魔王と拷問官
「やめろ……!頼む、見ろ、血が、血が止まらないんだよぉ!!なぁ!!」
ごうごうと唸る風が石壁を叩きつける。その音に混じり、男の絶叫が牢獄中に響き渡った。
男はがっしりとした体躯を持つ兵士だったが、今は縄に縛られ、椅子に座らされている。腕は後ろ手に固く縛られ、血が滲んでいた。
彼の前に立つのは、小柄な少女だった。黒い修道服のような衣をまとい、顔の下半分を布で覆っている。その姿は無機質で、感情のかけらも感じさせない。
「場所を」
淡々とした声が牢の冷たい空気に溶ける。
「だから、知らねぇって言ってるだろ!!」
「また、お望みですか」
少女がペンチを手に取ると、男はビクリと震えた。ペンチは刃こぼれしており、無骨で使い込まれている。その刃先が男の口元へと近づくと、彼の荒い息がますます乱れた。
「や……やめ……お願いだから、それだけは……」
「では、話して」
「くそっ……!分かった、話す!話すから……!」
男の目から涙が溢れた。唇が震え、彼はとうとう情報を口にした。
少女はそれを聞き終えると、ペンチを机に置いた。
「ご協力、感謝します」
淡々と礼を告げると、少女は背を向けた。
拷問官アンリ。
彼女はどんな凶悪な罪人も、言葉と技術だけで白状させる。
無駄に殺すことは決してない。
だが、その無感情さゆえに、人々は彼女を恐れた。
拷問を終え、アンリは石畳の道を歩く。
道行く者たちは彼女を見るなり、露骨に視線を逸らした。
「……拷問官だ」
「うわ、朝から気味が悪い」
「あの家系、まだ続いてたんだな」
「男が生まれないからって女に継がせるなんて……普通、終わるべきだろう」
囁かれる陰口を、アンリは何も気にしない。
ただ、まっすぐに歩き、仕事の報酬を受け取りに向かう。
役人のもとに着くと、無造作に小さな袋が投げられた。
開くと、わずかな銀貨が転がる。
「……これで全部?」
「ああ。文句があるなら、他を当たるんだな」
役人は嘲笑を浮かべる。アンリは黙って銀貨を数え、短く礼を言って立ち去った。
「ちっ、不気味な女だ」
「本当に女なのか?人形みたいに感情がねぇ」
後ろで笑い声が聞こえるが、アンリは振り返らない。
誰もが彼女を恐れ、侮蔑し、関わりたがらなかった。
それが、いつものことだった。
「ただいま」
暗い部屋に声をかける。
当然、返事はない。
両親は戦火で死に、家には誰もいなかった。
机の上には古びた拷問器具と、使いかけのロウソク。
アンリは小さなパンをかじる。
硬くて、喉を通りにくい。
だが、物価が上がるこの国では、これすら贅沢だった。
食べ終わっても満足できず、空腹を少しでも誤魔化そうとベッドに横になる。
「……価値がないのは、私か」
誰もが恐れ、避ける。
友達も、恋人もいない。
静かな暗闇の中で、アンリは目を閉じた。
そして、嵐が訪れた。
魔族が侵攻し、瘴気が街を覆った。
人々は逃げ、街は死んだように静まり返る。
アンリが目を覚ましたとき、異変に気づいた。
「……誰も、いない?」
街には、人影がなかった。
家々の扉は開け放たれ、物が散乱している。
牛や犬が放置され、誰かを探すように鳴いていた。
アンリは息を呑む。
そして、その場で足が止まる。
目の前に、見知らぬ男が立っていた。
黒いマントを纏い、黒曜石のような瞳を持つ男。
長い黒髪が風に揺れ、鋭い視線がこちらを捉えている。
角──山羊のような、美しくも不吉な角が生えていた。
魔族だ。
心臓が強く跳ねる。
体が硬直し、逃げることもできない。
男は静かに口を開いた。
「──名は?」
低く、深い声だった。
「……え?」
「名を聞いている」
アンリは直感する。
この男は、ただの魔族ではない。
「アンリ……」
名を告げると、男は目を細めた。
「そうか」
それだけ言い、男は背を向ける。
次の瞬間、彼の姿は消えていた。
アンリは立ち尽くす。
荒れる風が、冷たい空気を運んでいた。
──今のは、なんだったの?
