1-8
工房に戻ったアンナは、またバイオリン制作の世界に没頭していた。
正直なところ、万策が尽きたように思う。
こうなったらもう、その時が来るまで思う存分、バイオリンを作っていようと思う。
ニスの配合はもちろん、四本の弦を支える駒の削り方や、表板と裏板の間の魂柱の立て方でも、試したいことはたくさんある。
本当に、まだまだたくさんあるのだ。
どこまで、試せるだろうか。
それに、こうして師匠のバイオリンを見本にしながら作業をしていると、アンドレアとの思い出が甦ってくる瞬間がある。
それが、今日は不思議と多い。
人間は死ぬ間際に、これまでの人生が次々に脳裏をよぎると聞いたことがあるが、それに近い感覚だろうか。
***
アンナがアンドレアのもとにやってきたのは、七歳の頃だった。
そのとき、病にかかったアンナは父に連れられ、シルワ族の住まいを離れた。アンナはその途中、森を馬で駆ける中で気を失ってしまい、目覚めたのはアンドレアの工房兼自宅のベッドの上だった。
呆然とするアンナの目に、アンドレアのボサボサの髪とモジャモジャのひげに包まれた顔が飛びこんできた。
この頃のアンドレアは、一人で工房に閉じこもることも多かったため、身だしなみに全く気を使っていなかった。はじめは険しかったその顔が、アンナと目が合うと同時に緩んだ。
「よう、起きたか」
「おじさん……? お父さんは?」
アンドレアのことを、アンナは見知っていたので、それほどの不安はなかった。ただ、意識を失う直前までそばにあった父の顔が見えないのが、気がかりだった。
その問いに、アンドレアは再び表情をこわばらせた。
「……お前を助けるためにあいつは、俺のところに預けることを選んだんだ」
それからアンドレアは、アンナに詳しい事情を語った。
アンナが、シルワ族にとって不治の病にかかったこと。けれど、薬師であり、町の医者と交流があったアンナの母は、それが治る可能性があると知っていたこと。
しかし、森の中で治療はできない。仮に治療ができて助かったとしても「治らない伝統」がある以上、娘の居場所はなくなるかもしれない。そして両親は相談の末に、アンナをアンドレアに託すことを決めた。
そんな説明を、アンドレアは丁寧にしてくれた。
けれど結局、アンナができた理解は、ひとつだけだった。つまり。
ああ――弱かった自分は、捨てられてしまったのだ、と。
それから数日して、アンナは回復した。さっそく彼女は、森へと向かった。両親に、もう一度会うために。
けれど、森に入ろうとして、彼女は立ち止まってしまった。
音が、聞こえた気がしたのだ。
魔物の鳴き声と称される、シルワ族の楽器が発する音。森から出ていけという、警告音。
それが、森じゅうから響いてきた気がした。アンナは、誤解を訴えようとしたが、声は出なかった。
自分の声は届かない。自分は、森に嫌われた。そう、確信してしまった。
のちにアンドレアから、シルワ族が新たな土地へと移動したことを知らされたが、それでも進んで森に入りたいとは思えなかった。
***
森に帰ることもできず、かといって町に出ても好奇の目で見られる。自然、アンナは工房に閉じこもるようになった。
アンドレアは、それほど彼女に構わなかった。もともと、人付き合いが得意なほうではなかったのだ。アンドレアの妻ははるか昔に出ていってしまっていた。息子のニコラは、留学でいない。
二人きりの空間には、どこか気まずさがあった。
そんな中、アンドレアがバイオリンの音を響かせた。すると、アンナが興味を示したのだ。
それは、シルワ族が使う楽器の音に似ていた。彼らは文字を持たず、ありとあらゆることを音を通して伝える。威嚇するものばかりが有名だが、アンナにとっては日常会話ですら使われる音。
そのときふと、アンナの中でひらめきがあった。
もしいずれまた、シルワ族と出会うようなことがあったとして。きっと彼らは、自分が何を言っても受け入れはしないだろう。
けれど、音ならばどうか。自分はシルワ族を忘れていない。捨てられたくはなかった。そんなことを音に乗せて「声」として伝えれば。
あるいは、届くかもしれない。
そんな思いつきのもと、アンナはアンドレアにバイオリンづくりを習いはじめた。
アンナがバイオリンに興味を示したことを、アンドレアはことのほか喜んでくれた。アンナ自身も、バイオリンに関わっている間は、シルワ族との繋がりを感じ、安心感を得られた。
***
あるときアンナは、アンドレアにバイオリンづくりを続ける理由を問うた。当時から、それほど客がいたわけでもない。シルワ族との繋がりを求める自分はともかく、アンドレアがバイオリンにこだわる理由が、今ひとつわからなかった。
「俺がバイオリンを続けてるのは、ニコラのためだよ」
「ニコラ?」
アンナは、それが留学に出ている息子の名であることは知っていたが、顔を合わせたことはない。
「ああ。ついでに言えば、お前らが仲良くやってくれれば、言うことなしなんだがな」
あいつは意外と気難しいからなぁ、とアンドレアは楽しげに息子のことを語った。
そのニコラが唐突に戻ってきた。アンナがバイオリンづくりを習いはじめて、三年がたったころだった。
帰ってきた彼は、憔悴しきったような顔をしていた。そして、アンナの顔を見るなり、獣のようにアンドレアに食ってかかった。
「父さん……あんたは、わかっていてあんなものを僕に託したのか!?」
「ニコラ……お前、一体何があって……」
「わかってるだろ! 僕がどんな思いをしたのか、あんたのせいだ! 全部、あんたの!」
激昂するニコラに怯えるアンナに、アンドレアは一旦出ていくように視線で促した。それに従い、外でなんとか時間を潰し戻ると、もうニコラの姿はなかった。そしてアンドレアも、多くは語らなかった。
ニコラと何かがあったのは間違いなかったが、アンドレアのバイオリンへの情熱は相変わらずだった。いや、むしろ前にも増して情熱を傾けているといってもよかった。
ニコラは時折姿を見せ、何か小言を言っては帰っていった。たまたまアンドレアが外出していたときなど、アンナが応対することもあり、多少は口もきいたが、決して歩み寄ってこようとはしなかった。
***
アンドレアが病に倒れたのは、それからさらに七年がたってのことだ。
アンナは、彼が倒れる瞬間を目撃した。作業をしているとき、不意に奇妙な揺れかたをしたと思ったら、そのまま倒れてしまったのだ。慌てて医者を呼びに走った。そして、それからはあっという間だった。
アンドレア自身、体の不調は感じていたはずだ。だが彼は、ギリギリまでバイオリンをつくり続けることを選んだ。
結局、大した会話もできないまま、師匠はこの世を去ってしまった。
その死の間際に託されたのが、現在見本にしているバイオリンだった。師匠がそうしろと言ったわけではない。アンナが見た限り、師匠の作の中でも屈指の出来だったから、そう位置づけたのだ。本当は、ニコラと相談して、どちらが持つべきか決めたほうがよかったのかもしれない。
しかし、彼があまりに淡々と死後の処理を済ませてしまったため、そうした会話をする暇もなかった。仮に暇があったとしても、アンナから切り出せたかはわからないが。
そうしてそっけない態度を取り続けていた彼が、アンドレアの死から一年がたった今、工房を閉ざすと立ちはだかったのだ。