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「ふぅ、とりあえずはこれでいいわね。あれだけ言っておけば、エル・ケーニッヒが活動しても、無視してくれるでしょ」
「えっと、あの……ごめんなさい。その、状況が……飲み込めないん、ですけど……」
エルはたしか、エルネスタとアンナのやり取りを見ていて、バイオリンに興味を持ったと語っていた。
その人物の正体が、エルネスタだった?
たしかにエルネスタはあの場にいた張本人なわけだから、バイオリンのことを知っているのは当然だ。
しかし、もし興味を持ったのだとしたら、なぜあの場でそう言ってくれなかったのか。
どうして、こんな手の込んだことをしてまで?
「……まぁ、あなたには説明しないといけないわね。できるなら、協力してもらいたいし」
「協力……?」
首を傾げるアンナに、エルネスタは近くの椅子を見ながら「座っても?」と問いかけた。もしかしたら長い話になるのかもしれない。アンナは頷き、自分は近くから別の椅子を持ってきた。
「私の本名はエルネスタ・マリーア・ボン。音学院の学生で、十六歳よ」
(ほ、本当に年下なんだ……)
喉元まで出かかった言葉をアンナはどうにか飲み込んだ。
見た目から推測はしていたが、実際にそうだと聞かされると驚きだ。自分などより、はるかにしっかりしている。ただ、そういうことをうかつに口にすると、怒られそうな気もした。
「えと……うん。エルネスタ、さんが音学院の人なのは、知って、ます。でも、そもそも、なんでエルネスタ、さんは、この町に?」
エルのときは親しみを持って話していたが、いざこうしてエルネスタとして対峙すると、どういう態度で接していいかがわからない。
「面倒ね。呼び捨てでいいわ。ただし、『エル』って呼ぶのはなしね」
仮に「エル」と呼んでしまっても、エルネスタの愛称ということでごまかせそうな気もするが、そんなことを言える雰囲気ではない。
「で……私がこの町に来た目的、だっけ? そうね……アンナは、音学院について、どれだけ知ってる?」
「えっと……」
なんというか、今のエルネスタの話し方は、はじめて会ったときはもちろん、エルのとき以上にくだけている気がする。あるいは、これが素なのだろうか。
「……神や貴族に捧げるための、正しい音楽を管理する場所で、あとは、それを演奏する人を育てる場所……?」
「だいたい合ってるわ。あとは、その正しい音楽を逸脱する者……今回のエル・ケーニッヒみたいなのを、取り締まることもやってる」
「えと……それって、エルネスタは、いけないってわかってるのに、いけないことをしてるってこと? 音学院の学生、なのに……?」
「ま、そんなところ。けど、音学院だって行きたくて行ってるわけじゃないから。父親が行けって言うから、通ってるだけ」
「……?」
アンナ自身は、音学院に通うことの意味をよくわかっていないが、町の人があれだけ騒ぐのだから、それはすごいことなのではないのだろうか。けれど、エルネスタはそれを喜んでいないらしい。正直、よくわからない。
「……うちの父親は、とにかく音学院らしい考え方をする人なの。この町では、これを弾け。その弾き方は、こうやる。堅苦しいったら、ありゃしない」
音楽には、特に貴族に関しては、自らを讃える曲を演奏させることで、自身の支配圏を示す意味合いがある。下手な演奏をされれば、それは自らの影響力が及んでいないことを露見させてしまうことになるため、正しい曲が求められる。
そしてもちろん、よその貴族の曲を奏でるなど論外だ。だから、各貴族の領地で聞ける曲は、初めから終わりまで正しく、その土地を治める貴族を讃える曲、あるいは神へ捧げる曲となる。
「……そんなん、つまんないじゃない。同じ曲でも、気分によって弾き方を変えてみたくなったりするでしょ。その時々で伝えたいことだってある。それが許されないなんて……人間が演奏する意味ないじゃない」
その感覚は、アンナにもわかる気がした。
この町には、年末に聖奏祭と呼ばれる行事がある。そのときは、領主が音学院から演奏家を招いて、神への感謝を捧げる曲を演奏してもらう。町民はそれを聞き、その一年の感謝を神に伝え、来年も勤勉に生きることを誓う。アンナも、アンドレアに連れられて何度か聞きにいったことがある。
領主が呼ぶ人は毎年違う人らしいが、演奏はいつも同じで、個性のようなものは全く感じられなかった。それはそれで大事なのだろうが、町民たちにしてみれば、大変な年もあれば、楽だった年もある。そうした思いが、まるで反映されないのだ。
あくまで幼い頃の記憶だが、シルワ族は違った。彼らにとって音楽は、意思を伝えるためのものでもあり、そこには必ずといっていいほど何かしらの感情が込められる。だからこそ、彼らの発する音は、恐怖を与えるのだ。