足の力が抜け、膝をついた。
恐怖と不安が、遅れて押し寄せる。
──ここにいては危険だ。
震える手で荷物をまとめ、職場へと走り出す。
「アンリ! お前……いったい何をした!」
職場についた瞬間、上司のタフスが血相を変えて怒鳴り込んできた。
何のことかわからず首を振るが、彼は苛立たしげに頭を掻きむしりながら、早口でまくし立てる。
「魔王だ……! 魔族の王が捕虜になった! それで拷問を受けるならアンリにしろって言ってきたんだ!」
「……魔王?」
訝しげに眉をひそめる。
そんな大物が、どうしてわざわざ捕虜に?
「なんで魔王がお前の名前を知っている!?」
タフスの叫びが耳に刺さる。
アンリの脳裏に、ついさっきの出来事がよぎった。
(……まさか、アイツ?)
さっき街で会った男。あの、異様なまでに落ち着いた態度──。
「魔王は兵士に連れてこられたわけじゃない……むしろ、手負いの兵士に案内されてきたんだ! しかも無傷でな! なのに、捕虜になると言ってきた!」
「……」
「で、捕虜だから拷問を受けるのは当然だと主張してな……しかも、わざわざ“アンリに”って名指しだ!」
アンリは唇を引き結ぶ。
やはり、あの男なのか。
「いいか、慎重にやれよ! でなければ、俺がお前を拷問してやる!!」
タフスが吐き捨てるように言い残し、部屋を出て行く。
残されたアンリは、大きく息を吐き、覚悟を決めて牢へ向かった。
「……先ほどぶりだな」
本当に、さっき見たばかりの顔がそこにあった。
縄でぐるぐる巻きにされているにも関わらず、まるで気にしていない様子で、じっとこちらを見つめている。
その目には、恐怖も屈辱もない。
むしろ、心なしか愉しげな色すら浮かんでいた。
「……あなたの目的は、なに?」
「それを、拷問で聞きだしてみればいい」
淡々とした口調。
からかうような響きさえある。
(やりにくい相手ね)
大抵の捕虜は、拷問を受けると知った時点で震え、怯えた目でこちらを見る。
それが普通の反応だ。
だが、この男は違う。
自ら捕まりに来て、拷問されることを当然のように受け入れている。
「それを外せ、気に入らん」
「……?」
唐突な言葉に眉をひそめた瞬間──
風がひゅっと頬をかすめた。
次の瞬間、アンリの顔を隠していた布が切れて床に落ちる。
(……!?)
まるで鋭利な刃物で切られたような断面。
しかし、武器はすでにすべて没収している。
(魔族は魔法を使う……これがその力?)
理解はしたものの、納得はできない。
まるでルールの異なる世界で戦っているような気がした。
──だが、呑まれてはいけない。
アンリは意識を切り替え、深く息を吐いた。
手に持ったペンチを構え、魔王の手に当てる。
骨ばった大きな手。
爪は黒く長く伸び、まるで猛獣の鉤爪のように鋭い。
それが、拷問の手法としては剥がしやすそうに見えた。
アンリは静かに力を込め──
バキンッ!
「……え?」
耳を疑う音が響いた。
ペンチが……折れた。
経年劣化などではない。
左右逆方向にねじ切られたように、無惨に破損している。
(この爪に触れただけで、こうなった……?)
呆然としながら魔王を見上げると──
何故か、彼は頬を赤く染め、そっぽを向いていた。
(……何? その反応)
アンリは首を振り、次の手に移ることにした。
『苦悩の梨』。
小さな洋梨のような形をした拷問器具。
開くと本体が縦に割れ、中から棘が現れる。
「これを貴方の口に入れて、ゆっくり開きます。話せなくなる前に話した方がいいと思いますよ」
だが、魔王はまったく動じない。
むしろ、口を大きく開けて見せた。
(……本当にいいの?)
一瞬戸惑いながらも、アンリは器具を彼の口に押し込んだ。
──グシャッ!
