第5話:迫り来る影
リーナは研究室の椅子に腰を下ろし、持ってきた羊皮紙の束をテーブルに広げた。その表情は、普段の穏やかさとは異なり、深刻そのものだった。
「三日前、王宮に聖教皇国からの使節団が訪れました」
エドワードと理人は、リーナの言葉に耳を傾けた。
「使節団の目的は、『異端思想の取り締まり強化』についての協力要請です。特に、科学的思考を持つ者、魔法以外の方法で世界を理解しようとする者を危険視しています」
「聖教皇国が、なぜそこまで科学を恐れるのですか?」
理人が尋ねた。
「彼らの宗教観では、魔法は神聖なる神の恵みです」
リーナは説明した
「魔法を神の奇跡ではなく、自然現象として説明しようとすることは、神への冒涜とみなされます」
「科学と宗教の対立......」
理人は呟いた。
それは、かつて地球でも起きたことだ。ガリレオが地動説を唱えて宗教裁判にかけられたように。コペルニクスの理論が禁書とされたように。歴史は繰り返すのか。
「ラグナロク王国は多種族国家で、比較的寛容です」
エドワードが補足した
「だが、聖教皇国は強大な軍事力を持つ。彼らの圧力を無視することはできない」
「王国の貴族たちの中にも、科学を危険視する派閥があります」
リーナは別の羊皮紙を指差した
「彼らは『伝統派』と呼ばれ、魔法至上主義を掲げています。現在の国王陛下は中立的ですが、伝統派の勢力は無視できません」
「具体的に、どのような取り締まりが行われるのですか?」
「まず、科学的な書物の検閲です。物理法則や自然の仕組みについて書かれた本は、『危険思想を含む』として回収される可能性があります」
エドワードの顔色が変わった。彼の研究室には、三十年間蓄積した科学の記録がある。
「次に、密告制度の導入です。科学的思考を持つ者を見つけた場合、報告することが推奨されます。報奨金まで出るそうです」
「密告制度......」
理人は吐き気を覚えた。
それは、歴史上の暗黒時代そのものだ。魔女狩り、異端審問。人々が互いを監視し、恐怖で支配する社会。
「そして最悪の場合、『浄化の儀式』が行われます」
「浄化の儀式?」
「科学的思考を持つ者を、公開の場で魔法によって『矯正』する儀式です。記憶を操作する魔法や、思考を封じる魔法が使われることもあります」
理人は背筋に冷たいものが走った。思考の自由を奪う。それは、人間の尊厳を否定する行為だ。
「リーナ、それは本当なのか?」
エドワードが震える声で聞いた。
「はい。聖教皇国では既に行われています。そして今、彼らはその制度をラグナロク王国にも導入しようとしています」
沈黙が研究室を支配した。
理人は拳を握りしめた。この世界に来て、まだ二日しか経っていない。だが、既に直面している。科学が迫害される現実に。
「私たちは、どうすればいいのでしょうか」
理人が口を開いた。
「まずは、目立たないことです」
リーナは真剣な表情で答えた
「エドワードさん、あなたの研究室はこれまで誰にも気づかれていませんでした。それを維持しなければなりません」
「理人さんも、街で科学的な話をすることは避けてください。誰が聞いているか分かりません」
理人は頷いた。だが、心の中では疑問が渦巻いていた。隠れて、息を潜めて生きる。それで本当にいいのか。科学の真理を、闇の中に閉じ込めたままでいいのか。
「しかし」
エドワードが口を開いた
「いつまで隠れ続ければいいのだろう。私は三十年、誰にも言えずに研究してきた。そして今、理人さんという仲間を得た。このまま何もせずにいるのは......」
「エドワードさん、お気持ちは分かります」
リーナは優しく言った
「でも、今は耐え忍ぶ時です。王国の政治状況が変われば、機会が来るかもしれません」
「政治状況が変わる?」
「国王陛下には娘がいます。第一王女アリシア殿下。彼女は知的好奇心が強く、様々な知識に興味を持っています。もし彼女が次期国王となれば、状況は変わるかもしれません」
「王女が王位を継ぐのですか?」
理人が驚いて聞いた。
「ラグナロク王国では、能力があれば性別に関係なく王位を継承できます。アリシア殿下は魔法の才能も高く、次期国王の最有力候補です」
エドワードは考え込んだ。
「アリシア殿下か......確かに、彼女なら理解してくれるかもしれない」
「ただし」
リーナは警告した
「王女に近づくことは容易ではありません。それに、今は伝統派が王女を監視しています。彼女が科学に興味を持つことを、阻止しようとしているのです」
理人は立ち上がった。
「リーナさん、一つ質問があります。あなたはなぜ、科学に興味を持ったのですか?エルフは魔法に長けた種族だと聞きました。魔法があれば、科学など必要ないのでは?」
リーナは穏やかに微笑んだ。
「私の故郷は、王国の東にある森です。そこで、ある病気が流行りました。治癒魔法では治せない病気でした」
彼女の表情が曇る。
「多くの同胞が亡くなりました。私の母も、その一人です。治癒魔法は傷を癒やすことはできますが、病気の根本原因を取り除くことはできません。なぜなら、私たちは病気が何なのか、理解していないからです」
