからない。
「隊長、これは......」
「くそ、事前に警告が漏れたか」
その時、エドワードが店の奥から現れた。
「どういうご用件でしょうか?」
「エドワード・マーチャント、あなたを異端思想の罪で逮捕する」
「異端思想?私はただの商人ですよ」
「証拠がある。密告によれば、あなたは科学的な研究を行っていた」
「密告?」
エドワードは困惑した表情を作った
「誰がそんなことを?私は魔法道具を扱う、普通の商人です」
隊長は部下に指示した。
「すべて調べろ。必ず証拠がある」
隊員たちが徹底的に捜索を始めた。床板を剥がし、壁を叩き、棚の奥まで確認する。
だが、何も見つからなかった。
一時間後、隊長は苛立ちながら言った。
「今回は見逃す。だが、監視を続ける。何か怪しい動きがあれば、即座に逮捕する」
「ご苦労様です」
エドワードは落ち着いた声で答えた。
警備隊が去った後、理人とエドワードは深いため息をついた。
「助かりました......」
「グランツさんは?」
「裏口から逃げました。資料と顕微鏡を持って」
「裏口?」
「実は、地下室から隣の建物の地下につながる通路があるんです。三十年前、万が一の時のために掘っておいたんです」
理人は感心した。エドワードの用意周到さが、今回彼らを救った。
「しかし、誰が密告したんでしょう」
「分かりません。でも、これで私たちは完全に監視対象になりました」
その夜、理人とエドワードは別の場所で、グランツと落ち合った。それは王都の外れにある、グランツの隠れ家だった。
「無事だったか」
グランツが迎えた。
「ええ、おかげさまで」
隠れ家は小さな小屋だったが、資料と顕微鏡は無事だった。
「これからどうする?」
グランツが尋ねた。
「エドワードさんの店には、もう戻れません。常に監視されるでしょう」
「では、私の工房を使いますか?」
「いや、それもあなたを危険に晒すことになる」
理人は考えた
「私たちは、しばらく王都を離れた方がいいかもしれません」
「王都を離れる?」
「はい。地方なら、監視の目も緩いでしょう。そこで研究を続けて、力を蓄える」
エドワードは深く考え込んだ。
「確かに......だが、リーナとの連絡が取れなくなる」
「リーナさんには、伝言を残しましょう。彼女は賢い。理解してくれるはずです」
その時、扉がノックされた。三人は警戒したが、扉の向こうから聞こえたのは、聞き覚えのある声だった。
「エドワードさん、理人さん、私です」
「リーナ!」
扉を開けると、フードを深く被ったリーナが立っていた。
「どうして、ここが分かったんですか?」
「グランツさんの隠れ家のことは、以前エドワードさんから聞いていました。警備隊の動きを知って、すぐにここに来ました」
「危険だったのに」
「あなたたちの方が危険です」
リーナは真剣な表情で言った
「密告者が誰か、分かりました」
「誰です?」
「エドワードさんの店の近くに住む商人です。彼は最近、商売で失敗して借金を抱えていました。報奨金目当てで密告したようです」
「そんな......」エドワードは愕然とした。
「でも、証拠が見つからなかったことで、彼の信用も失墜しました。虚偽の密告として、彼自身が罰せられる可能性もあります」
「因果応報ですね」
「ただし、王国の取り締まりは続きます。今後も密告は増えるでしょう」
理人は提案した。
「リーナさん、私たちは王都を離れようと思っています」
「やはり......それが賢明ですね」
「どこか、安全な場所を知りませんか?」
リーナは考えた。
「東の森、エルフの集落があります。私の故郷です。そこなら、王国の監視も届きません」
「エルフの集落......受け入れてもらえますか?」
「私が説明すれば大丈夫です。それに、あなたたちが持っている顕微鏡。あれを見せれば、理解してもらえるはずです」
「顕微鏡で?」
「はい。私の故郷では、まだ病気が問題になっています。顕微鏡で病気の原因を見せることができれば、科学の価値を理解してもらえます」
理人の目が輝いた。
「それだ!科学を広めるには、実用的な成果を示すことが一番効果的です」
「では、明日の朝、出発しましょう」エドワードが決断した「準備を整えて」
「私も同行します」
リーナが言った。
「しかし、王宮の仕事は」
「辞職します。私はもう、この王国の政策を支持できません」
「リーナ......」
「私は、あなたたちと共に科学の道を進みます。母を救えなかった悔しさを、もう味わいたくありません」
四人は固い握手を交わした。
翌朝、夜明け前。
理人、エドワード、グランツ、リーナの四人は、荷馬車に資料と機材を積み込んでいた。
「本当に行くのか?」
グランツが尋ねた。
「はい。あなたも一緒に来てください」理人が答えた。
「俺は......工房があるからな」
「グランツさん、あなたの技術は必要です。それに、ここに残れば、いずれ標的にされます」
グランツは迷った。だが、やがて決意した。
「分かった。俺も行く。どうせ、お前らだけじゃ碌な道具も作れん」
理人は笑った。
「頼りにしています」
馬車が動き出す。王都アルテミシアの街並みが、朝靄の中に消えていく。
理人は振り返った。わずか一週間しか過ごしていない街。だが、ここで多くのことを学び、多くの仲間を得た。
「いつか、戻ってきます」
理人は心の中で誓った
「科学の正当性を証明して」
馬車は東へ向かって進んでいく。前方には深い森が広がっている。
リーナが語った。
「私の故郷、エルヴンハイム。そこは自然と共生する、美しい場所です。でも、同時に閉鎖的な場所でもあります」
「閉鎖的?」
「エルフは伝統を重んじます。外部の者を受け入れることには慎重です。特に、ヒューマンやドワーフに対しては」
「種族間の壁ですか」
「はい。でも、私は信じています。あなたたちなら、その壁を越えられると」
理人は前を見つめた。新たな挑戦が始まる。
王都での失敗は、決して無駄ではなかった。顕微鏡を完成させ、仲間を集め、そして科学の力を実証する機会を得た。
エドワードが言った。
「理人さん、後悔していませんか?あなたを巻き込んでしまって」
「いいえ」
理人は微笑んだ
「これは私自身が選んだ道です。科学者として、そして一人の人間として、正しいと信じる道を進んでいます」
「ありがとう」
「それに」
理人は空を見上げた
「この冒険を通じて、元の世界に戻る方法も見つかるかもしれません。空間魔法を習得できたのは、大きな進歩です」
「そうですね。無属性魔法の才能があるあなたなら、いつか異世界転移の魔法も習得できるかもしれない」
グランツが豪快に笑った。
「なんだ、お前ら。まるで冒険者だな」
「冒険者......」
理人は笑った
「確かに、そうかもしれませんね」
科学を追求する冒険者たち。
魔法が支配するこの世界で、科学の光を灯そうとする者たち。
彼らの旅は、まだ始まったばかりだった。
馬車は森へと入っていく。木々の間から差し込む朝日が、新しい一日の始まりを告げていた。
理人は心の中で、両親に語りかけた。
「父さん、母さん。僕は今、とても遠い場所にいます。でも、科学者として正しいことをしています。必ず戻ります。そして、この世界で学んだことを持ち帰ります」
異世界での新たな章が、今、幕を開けようとしていた。
エルヴンハイムで、彼らは何を見つけるのか。
科学と魔法の融合は、どこまで進むのか。
そして、理人は元の世界に戻ることができるのか。
すべての答えは、これから明らかになる。
馬車の車輪が立てる音だけが、静かな森に響いていた。
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