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マスターの店は、広場よりも工房が立ち並ぶエリアに近い場所にある。
クレモニアは職人の町とはいっても、職人ばかりがいるというわけでもない。
都会の喧騒に疲れ、自然に囲まれた生活に憧れて移り住んできた者もいれば、職人たちの作品を安く仕入れ、都会に高く売りつけに行く者もいる。
そんな職人でない人たちの住まいは、比較的広場の方に集中しており、あちらにはあちらで、食堂や酒場がある。
一方で、工房エリアのほうにある食堂や酒場は、完全に職人向け、ということになる。
店に入ると、案の定、中は職人たちで埋め尽くされていた。すでに顔を紅潮させている者も少なくない。そうした者たちの間を、三人ほどの従業員が忙しげに立ち回っている。
師匠が亡くなってすぐの頃、一度アンナも雇ってもらったことがあるが、まるで役に立たず、一日で戦力外を言い渡されてしまった。だから、流れるように働ける彼らのことは、素直に尊敬する。
アンナは目立たぬようにコソコソと移動しながら、店の隅の、視線の集まらなさそうなテーブルについた。
ただ、繊細な仕事をしながらも粗野な部分がある男たちの群れの中で、フードをかぶったその華奢な姿は、嫌でも目立つ。
とたんに、いくつかの視線が自分に向くのを、アンナは感じた。
「おい、あれ……」
「シルワ族……」
「アンドレアのとこの……」
「魔物……」
「なんだってあんな……」
「女らしく……」
「誘って……」
酒場は喧騒に包まれていて、多くの会話は混ざり合って、個々の判別がつきにくくなっている。それでも、明らかに自分のことを言っているであろう声が、いくつか耳に入ってきた。
しかもそれらは、一様に嫌な響きを伴っている。そしてなにか、しだいに内容が不穏なものになっていっていたような……。
「お、今日は遅かったじゃないか。どうせまた、作業に集中してたんだろう?」
警戒していたところに声をかけられて、またアンナは飛び上がりそうになった。
が、声をかけてきたのがマスターだと気づいて、ほっとした。
「うん……ちょっと、うん……」
ほっとしたものの、そういえばマスターとも気まずい形で別れたのを思い出す。マスターはおそらく気にしていないはずだが、アンナ自身のほうがそうはいかない。
なんとなく、必要以上におどおどしてしまう。そして、彼女はそれを見逃さない。
「なにさ? フードも取らないで。まさか、周りのやつらのこと気にしてるわけ? 言ったろ? ここにいる限りは、あたしが目を光らせておくってさ」
もちろん、それもある。この時間帯に来るのは久しぶりだが、やはり気持ちのいいものではなかった。
けれど、今はそれ以上にニコラとのことを知られるほうが嫌だった。
バレてしまえば、きっとマスターは心配する。
単純に心配をかけるのも嫌だし、正直なところ、それでグイグイ来られてしまうのも、アンナとしては勘弁願いたい。
どうにか、バレないようにしなくては。
「……ねぇ、なんか隠し事してる?」
「ふぇ!? し、ししし、してないよ!?」
バレてはいけない。その思いが、かえってアンナの態度を不審なものに変えていた。
「あんた……そういうところが心配なんだよね。で、なにがあったのさ?」
とうとうマスターは、アンナの向かいに座ってしまった。
「え、あの、お、お店は大丈夫なの?」
「ああ、あんたも知ってると思うけど、うちを手伝ってくれてるやつらは、みんな頼もしいからね。ちょっとぐらいなら大丈夫さ」
近くを通った従業員に、マスターが微笑みかける。彼はやれやれ、といった感じで嘆息したが、すぐに他の従業員たちとアイコンタクトで、連携をとっている。
実際、アンナが試しに働いた時も、彼らにはたくさんのフォローをしてもらった。あれはあれで、「職人」だとアンナは思う。
「そういうわけで、観念しな。いったい、なにがあったのさ?」
「あ……う……」