理人は静かに聞いていた。
「そのとき、ある旅の商人が来ました。彼は簡単な衛生管理の方法を教えてくれました。水を煮沸すること、手を清潔に保つこと。それだけで、病気の広がりが止まったのです」
「その商人が......」
「エドワードさんです」
リーナはエドワードを見た
「彼は私に、病気には目に見えない小さな生物が関係していると教えてくれました。それを知ることで、予防ができると」
「細菌......」
理人は呟いた。
「そうです、理人さんの世界では『細菌』と呼ぶそうですね。エドワードさんから聞きました」
エドワードが説明を加えた。
「私も詳しくは理解していませんが、病気の多くは目に見えない小さな生物によって引き起こされる。理人さんの世界では、それが科学的に証明されているそうですね」
「はい」
理人は頷いた
「顕微鏡という道具で、細菌を見ることができます。そして、適切な衛生管理や薬で、多くの病気を予防・治療できます」
リーナの目が輝いた。
「それです!それが私が科学を学びたい理由です。魔法は素晴らしい力ですが、万能ではありません。科学があれば、魔法では救えない人々を救えるかもしれない」
理人は深く感動した。リーナの動機は純粋だ。人を救いたい。その想いが、彼女を科学へと導いた。
「リーナさん、細菌についてもっと詳しく教えましょうか?」
「本当ですか!」
「ええ。そして、簡易的な顕微鏡を作れるかもしれません。この世界の技術でも、レンズさえあれば」
エドワードが立ち上がった。
「レンズなら、私に手がかりがあります。ドワーフの職人で、ガラス細工に長けた者がいます。彼なら、精密なレンズを作れるかもしれない」
「ドワーフ......」
理人は興味を持った
「彼らは科学的思考に理解がありますか?」
「ドワーフは実用主義者です。魔法も使いますが、それ以上に技術を重視します。彼らなら、科学の価値を理解してくれるはずです」
リーナが時計を確認した。
「そろそろ王宮に戻らなければなりません。あまり長く離れていると、怪しまれます」
「リーナ、ありがとう。また情報があれば教えてくれ」
「はい。お二人とも、くれぐれも気をつけてください」
リーナは階段を上り、地下室を後にした。
エドワードと理人は、しばらく沈黙していた。
「理人さん」
エドワードがゆっくりと口を開いた
「私たちは今、岐路に立っています。隠れ続けるか、それとも行動するか」
「エドワードさんは、どうしたいのですか?」
「正直に言えば......もう隠れるのは疲れました」
エドワードは目を閉じた
「三十年間、誰にも理解されず、成果を発表することもできず。だが、あなたが来た。リーナもいる。もしかしたら、変化を起こせるかもしれない」
「しかし、危険が伴います」
「分かっています。ですが、このまま何もせずに、科学が完全に闇に葬られるのを見ているわけにはいきません」
理人は考えた。自分は元の世界に戻ることが目的だ。この世界の問題に深く関わるべきなのか。だが、科学者としての使命感が、彼を突き動かしていた。
「エドワードさん、私も同じ気持ちです」
理人は決意を込めて言った
「科学は人類の財産です。どの世界でも、それは変わらない。迫害されるべきものではありません」
「では、私たちは戦うのですか?」
「いいえ、戦うのではありません」理人は微笑んだ「証明するのです。科学の有用性を。科学が人々を救うことを。それが示せれば、迫害する理由はなくなります」
エドワードは理人の手を握った。
「その通りですね。では、まずは顕微鏡を作りましょう。そして、病気の原因を人々に見せるのです」
「ええ。ただし、慎重に。少しずつ、確実に」
二人は固い握手を交わした。
その夜、理人は自室で天井を見つめていた。この世界に来て、まだ三日目。だが、既に大きな決断をしてしまった。
科学と魔法の対立。それは単なる知識の違いではなく、権力と信仰、伝統と革新の対立だ。
窓の外には、見知らぬ星々が輝いていた。あの星座は、地球のものとは明らかに違う。ここは、確かに異世界なのだ。
「父さん、母さん......」
理人は両親のことを思った。世界的な科学者である彼らは、今どうしているだろうか。息子が突然消えて、必死に探しているに違いない。
「必ず戻ります。でも、その前に......この世界で、やるべきことがあるようです」
理人は決意を新たにした。元の世界に戻るために魔法を学び、同時に、この世界に科学の光を灯す。
それは困難な道だろう。だが、科学者・蒼葉理人は、決して諦めない。
真理を追求する者として、そして人として、正しいと信じる道を進む。
明日からは、より本格的な活動が始まる。顕微鏡の製作、ドワーフとの接触、そして魔法の更なる習得。
理人の異世界での冒険は、新たな局面を迎えようとしていた。
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