第2話:商人と科学者
蒼葉理人は石造りの路地を抜け、大通りへと出た。目の前に広がる光景は、まさに異世界そのものだった。
市場には色とりどりの布地、見たこともない果物、奇妙な形をした道具が並んでいる。商人たちの威勢の良い声が飛び交い、客との駆け引きが繰り広げられている。そして何より、この世界の住人たちの姿が理人の目を引いた。
長い耳を持ち、優美な顔立ちをした者たち。おそらくエルフだろう。背は低いが筋骨隆々とした体格で、豪快に笑う者たち。ドワーフか。獣の耳と尻尾を持ち、俊敏に動き回る者たち。獣人族だ。
さらに、翼を持つ者、鱗に覆われた肌を持つ者、体が半透明に見える者。理人が知るファンタジーの種族を遥かに超えた多様性が、この街には存在していた。
「落ち着け。パニックになっても仕方がない」
理人は自分に言い聞かせた。科学者として、まず観察し、仮説を立て、検証する。その基本原則は、どんな状況でも変わらない。
ポケットからメモ帳とボールペンを取り出し、目に入った情報を記録し始めた。街の構造、人々の服装、言語の特徴。そして何より、魔法の使用状況だ。
理人の視線の先で、ある女性が手をかざした。彼女の口から言葉が紡がれる。
「水よ、我が手に集いて」
すると、彼女の掌に水の球が浮かび上がった。それを器に注ぎ、客に差し出す。明らかに、魔法で水を生成したのだ。
「質量保存の法則は......いや、待て。エネルギー保存則すら無視している可能性がある」
理人の物理学者としての常識が音を立てて崩れていく。だが同時に、強烈な好奇心が湧き上がる。この現象をどう説明するのか。未知のエネルギー源があるのか。それとも、この世界では根本的な物理法則が異なるのか。
「あの、すみません」
背後から声をかけられ、理人は振り返った。
そこに立っていたのは、五十代後半と思われる男性だった。穏やかな顔立ちで、髪には白いものが混じっている。服装は商人のようだが、どこか知的な雰囲気を漂わせていた。
「はい?」
「あなた、見慣れない服装をしていますね。旅の方ですか?」
理人は自分の格好を見下ろした。白衣にジーンズ、スニーカー。確かに、この世界では完全に浮いている。
「ええ、まあ......遠いところから来まして」
「ふむ。それにしても、あなたの持っているそれは何ですか?」
男は理人の手元、メモ帳とボールペンを指差した。
「これは......筆記用具です。文字を書くための」
「興味深い。羽根ペンでも木炭でもない。それでいて、滑らかに文字が書けるようですね」
男の観察眼の鋭さに、理人は警戒心を抱いた。だが同時に、この男が単なる商人ではないという直感も働く。
「あの、あなたは?」
「申し遅れました。私はエドワード。この街で商いをしている者です」
エドワードと名乗った男は、穏やかに微笑んだ。だがその目には、深い知性の光が宿っていた。
「商人、ですか」
「ええ、表向きはね」
エドワードの言葉に、理人は目を見開いた。表向き、という言い方。それは裏があるということだ。
「あなた、この世界の人間ではないでしょう」
エドワードの言葉は、断定ではなく確信に満ちていた。理人は返答に困った。下手に嘘をついても、この男には見抜かれるだろう。
「......どうして、そう思うのですか?」
「あなたの目ですよ。この世界の魔法を見たときの反応。驚きと、そして好奇心。あれは、魔法を当たり前のものとして育った者の目ではない。むしろ、未知の現象を分析しようとする、研究者の目だ」
理人は言葉を失った。この男は、たった数分の観察で、自分の本質を見抜いている。
「それに」
エドワードは続けた
「あなたが先ほど呟いていた言葉。『質量保存の法則』『エネルギー保存則』。この世界では聞いたことのない言葉です。ですが、私には理解できる」
「あなたは......」
「少しだけ、時間をいただけますか。立ち話も何ですし、私の店にどうぞ。そこでゆっくりお話ししましょう」
理人は迷った。この男を信用していいのか。だが、この異世界で情報を得るためには、誰かの助けが必要だ。そして何より、このエドワードという男からは、敵意ではなく純粋な知的好奇心を感じた。
「......分かりました」
「こちらへ」
エドワードは理人を市場の奥へと案内した。大通りから外れ、少し静かな通りに面した、中規模の店の前で立ち止まる。
「エドワード商会」
と書かれた看板が掲げられていた。
店内に入ると、様々な商品が並んでいる。布地、香辛料、工芸品。一見すると普通の商店だ。だが、理人の目は、棚の奥に並ぶ奇妙な道具類に留まった。
金属製の器具、ガラスの容器、精密な天秤。それらは、実験器具に見えた。
「気づきましたか」
エドワードが小声で言った
「表の商品は、目くらましです。本当に大切なものは、別の場所にある」
エドワードは店の奥の扉を開けた。狭い階段が地下へと続いている。
「ついてきてください」
理人は従った。階段を降りると、そこには想像もしていなかった光景が広がっていた。
地下室は広く、本棚にはぎっしりと書物が並んでいる。作業台には様々な実験器具が置かれ、壁には図表や数式のようなものが描かれた羊皮紙が貼られていた。