「私の母は、ちょっと変わり者でね。父親の指導に嫌気がさしてた私に、音楽を楽しむことを教えてくれたの。母様の奏でる音楽のほうが、よっぽど私の心に響いたわ」
エルネスタの声は静かだったが、深いところにはたしかな熱があった。こうして話しながら、彼女自身、また自らを鼓舞しているようにも思えた。
「つまり……エルネスタのやりたいことって……」
ここまで話してきて、アンナもエルネスタの野望はなんとなく見当がついた。けれどそれはあまりにスケールの大きな話で、口にするのはためらわれた。
「そう。私は、音楽の在り方を変えたいのよ」
エルネスタは、あっけらかんと言い切ってしまう。その姿が、アンナにはなんだかまぶしく見えた。
「で、でも……どうやって……」
「そのためのエル・ケーニッヒよ。あの姿で、私は私の音楽を演奏する。それで、音学院のつまらなさに、気づいてもらう」
「そ、それは……わざわざ、エルになる必要があるの?」
「あるわよ。音学院の人間としてやっても、音学院が偉大だって勘違いされる。エル・ケーニッヒという個人で評価されることに意味があるの」
「……な、なるほど」
音学院といえば、この一帯では国の垣根さえ越えた巨大な組織である。それに、個人で戦いを挑む。それは、あまりに無謀ではないか。仮にアンナが、この町の職人組合に戦いを挑んだとして、まずまちがいなく相手にもされないだろう。エルネスタのやろうとしていることは、それ以上の規模の相手に挑むことだ。
「もちろん私だって、いきなり全てを変えられると思ってるわけじゃない。まずはこの町で、きっかけを掴みたい」
「きっかけ……?」
「聖奏祭……だっけ? あれには毎年、音学院関係の人間が来るって聞いた。しかも今年は、特に力を入れてるって。その場で、私も演奏する。そして、圧倒してみせる」
「そんなこと……できるの……?」
「できる。って言っても、そのためにはあなたと、バイオリンの協力が必要だけどね」
「私と、バイオリンが……?」
「音楽は、あくまで神や貴族の偉大さを讃えるもの。ようは、神の教えや貴族の功績をわかりやすく伝えるためのものね。つまり、その主役は讃えられる側であって、演奏する側にない。だからこそ、音学院が認める楽器は、音量が抑えめなものばかりなの。貴族の晩餐会なんかでも、引き立て役にすぎない。だけど、私が求めるものは違う。私は、私の演奏に価値がほしい。そのためには、バイオリンのような豊かな音を響かせられる楽器が必要なの。私が、主役になるために」
主役、という言葉にアンナの心は震えた。たしか、アンドレアもそんなことを言っていた。この楽器を持つことで、演奏家は主役になれるのだ、と。
もしかしたらアンナのやろうとしていることを手伝えば、アンドレアの遺志を継げるかもしれない。そんな期待が、アンナの中で湧きあがってきた。
けれど同時に、冷静な理性が語りかける。
エルネスタに協力するということは、いよいよ本格的に音学院に逆らうということだ。失敗すれば、バイオリンを認めてもらえないどころではない。返上しようのない汚名を着せられることになってしまうのではないか。それこそ、アンドレアの築いてきたものを崩壊させることになる。
そんなことを考えているうちに、アンナはしだいに俯いていた。
「……もちろん、あなたにも得はある。私が有名になれれば、当然使っているバイオリンにも注目がいく。悪い話じゃないと思うけど?」
「…………」
きちんと自分に利益があるように、エルネスタは気を配っている。バイオリン職人を商売としてやる以上、そこを気にするのは当然だ。
でも、それを聞いたとき、不思議とアンナはイラッとした。損得で動くと思われているのが、気に食わなかった。
きっとそんな話をしたら、ニコラあたりは怒るだろう。でも、それでも構わない。
それだけ、アンナはエルネスタの演奏に魅せられていた。彼女と共に、バイオリンの可能性をひろげたいと思っていた。
(ごめんなさい、師匠……。私は、バイオリンづくりを仕事にはできないかもしれない。でもやっぱり、音に逆らうのはイヤだから)
俯いていた顔をあげて、アンナはエルネスタをまっすぐに見る。
もしかしたら、初めてきちんと目を合わせたかもしれない。エルネスタの、空を思わせる青い瞳。どこまでも遠くを見ているような、その瞳。
自分も、同じものを見てみたい。
「……わかった。あなたに、協力する」
とたんに、エルネスタは目を輝かせた。
「ありがとう。だったら、聖奏祭まで演奏を練り上げていきましょう。私も、バイオリンもね」
「うん」
差し出された手を、アンナは握る。てっきり、つるつるすべすべの手だと思ったけれど、エルネスタの手は、指の一部にタコができていたり、皮膚が硬くなったりしていた。
ただその点は、アンナの手も似たようなものだったらしい。エルネスタが、目を丸くしている。
そうしてまた目を合わせた二人は、どちらからともなく笑い出した。