表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/43

1-5

 マスターの店は、広場よりも工房が立ち並ぶエリアに近い場所にある。


 クレモニアは職人の町とはいっても、職人ばかりがいるというわけでもない。


 都会の喧騒に疲れ、自然に囲まれた生活に憧れて移り住んできた者もいれば、職人たちの作品を安く仕入れ、都会に高く売りつけに行く者もいる。


 そんな職人でない人たちの住まいは、比較的広場の方に集中しており、あちらにはあちらで、食堂や酒場がある。


 一方で、工房エリアのほうにある食堂や酒場は、完全に職人向け、ということになる。


 店に入ると、案の定、中は職人たちで埋め尽くされていた。すでに顔を紅潮させている者も少なくない。そうした者たちの間を、三人ほどの従業員が忙しげに立ち回っている。


 師匠が亡くなってすぐの頃、一度アンナも雇ってもらったことがあるが、まるで役に立たず、一日で戦力外を言い渡されてしまった。だから、流れるように働ける彼らのことは、素直に尊敬する。


 アンナは目立たぬようにコソコソと移動しながら、店の隅の、視線の集まらなさそうなテーブルについた。


 ただ、繊細な仕事をしながらも粗野な部分がある男たちの群れの中で、フードをかぶったその華奢な姿は、嫌でも目立つ。


 とたんに、いくつかの視線が自分に向くのを、アンナは感じた。


「おい、あれ……」

「シルワ族……」

「アンドレアのとこの……」

「魔物……」

「なんだってあんな……」

「女らしく……」

「誘って……」


 酒場は喧騒に包まれていて、多くの会話は混ざり合って、個々の判別がつきにくくなっている。それでも、明らかに自分のことを言っているであろう声が、いくつか耳に入ってきた。