「これは......研究室?」
「その通りです」
エドワードは嬉しそうに答えた「私の、秘密の研究室です」
理人は呆然と室内を見回した。明らかに、この世界の技術レベルを超えた知識がここには蓄積されている。
「あなたは、科学を研究しているんですか?」
「科学......ああ、その言葉は初めて聞きますが、意味は理解できます。そう、私は世界の仕組みを、理に基づいて解明しようとしているのです」
エドワードは作業台に歩み寄り、一冊の分厚いノートを手に取った。
「なぜ物は落ちるのか。なぜ火は熱いのか。なぜ水は流れるのか。この世界の人々は、それらすべてを『魔法の影響』『精霊の働き』で片付けてしまう。ですが、私はそれに満足できなかった」
エドワードの目は、理人と同じ、研究者の目をしていた。
「物が落ちるのには、理由がある。火が熱いのには、原理がある。水が流れるのには、法則がある。それを解明したい。ずっと、そう思ってきました」
「しかし、この世界では」
「科学は異端とされています」
エドワードは苦々しく言った
「魔法こそが正統であり、それ以外の方法で世界を理解しようとする者は、危険思想の持ち主とされる。発覚すれば、追放、あるいはそれ以上の罰を受けることもあります」
理人は息を呑んだ。これは、かつて地球で起きた宗教と科学の対立に似ている。ガリレオ・ガリレイが地動説を唱えて迫害されたように。
「だから、私は表向きは商人として生き、裏でこっそりと研究を続けているのです。三十年以上、ずっと」
「三十年......」
「ええ。孤独な研究でした。理解者は誰もいない。成果を発表することもできない。ただ、真実を知りたいという欲求だけが、私を突き動かしてきました」
エドワードは理人を真っ直ぐに見つめた。
「ですが、あなたは違う。あなたは、私と同じ目をしている。いや、それ以上だ。あなたは既に、多くの答えを知っているのでしょう?」
理人は深く息を吐いた。この男を信用するかどうか、今ここで決めなければならない。
「......私の名前は、蒼葉理人。あなたの言う通り、この世界の人間ではありません」
「やはり」
「私は、科学が高度に発展した世界から来ました。物理学を専攻する大学院生です。理論物理学と実験物理学、両方を研究しています」
エドワードの顔が、驚きと歓喜に染まった。
「科学が発展した世界......!そんな世界が存在するのですか!」
「はい。私の世界では、科学は社会の基盤です。物が落ちる理由も、火が熱い原理も、水が流れる法則も、すべて解明されています」
「なんと......」
エドワードは震える声で言った
「私が三十年かけても辿り着けなかった答えが、あなたの世界には既にあるのですね」
「ええ。ですが、私は今、困っています」
理人は自分の状況を説明した。謎の男に転移させられたこと。ここがどこなのか分からないこと。地球の過去なのか、完全な異世界なのか判断がつかないこと。そして、元の世界に戻る方法を探していること。
エドワードは静かに聞いていた。
「なるほど......確かに難しい状況ですね。ですが、私にはこの世界が地球の過去だとは思えません」
「どうしてですか?」
「魔法です。あなたの世界に、魔法は存在しましたか?」
「いいえ。少なくとも、私の知る限りでは」
「では、この世界は地球とは別の世界でしょう。魔法という根本的に異なる現象が存在する以上、同じ星の歴史だとは考えにくい」
理人は考え込んだ。確かに、エドワードの推論は理にかなっている。だが、完全な証明にはならない。
「証明する方法はありますか?」
「天体観測です」
エドワードは即座に答えた
「星の配置を調べれば、この世界が地球なのか、それとも別の惑星なのか分かるはずです」
「なるほど......」
「ですが、それには時間がかかります。まずは、あなたが安全に過ごせる場所を確保しましょう」
エドワードは理人の肩に手を置いた。
「理人さん。あなたは私にとって、三十年待ち望んだ存在です。どうか、私に協力させてください。あなたが元の世界に戻る方法を見つけるまで、私がサポートします」
「しかし、私があなたに迷惑をかけることになるかもしれません。科学が異端とされる世界で」
「構いません」
エドワードは力強く言った
「私は既に、この道を選んだのです。そして今、あなたという最高の協力者を得た。これは、運命かもしれませんね」
理人は、エドワードの真摯な眼差しを見て、決心した。
「分かりました。あなたを信頼します、エドワードさん」
「ありがとうございます。では、まずこの世界について、基本的な情報をお教えしましょう」
エドワードは壁に掛けられた大きな地図を指差した。
「ここは、ラグナロク王国。十五の種族が共存する、この大陸で最も繁栄した国です。そして、あなたが今いるこの街は、王都アルテミシア」
理人はメモ帳を取り出し、記録を始めた。
こうして、蒼葉理人の異世界での生活が、本格的に始まろうとしていた。科学が異端とされる世界で、彼は何を成し遂げることができるのか。
その答えは、まだ誰にも分からなかった。
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