1-14
「ま、待て。ちょっと待ってくれ」
マスターの店からしばらく行ったところで、エルが声を上げた。それに合わせて、アンナは足を止める。
「どうしたの? 疲れた?」
「ああ、少しな……」
演奏の後だ、すでに彼の肉体には疲労が溜まっていたのだろう。ただ、それを差し引いても、エルはそれほど体力がない。
また、この前も思ったが、彼は動きがどうにもぎこちない。以前は、てっきり大量の金貨を持ち歩いていたせいだと思ったが、今回もだ。
「くそ、走りにくいったらない……」
「その衣装のこと? せめて仮面ぐらい取れば?」
「……いや、それはちょっと。それにあの人たちだって、もう追ってはこないだろ」
「それは……」
そのとき、ドカドカとした足音がかすかに響いてきた。
「待てぇーいっ!」
団長ともう一人が、服を乱しながらもこちらに向かってきていた。
「……ないと思うよ。あの人たち、その、かなりしつこいから」
町の人からは、そのしつこさが意外と頼りにされていたりするのだが、こうして追われる立場になると、やっかいきわまりない。
「もう聞こえてるよ。どうする?」
「えと、工房に逃げて、隠れようと思ったけど、これだと工房まで追っかけてくるかも」
「……なら、しょうがないな」
そう言って、エルはしゃがんで靴をいじり出した。とたんに、靴底の一部がはずれる。彼は、それを放り投げた。
「あ、厚底靴……?」
全身が黒ずくめだから、同じく黒い靴のことはまったく意識していなかった。けれど、今投げたのが厚底部分なら、けっこうな大きさがあった気がした。
案の定、立ち上がったエルの身長は、アンナとほぼ同じくらいになっていた。なんなら、アンナの方が高いかもしれない。
「ほら、とっとと走る!」
エルに促され、アンナも再び走り出す。先ほどまでに比べて、彼のペースも明らかに速い。どうやら、あのぎこちなさの原因は靴だったようだ。
「あ、あの……どうして、あんな靴……?」
「今にわかる!」
息が上がっているからか、いつもより高い声で、エルはそう答えた。ただ、それは答えになっていない。
「今にって……」
それ以上、エルは何も語らなかった。アンナは必死に彼を追いかけて、走るしかなかった。
やがて、工房にたどり着く。自警団の二人の姿は見えないが、足音がかすかに聞こえる。自分の存在にも気づいているだろうし、きっとここにも乗り込んでくるだろう。
「ど、どどど……」
どうすればいいか。
これで自警団の二人に捕まって、このことがあの音学院の少女の耳に入ったら、本格的にバイオリンは禁止されてしまうだろう。そして当然それはニコラにも伝わり、いよいよ工房は閉鎖されてしまうのではないか。
「……慌てるな。中、入るぞ」
落ち着き払いながらも、やはりどこか妙なツヤのある声で言って、エルは工房の中に入る。アンナもそれに続いた。
と、中に入ったとたん、エルはまとっていた漆黒のマントを脱ぎ捨てた。さらには、黒の上着も。
「え、ちょ、え、エル……?」
上着の下から出てきたのは、意外にも白いシャツだった。白いシャツに黒いズボン。とたんに、舞踏会に来た紳士のような格好になった。
「え、え、ちょ、え……?」
エルの意図がわからず、アンナは戸惑うしかない。まさか、見た目を変えてごまかそうとでもいうのか。しかし、多少服装が変わった程度で、ごまかしきれるとも思えない。
そう思った瞬間、エルは、黒いふさふさの髪に手をやった。そして、髪を全て取り去った。
「んな……」
まるで全ての髪の毛が生え変わるように、黒髪の下から、金色の長髪が現れる。最後に仮面をはずすと、そこには見覚えのある少女の姿ができあがっていた。
「あ、あ、あなた……」
この工房に入ってから驚きの連続すぎて、まともな言葉を発せていないように思う。
そんなアンナをよそに、エル――音学院のエルネスタは、涼しい顔で言った。
「やれやれ。まだ正体を明かす気はなかったのだけど。ま、仕方ないわね」
声までが、変わっている。たしかに、先ほど走っているときになんとなく高くなってはいたが、今は明確に女性の声だ。
「え、エル……あの、これ、どういうこと……ですか?」
バイオリンを渡してあしらわれたときのことを思い出し、何となくアンナは距離をとってしまう。
「ああ……いろいろ事情があるのよ。説明するけど、とりあえず今は――」
二人の会話をとぎれさせるように、ノックの音が響いた。どうやら、自警団の二人が追いついてきたらしい。
エルネスタは、以前に見た人当たりのいい、作りもののような笑みを貼り付け、ドアを開けた。
「あら……自警団のお二人でしたか。どうされたんですか?」
「え、エルネスタさん? ど、どうしてここに?」
出迎えた人物があまりに予想外だったためか、自警団の二人も動揺している。それはアンナも同じだが。
「以前言ったように、音学院の人間として、このバイオリンを演奏することはできません。ただ、やはり音楽に携わる者として、楽器づくりには興味がありまして。お恥ずかしい話ですが、こうして見学に来ていたのです。美しい楽器ですし、美術品として、土産に買っていこうかと思いまして」
「は、はぁ……。実は、その、今この町でそれを演奏している男がおりまして。それが、こちらへ来たはずなのですが」
団長はアンナを見ながら、そう問いかけてくる。
「ああ……それでアンナさんが走ってこられたのですね。その男とやらはこの工房には来ていません。おおかた、途中でどこかに行ったのでは?」
「そうなのか、アンナ?」
団長から疑いのまなざしを向けられ、さらにはエルネスタにも見つめられ、アンナは反射的にうなずいた。もともと、彼女の口数が少ないのを、団長たちは承知している。そのため、うなずきもいい方向に解釈されたらしい。
「むぅ……では、逃がしたか。アンナ、あの男は一体何者なんだ?」
「えと、その……」
なんと説明したものか。アンナが困っていると、エルネスタがすぐに助け舟を出した。
「お待ちを。お二人が音楽の調和を気にかけてくれているのはわかります。ただ、アンナさんは客として来たその男にバイオリンを渡しただけでしょう。それだけなら、別に罪ではありません。美術品や土産品をどう使うかは、客のほうの問題です」
「は、はぁ……」
「それと、その男とやらも別に放置して問題ありません。その程度の輩であれば、音学院は気にかけません」
「いや、しかし、それでよろしいのですか?」
「ええ。むしろそうした輩は、追いかけることでかえって調子に乗りかねません。放っておくのが一番です。それともお二人は、その程度の人間が、音学院を脅かすとでも?」
自警団の二人が恐れているのは、音学院の不興を買うことだ。その音学院の人間であるエルネスタにそう言われては、引き下がるしかなくなってしまう。
結局、二人はすごすごと退散していった。
その後ろ姿を見送って、エルネスタは彼らに見せていたのとは違う、爽やかな笑みを見せた。