 しかもそれらは、一様に嫌な響きを伴っている。そしてなにか、しだいに内容が不穏なものになっていっていたような……。


「お、今日は遅かったじゃないか。どうせまた、作業に集中してたんだろう?」


 警戒していたところに声をかけられて、またアンナは飛び上がりそうになった。


 が、声をかけてきたのがマスターだと気づいて、ほっとした。


「うん……ちょっと、うん……」


 ほっとしたものの、そういえばマスターとも気まずい形で別れたのを思い出す。マスターはおそらく気にしていないはずだが、アンナ自身のほうがそうはいかない。


 なんとなく、必要以上におどおどしてしまう。そして、彼女はそれを見逃さない。


「なにさ? フードも取らないで。まさか、周りのやつらのこと気にしてるわけ? 言ったろ? ここにいる限りは、あたしが目を光らせておくってさ」


 もちろん、それもある。この時間帯に来るのは久しぶりだが、やはり気持ちのいいものではなかった。


 けれど、今はそれ以上にニコラとのことを知られるほうが嫌だった。


 バレてしまえば、きっとマスターは心配する。


 単純に心配をかけるのも嫌だし、正直なところ、それでグイグイ来られてしまうのも、アンナとしては勘弁願いたい。


 どうにか、バレないようにしなくては。


「……ねぇ、なんか隠し事してる?」

「ふぇ!? し、ししし、してないよ!?」


 バレてはいけない。その思いが、かえってアンナの態度を不審なものに変えていた。


「あんた……そういうところが心配なんだよね。で、なにがあったのさ?」


 とうとうマスターは、アンナの向かいに座ってしまった。


「え、あの、お、お店は大丈夫なの?」

「ああ、あんたも知ってると思うけど、うちを手伝ってくれてるやつらは、みんな頼もしいからね。ちょっとぐらいなら大丈夫さ」


 近くを通った従業員に、マスターが微笑みかける。彼はやれやれ、といった感じで嘆息したが、すぐに他の従業員たちとアイコンタクトで、連携をとっている。


 実際、アンナが試しに働いた時も、彼らにはたくさんのフォローをしてもらった。あれはあれで、「職人」だとアンナは思う。


「そういうわけで、観念しな。いったい、なにがあったのさ?」

「あ……う……」


 こうなっては、もはや逃げ切る技量はアンナにはない。結局アンナは、ニコラとの間にあったことを、洗いざらいマスターに打ち明けた。


「……なるほどねぇ。そりゃ、ニコラの言うこともわからなくはないねぇ。職人として報酬を得る以上は、責任ができるわけだ。それがあるかないかは大きいよ」

「わ、私だって……」


 仕事さえあれば、きちんとした仕事はできるつもりだ。


「あんたの場合は、アンドレアがいたしね。やっぱり、まだまだ浅いよ」

「……マスターは、ニコラの味方なんだ」


 この町で店を持ち、それを切り盛りしてきたマスターに言われては、アンナとしては反論のしようがない。拗ねたものいいは、せめてもの抵抗だった。


「なに言ってんの。心情としては、あんたの味方さ。けど、こうなっちまったらもう、あんたとニコラの問題だからね。あたしが首を突っ込みすぎるのも、野暮ってもんだよ」


 マスターの思わぬ発言に、アンナは言葉を失った。


 あまりに世話を焼かれるのは、面倒だと思っていた。けれどそれと同時に、助けてくれることを期待してもいたのだ。まったく力を貸してくれないとなれば、それはそれで困ってしまう。


 そんな感情が表情に出ていたのか、マスターはやれやれといったふうに嘆息した。


「……朝の話、覚えてる?」

「朝の……ニコラに頼むって話?」


 けれど、なにを頼むのだったか。ニコラという名前が出たとたんに、意識はそちらに向いてしまったし、どうせ無理だとあきらめてしまったため、よく覚えていない。


 たしか……。


「あたしはやっぱりチャンスだと思うんだよねぇ。この町に音学院の人間が来るなんて、そうそうないわけだし」


 そう、音学院だ。正しい音楽を守り、さらにそれを洗練していく者たちの集まり。


 そもそも音楽とは、神や貴族を讃えるものであり、それらに捧げられるものである。特に貴族に関しては、自身を讃える曲が演奏されることは、自身の支配域を示すことにもなる。


 だからそれらの曲は、正しく奏でられなくてはならない。さらに、より美しく奏でられるようになっていかなければならない。


 その管理を行うのが、音学院。ようは、彼らが認めた音楽こそが、正しい音楽なのである。


 同時にそこは、神や貴族に音楽を捧げるに足る人材を育てる場であり、正しい音楽をより洗練すべく研究が行われる場でもある。


 もし、音学院の人間にバイオリンが認められたとなれば、この上ない宣伝になるだろう。


 ただそれは、師であるアンドレアさえ、挑まなかったことだ。今にしてみれば、なぜ挑まなかったか不思議だが、いずれにせよ高い壁であることに変わりはない。


 師にもなせなかったことが、自分にできるのだろうか。


「こーら」


 と、考えにふけっていたアンナは、マスターに額をこづかれた。


「そうやって考えてばっかで、しかもマイナス方向に傾いていくのは、あんたの悪い癖だよ。アンドレアだって、そんなに考えてばっかりじゃなかっただろ? 憧れてんなら、あんたもたまにはあんなふうにやってみな」


 たしかにアンドレアは、それほど先のことは考えないというか、目の前のことにひたすら集中していた気がする。


 そのことでたびたびニコラからは小言を言われていたが、それでも師匠は自分を曲げようとはしなかった。


 あれはきっと、自分の仕事を、バイオリンを信じていたのだろう。


「私に……できるかな……」

「あたしから見たら、あんたたちはそっくりだけどね。作業に没頭しすぎちまうところなんか、特にね」


 師匠に似ている。それは、アンナの背を押すには最も効果的な言葉だ。


 とたんに、何かができそうな気がしてくる。


「うん……私……がんばってみるよ」


 この町に来ているという音学院の人間。その人に会って、バイオリンを認めてもらうのだ。


「よし! そうと決まったら、しっかり腹ごしらえもしないとね。いつものでいいんだろ?」

「あ、うん。お願いします」


 その後、マスターの作ってくれた料理をたいらげたアンナは、さっさと工房へともどっていった。


 その耳にはもう、周りの声は聞こえていなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