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翌朝、さっそくアンナは自作のバイオリンを手に、その音学院の人間との接触を試みた。
師匠のものではなく、自分のものを選んだのは、マスターのアドバイスだった。仮にアンドレアのもので認められても、先はない。それではきっと、ニコラは納得しない。だから、アンナのつくったものが認められなくてはならない。
自信はないが、マスターの言うことももっともなので、夜通し悩みつづけ、一挺のバイオリンを選んできた。
あとの問題は、どうやって接触するかだ。ニコラに頼めば確実なのかもしれないが、昨日の今日で彼に会う勇気は、アンナにはない。
ただ、そうなると音学院の人間の動向はつかめなくなる。そこでどうするか。アンナの出した結論は、領主の屋敷付近で待ち伏せする、というものだった。
いつ出てくるかはわからない。けれどさすがに、ずっと閉じこもってるわけでもないだろう。
幸い、自分は存在感が薄いので、領主の屋敷の周りでウロチョロしていても、見咎められるようなことはない。
だから、その人が出てくるまでずっと待ってやる。それが、アンナが決めてしまった覚悟だった。
それから、時間が経過し、時刻は昼になろうとしていた。
領主の屋敷の周りは、それほど人通りがあるわけではないが、時折通る人たちは、アンナを訝しげに見た後「なんだアンナか」と通り過ぎていく。
どうせニコラあたりに用事があるんだろうけど、なかなか踏み込めずにいるだけだろう、というのが町の人間の認識だった。
そうした周りの反応も知らず、アンナはひたすら待ち人を待った。
そして、その時はやってきた。
領主の館から、三人の人間が出てきた。
そのうち二人には、見覚えがある。ヒゲ面でピリピリした感じの五十前後の男と、どこか気だるげな二十代後半と思しき細身の男。この町の自警団を名乗る二人だ。
実際、パトロールしている姿はよく見かけるし、ケンカの仲裁をしたという話もたびたび聞く。
アンナ自身はこの町の中でも活動範囲が狭いし、何か揉め事の気配がしたときは、即座に逃げてしまうことに加え、トラブルを起こすこともないため、関わる機会はほぼないが。
ただ、あの二人が一緒にいるということは、おそらくその人が重要人物だから。
「あれが……」
自警団の二人に守られるようにして屋敷から出てきたのは、少女だった。年齢は一五、六歳といったところ。身長はアンナと同じくらいだが、顔立ちがやや幼い。
背中にかかる金色の髪はサラサラで、日ざしを受けて輝く様は、まるで最高級の絹のよう。透き通る青空を思わせる瞳は、宝石を埋め込んだようにさえ見える。
「きれい……」
まるで、熟練の職人がつくり上げた至高の作品のような……そんな、人間ばなれした美しさが少女にはあった。
容姿だけじゃない。立ち居振る舞いがすでに、人を惹きつける華がある。
光を、喝采を浴びるために生まれてきた存在。そんな感じがした。
自分とは、まるで違う。
あんな輝きを放つ存在に近づいたら、自分は焼かれてしまうのではないか。そんな予感さえあった。けれどそれゆえに、吸い込まれるような魅力を感じてしまう。
この一瞬でアンナは、たしかに少女に魅せられていた。
「さ、さすがにお一人でというのは……!」
「問題ありませんよ。少し、町を見て回るだけですから」
「しかし……御身に万が一のことがあれば……」
「いーじゃないっすか、団長。この町にゃあ、音学院に反感抱いてるようなやつもいませんし」
「お前は仕事をサボりたいだけだろう!」
「ですが、それも一理ありますよ。私が来てから、ずっと気を張り詰めているでしょう? 少しぐらいは休まないと、体に障りますよ? それとも、この町はそんなに危険なのですか?」
「いえ、決してそのようなことは。我々が常日頃から目を光らせておりますので……」
そのとき、三人のそばに人影が現れた。フードを目深にかぶった怪しい人物。
「あ、あの……」
不意に話しかけられて、音学院の少女は目を丸くした。
が、それと同時に声をかけたアンナ自身が、自らの行動に驚いていた。
少女の美しさに見惚れているうちに、まるで吸い寄せられるように近づいてしまっていたのだ。
だが、こうなったらもう、いくしかない。
「あの、これ……ば、バイオリン、と、いいます。えと……あの……弾いてみてくれませんかっ!?」
がばっと頭を下げながら、アンナはバイオリンを差し出した。
その行動に、少女はますます目を見開いた。音学院の人間にこんな形で演奏を依頼するなど、衝撃だったに違いない。
けれど少女以上に衝撃を受けたのは、自警団の二人だった。
「お、お前……アンドレアのところの!?」
「ちょいちょいちょい、面倒ごとは勘弁っすよ〜」
危険人物はいないと言い切った直後にこの事態だ。二人が狼狽する中、少女はいち早く落ち着きを取り戻し、穏やかな声音で言った。
「バイオリン……ですか。きれいな楽器ですね」
褒め言葉を耳にして、アンナの期待は一気に高まった。
「あ、ありがとう、ございます! あの……音も、とっても素敵なので、どうか弾いてみて――」
言いながら顔を上げて、アンナは固まった。
そこにあったのは、少女の笑顔だった。
身長がほぼ同じなので、ちょうど正面にくるそれは、静かで、とても美しい。けれどそこに温かさはない。あるのはむしろ、相手を突き放す冷たさ……。
嘲笑とも違う。あしらうために、貼りつけた笑顔。
「あ……」
とてつもなく、嫌な予感がした。そして、それはすぐに現実となる。
「ごめんなさい。見ず知らずの楽器を演奏できるほど、音学院の腕は安くないの」
優しい声音だったのに、アンナの頭には、それが重く、いつまでも響いていた。
「あ……う……」
衝撃にさらされて、どうしたらいいのかわからなくなる。
逃げ出したい。いっそ消え去りたい。
でも、だめだ。そうしたら、バイオリンは終わってしまう。師匠から受け継いだものが、途絶えてしまう。
勇気を振り絞って、もう一度縋るように少女を見る。
けれど、ダメだ。
少女は相変わらず、感情の読めない笑みを浮かべたまま。気が変わる気配なんて、微塵もない。
うっかり、涙が出そうになる。
自分なりに、勇気を出したつもりだった。それがこんなにも優しく、簡単にあしらわれてしまうなんて。
潤んだ瞳から、涙がこぼれ出る――その瞬間、アンナは走り出していた。
それは、泣き顔は見せないという最後の意地か。それとも、留まる気力がなくなったのか。
もはや本人にさえよくわからないまま、アンナはその場を走り去っていった。