こうなっては、もはや逃げ切る技量はアンナにはない。結局アンナは、ニコラとの間にあったことを、洗いざらいマスターに打ち明けた。
「……なるほどねぇ。そりゃ、ニコラの言うこともわからなくはないねぇ。職人として報酬を得る以上は、責任ができるわけだ。それがあるかないかは大きいよ」
「わ、私だって……」
仕事さえあれば、きちんとした仕事はできるつもりだ。
「あんたの場合は、アンドレアがいたしね。やっぱり、まだまだ浅いよ」
「……マスターは、ニコラの味方なんだ」
この町で店を持ち、それを切り盛りしてきたマスターに言われては、アンナとしては反論のしようがない。拗ねたものいいは、せめてもの抵抗だった。
「なに言ってんの。心情としては、あんたの味方さ。けど、こうなっちまったらもう、あんたとニコラの問題だからね。あたしが首を突っ込みすぎるのも、野暮ってもんだよ」
マスターの思わぬ発言に、アンナは言葉を失った。
あまりに世話を焼かれるのは、面倒だと思っていた。けれどそれと同時に、助けてくれることを期待してもいたのだ。まったく力を貸してくれないとなれば、それはそれで困ってしまう。
そんな感情が表情に出ていたのか、マスターはやれやれといったふうに嘆息した。
「……朝の話、覚えてる?」
「朝の……ニコラに頼むって話?」
けれど、なにを頼むのだったか。ニコラという名前が出たとたんに、意識はそちらに向いてしまったし、どうせ無理だとあきらめてしまったため、よく覚えていない。
たしか……。
「あたしはやっぱりチャンスだと思うんだよねぇ。この町に音学院の人間が来るなんて、そうそうないわけだし」
そう、音学院だ。正しい音楽を守り、さらにそれを洗練していく者たちの集まり。
そもそも音楽とは、神や貴族を讃えるものであり、それらに捧げられるものである。特に貴族に関しては、自身を讃える曲が演奏されることは、自身の支配域を示すことにもなる。
だからそれらの曲は、正しく奏でられなくてはならない。さらに、より美しく奏でられるようになっていかなければならない。
その管理を行うのが、音学院。ようは、彼らが認めた音楽こそが、正しい音楽なのである。
同時にそこは、神や貴族に音楽を捧げるに足る人材を育てる場であり、正しい音楽をより洗練すべく研究が行われる場でもある。
もし、音学院の人間にバイオリンが認められたとなれば、この上ない宣伝になるだろう。
ただそれは、師であるアンドレアさえ、挑まなかったことだ。今にしてみれば、なぜ挑まなかったか不思議だが、いずれにせよ高い壁であることに変わりはない。
師にもなせなかったことが、自分にできるのだろうか。
「こーら」
と、考えにふけっていたアンナは、マスターに額をこづかれた。
「そうやって考えてばっかで、しかもマイナス方向に傾いていくのは、あんたの悪い癖だよ。アンドレアだって、そんなに考えてばっかりじゃなかっただろ? 憧れてんなら、あんたもたまにはあんなふうにやってみな」
たしかにアンドレアは、それほど先のことは考えないというか、目の前のことにひたすら集中していた気がする。
そのことでたびたびニコラからは小言を言われていたが、それでも師匠は自分を曲げようとはしなかった。
あれはきっと、自分の仕事を、バイオリンを信じていたのだろう。
「私に……できるかな……」
「あたしから見たら、あんたたちはそっくりだけどね。作業に没頭しすぎちまうところなんか、特にね」
師匠に似ている。それは、アンナの背を押すには最も効果的な言葉だ。
とたんに、何かができそうな気がしてくる。
「うん……私……がんばってみるよ」
この町に来ているという音学院の人間。その人に会って、バイオリンを認めてもらうのだ。
「よし! そうと決まったら、しっかり腹ごしらえもしないとね。いつものでいいんだろ?」
「あ、うん。お願いします」
その後、マスターの作ってくれた料理をたいらげたアンナは、さっさと工房へともどっていった。
その耳にはもう、周りの声は聞こえていなかった。