1-3
町の中心である広場を過ぎ、職人たちの工房が立ち並ぶエリアを過ぎ、町のはずれ、森との境界に、アンドレアの工房がある。
結局アンナはそこまで、一目散に帰ってきた。
荒い呼吸を、少しだけ整える。空気に、森の匂いがまじっている。
ここまで来れば、もうアンナの敵となるような人はいない。
工房の中にいれば、自分は安全なのだ。
「はぁ……」
とはいえ、どうせ今夜の食事はマスターの店に頼ることになる。
バイオリンづくりでは、さまざまなことを教えてくれた師匠だったが、生活面のスキルはほとんど教えてくれなかった。というか、師匠自体まるでできなかった。
(……あとで考えるしかないか)
ひとまず今は、工房の中で安心したい。まるで吸い込まれるように、アンナは工房の中に入る。
誰もいない静かな空間に、バイオリンの木の匂いとニスの匂いがする。その安心感を堪能するように大きく深呼吸をした――。
「なんだ、帰ってきたのか」
「きゃああああっ!?」
工房中に響き渡る大音声。周りの目が気になる場で、こんな声を出せるはずもない。これぞホームの安心感がなせるわざ――などといっている場合ではない。
「うるさいな。耳障りな声をあげるな」
「な、ななななんでここに?」
工房で待っていたのは、赤茶色の髪を短くきちんと整えた、切れ長の目の青年。
無駄を嫌うその性格を表すように、その細身の体からも、無駄が削ぎ落とされている。
ニコラ・アマリス。
今、アンナが最も顔を合わせたくない人間が、そこにいた。
「なんでもなにも、ここは僕が所有する工房だ。本来なら、君がいるほうがおかしい」
鋭い目つきで、ニコラはそう言い放った。忙しいのか、目の下にはクマができていて、それが余計に目つきを怖くしている。
たしかに、アンドレアが死んで、その遺産はニコラに受け継がれた。特に工房をアンナに継がせるといったような遺言もなかった。その意味では、ニコラはアンナが工房に留まっていることを、見逃してくれていたともいえる。
「で、でも今さら……」
アンドレアの死に際してニコラが姿を見せたのは、彼が死んでからだった。彼は淡々とした様子で、遺体埋葬の手配をすませた。埋葬自体には立ち会ったものの、気づいたときには姿を消していた。
以来、彼はこの工房に現れなかった。だからアンナが顔を合わせたのも、じつに一年ぶりのことになる。
「今さら……か」
どこか呆れたように、ニコラはかすかに笑った。それがどこに向いているかは、いまいちわからなかった。
「なら、こう言っておこうか。今日まで留守を守ってくれてありがとう。ご苦労様。この工房は閉鎖することにしたから、君はどこへでも好きなところに行くといい」
「え……」
彼が何を言っているのかが、よく理解できなかった。
ありがとう? ご苦労様? あのニコラが礼を言うなんて――違うそこじゃない。
工房を……閉鎖する……って、言ったの?
「な、ななな、何で? どうして、工房を、へ、閉鎖なんて……!」
あまりに衝撃の内容で、抗議の言葉もうまく伝えられない。
頭に血がのぼっていく代わりに、体からはサーッと熱が奪われていく気がした。
感情がぐちゃぐちゃになって、自分がどんな顔をしているかも全くわからない。
怒っている? 悲しんでいる? まさか笑ってはいないと思うけれど。
いずれにしても、ニコラは全く動じることなく、まっすぐにこちらを見すえている。
「……逆に訊くが、客の来ない商売を続ける理由があるのか?」
「あう……だけど、師匠は……バイオリンは、それだけじゃないって……」
師匠は、これから音楽の時代は変わると言っていた。そのときに、このバイオリンは必要になるのだと。
だから、これからの人間であるアンナにバイオリンを学んでもらえることは嬉しいと、言ってくれていたのだ。
「ふん……父のときはまだいいさ。美術品扱いとはいえ、まだ売れていたんだ。だが、君はどうだ? 誰も、君の腕を求めてくる者はいない。であれば、君のバイオリンづくりは、職人のそれではない。ただのお遊びだよ。そんな人間にいつまでも工房を好きにさせるほど、僕はお人好しじゃない」
用意していた原稿を読み上げるかのような、平坦な口調。工房への思い入れを感じさせない声音は、アンナの怒りをかき立てた。けれど、頭のどこかでは彼の言葉を認めていて、反論の言葉は容易には出てこなかった。
「とはいえ、君も不幸だったな。習ったのがバイオリンなんかでなければ、もう少しつぶしもきいただろうに。そうだな……君もシルワ族なのだから、植物の知識はあるだろう。花売りや庭師なんかで生きていくのはどうだ? なんなら僕のほうから口利きをしても――」
「ふざけないでっ!」
再び、工房を震わせる大声が、アンナの口から発せられた。けれど、先ほどの不意に出たものとは違う。しっかりとした芯のある、強い声だった。