信じられない音がした。
まるで、本物の梨を噛み砕いたように。
棘の破片が床にバラバラと落ちる。
魔王は、傷ひとつ負っていなかった。
アンリの背筋が冷える。
(……これは、拷問にならない)
ならば、毒だ。
森に生えている特殊な菌。
体内に入ると手足が膨張し、壊死する。
神経を蝕み、最低でも一ヶ月は激痛に苦しむ劇物。
アンリは慎重に調合し、彼の口に含ませた。
だが──
「魔族にとって毒は回復効果がある」
けろりとした様子でそう言われる。
ならば聖水をかけるが、何も起こらない。
窒息させようとするも、器具が壊れた。
火は彼の体内に吸収され、水は蒸発した。
すべてが、通じない。
(……こんなの、勝てるわけがない)
アンリは、拷問の意味を見失いかけた。
自分には何もない。
学もなければ、戦う力もない。
唯一の取り柄は、拷問技術だけ。
なのに──この男には、何も通じない。
自分の存在すら、否定されたような気がした。
「……私は、戦争をやめるためにここに来たのだ」
突然の言葉に、アンリは目を見開く。
次の瞬間、縄が簡単に引き千切られ──
魔王の腕の中に、閉じ込められていた。
「私は、アンリ。君に一目惚れしたんだ」
「……え?」
耳を疑う告白に、アンリはただ呆然とするしかなかった。
アンリは呆然としたまま、魔王の腕の中にいた。
骨ばった手が背中に回され、抱きしめられている。
熱い体温が、じかに伝わってくる。
「君から拷問を受けて、ますます好きになった」
耳元で囁かれる声は、甘やかで深く、逃げ場のない響きを持っていた。
まるで、獲物を確実に捕らえた捕食者のように。
「仕事に真剣に打ち込むさま……様々な技法を駆使して、私を追い詰めようと努力する姿……。君のすべてが、愛おしい」
(……何を、言っているの?)
アンリは目を見開いた。
目の前の男は、魔王だ。
人間の敵であり、世界を蹂躙する者。
なのに──
「君と結ばれるなら、戦争をやめる。和平を結んで、二人で幸せになる国を作ろう」
まるで、恋人に未来を誓うかのように言う。
アンリの思考が追いつかない。
戸惑いに脳が揺さぶられる。
──戦争を、やめる?
それは、人間にとって願ってもないことだ。
戦いが終わるのなら、どれだけの人が救われるか。
(でも……)
この提案には、恐ろしい条件が一つある。
「……つまり、私があなたのものにならなければ、戦争は続くということ?」
声が、少しだけ震えた。
魔王は、にこりと微笑んだ。
「その通りだよ、アンリ」
さらりと、当たり前のように言う。
「君が私の妃となり、共に生きてくれるなら、人間との争いは終わる。だが、拒むのなら……」
彼は、アンリの頬をそっと撫でた。
「気が長いから、待つつもりだよ。でも……もし君を傷つける者がいるなら、私は容赦しない」
淡々とした口調だった。
けれど、その奥には、氷のように冷たい狂気があった。
「君が私と暮らすのに不安だというのなら、不老不死にして、安心できるまで一緒にいてあげよう」
「……っ!」
思わず、アンリは息をのむ。
不老不死?
そんなものになったら、永遠に彼の手の中から逃げられないではないか。
「もちろん、今すぐでも大丈夫」
囁く声が、耳朶をかすめる。
「君は妃だから、君の望むことは何でも叶えてあげよう。金も名誉も地位も愛も……」
優しく、慈愛に満ちた口調。
だが、その次の言葉に、アンリの血が凍った。
「人も、動物も、国も、世界も……全部、私が壊してあげよう」
甘く、静かに。
恐ろしい愛の囁きが、降る。
「君の望むものすべて、私が与えてあげるよ」
魔王の瞳は、暗い夜のように深く、底知れなかった。
「私の可愛いアンリ」
──この男は、本気だ。
アンリの悪夢は、魔王にとっては甘い夢のような幸福だった。
視界が暗転した。
アンリはもう逃れることはできない。