これまでずっと鋭く細められていたニコラの目が、一瞬見開かれた。
「……シルワ族として扱われたのが、気に障ったか? だが、事実は事実だ。どれだけ否定しても、君の生まれは変わらない」
「違う。そんなことはどうでもいい。バイオリンづくりは、私が選んだ道だよ。それを、後悔したことなんてない。だから、そんな言い方はしないで」
「……やはり君は、シルワ族だな。こんな楽器の、どこがそんなにいいのか」
チラ、とニコラの視線が近くの作業台に置かれたバイオリンに向く。それは、アンドレアが作成し、アンナが手本としているバイオリンだった。
無造作に、ニコラの手が伸びる。その手を、咄嗟にアンナは掴んでいた。
「…………」
そんな態度で触るな、という無言の抗議。それから言葉を発することなく二人はにらみ合い、やがてニコラが手を引っ込める素振りを見せた。
それを感じたアンナが手をはなすと、彼はアンナに掴まれた場所をしばらく見つめたのち、口を開いた。
「……手のひらを見せてみろ」
その意図はわからなかったが、アンナは手のひらを彼にさらした。
師匠のもとで作業をするうちに、カサカサのボロボロになっていった手のひら。
いつからか師匠はそれを見て、職人の手になってきたと笑ってくれるようになった。アンナはその顔を見るたびに嬉しく、だからこの手は彼女の誇りでもあった。
「どうやら、遊んでるだけというわけでもないらしい。……父は幸せものだな。君のようなバカ弟子に恵まれた」
「それ……褒めてるの?」
「褒めてるとも。だが……どれだけの努力をしても、それで生活ができるようになれなければ、やはり職人ではない。君に、それができるのか?」
ああ、今日は嫌な日だな、と思う。マスターにも、ニコラにも、似たようなことを言われた。けれどそれだけ、自分が情けないということだろう。
具体的な案があるわけじゃない。自信もない。
それでも、工房が潰れるのはいやだから。だから、やるしかない。
「……できるよ。や、やってみせるから!」
「口だけなら、何とでも言える。……まぁ、僕としてはここを潰すよりも君を置いたほうが利益が出るなら、それでいい。だから、改めて契約を結ぼうじゃないか」
「契約……?」
「簡単なことだ。僕はこの工房を君に貸し、君はその使用料として売上の一部を僕に納める。十分な金額を納めている限り、ここを潰したりはしないよ」
「……もし、お金を納められなかったら?」
「そのときは、君はシルワ族らしく、草木に囲まれた仕事をすることになる。それだけの話さ」
「わかった……その契約、結ぶよ」
「承知した。後日、改めて書面にまとめるとしよう。では、僕はこれで失礼するよ」
そうして去っていくニコラの背が、工房の扉の向こうに消えるのを待ち、さらに少しの時間をおいて、アンナはそばにあった椅子に座り込んだ。
そして、これでもかといわんばかりに大きなため息をついた。
(やってしまった)
なにかうまいこと、ニコラの口車に乗せられてしまった気がする。あるいは彼は、本気で工房を潰す気などなかったのではないだろうか。
契約という形でアンナにプレッシャーをかける、彼なりの嫌がらせなのではないか。
いくら彼でも、アンドレアが大切にしていた工房を壊すとは思えない。
であれば、万が一ダメでもまたなんとかなるのではないか。
(なんて……そんなはずないよね)
少なくとも、顔を合わせたときのニコラは本気で工房を閉めるつもりだった。それは、彼の目を見ていればわかる。
けれどどうしたことか、彼はアンナと話すうちに、考えを翻した。
(この手を見たから……?)
きっかけは、おそらくそこだった。彼なりに、少しはアンナを評価してくれたということだろうか。あくまで、少しは、だろうけれど。
だったら、自分はやはり、この手を信じて進むしかない。
(とはいっても……どうしよう)
目算は、まるで立っていない。考えようにも、すっかり頭が重くなって、うまく考えられない。
これからのこと以前に、これまでの情報量が多すぎた。
(うん……作業しよう)
こういうときには、バイオリンづくりをするに限る。
師匠のバイオリンを手本に、それに近づけるように自分なりに作業をこなす。
そうしているうちに、頭も落ち着いて、しだいに回ってくるだろう。それから、考えていけばいい。
そう結論づけたアンナは、作業机に向かい、黙々と作業をしはじめた。
昨日ニスを塗ったバイオリンが乾いているはずだから、まずはそれに三十回目の塗り重ねをして、また乾かす。
乾くのは明日だし、あと今日できるのは駒の整形。弦を張る溝を彫って……ああ、そういえば魂柱もだ。
円柱の形に切り出すところまでしかやってないから、きれいに削らないと。たしか昨日作業して、このあたりに置いたはずなんだけど……。