1-13
逸る気持ちを抑えつつ、二人はゆっくりとした足取りでマスターの店へと向かった。
どうせなら、この前と同じような時間帯に合わせようと思ったのだ。
果たして、店に着くころには日はほとんど落ちていた。
店の中からは、一日の仕事を終えた男たちの喜びの声が聞こえてくる。
「よし、行くか」
相変わらず臆した様子は一切見せず、エルは店の中に入っていった。
足を踏み入れた瞬間、店がざわついた。多くの意識が、こちらへと注がれる。
「あれ、あんた、また来たのかい?」
目ざとく店の変化に気づいたマスターが、エルに声をかけた。
「ああ。今度はちゃんと、仕上げてきた。だから、もう一度チャンスをくれないか?」
そもそも、ここで断られたらどうしようもない。エルはそれ以上は語らず、ただ仮面の奥からマスターを見つめた。
「……いいよ。やってみな」
マスターはそう告げると、また客たちを指揮して場所を整えてくれた。この前のことを心得ている客たちは、またエルの周りを取り囲むように陣取る。ただし、以前よりも少し距離をおいて。
「またあのはぐれか。懲りもせず」
「まぁいいじゃねぇの。ここは失敗を愛する町、職人たちのクレモニアだ」
「そうそう。進歩がなけりゃ、今度こそ追い出しゃいい」
客たちはときおり野次を飛ばしながらも、思った以上に積極的に聞く態勢に入っていた。
それというのも、この町が職人の町だからだろう。職人の技術は、教わっただけで身につくものではなく、自ら体験し、失敗を繰り返すことで磨かれていく。
だからこの町の人間の多くは、失敗をすることに寛容なのだ。
だが一方で、失敗を重ねるだけで、なんの成長も見せない人間にはことさら厳しい。彼らにはそれが、怠惰に映る。
ここでエルが何の成長も示せなければ、今度は袋叩きにあってもおかしくない。
聞く気はありながらも、場合によっては飛びかかってやろうという敵意もまた、漂っていた。
その中にあってエルは、淡々と用意をする。途中、店員の一人が椅子を持ってきたが、彼はそれを断った。
そのことに、アンナは目を丸くした。まさか、立ったまま弾くというのか。
だが、驚きは終わらない。
エルは足を開き、バイオリンを左の鎖骨の上あたりに置く。そして、アゴで挟むようにして横に構えた。左腕は、肘の部分がバイオリンの真下にくるような形で伸ばし、指先を弦の位置にもっていく。残った右手には、弓が握られた。
不思議なことに、その見たこともない構えは、至極自然なものに見えた。それは、余計な力が入っていないからだろう。特に肩の部分は、バイオリンを挟むようにしているというのに、強張りが感じられない。
前回の演奏を知る誰もが目をみはる中で、弓がバイオリンへと当てられた。
瞬間、店の空気が振動した。
聞く者の体の皮膚が、びりびりと痺れる。
まるで、空気の波が襲いかかってきたような感覚。
その発生源は当然、エルの奏でるバイオリンだ。
バイオリンは、これまでの弦楽器よりもはるかに大きな音を奏でることができる。
そう、師匠は語っていた。それを今、アンナは実感している。
あたかもこの場所は狭すぎると言わんばかりに、バイオリンは咆哮する。
それを宥めるように、あるいは煽るように、エルは自由自在に弓を操る。その姿は、猛獣と猛獣使いのようにさえ映る。
腹の底まで貫くような音響。けれど、不快な響きではない。それに応えるように、体の奥底が熱くなる感覚がある。
というか、ここまで響く楽器を、エルは左肩におき、アゴで保持している。つまりは、左耳がごく近い距離にあるはずだが、大丈夫なのだろうか。
そこまで考えて、はたと気づく。先ほどは、猛獣と猛獣使いに見えた、その姿。
だけど、それは勘違いだ。彼はもっと、楽器と近いところにいる。バイオリンと一体になっていると言ってもいい。
己の体を楽器に捧げ、奏でる音楽の一部とする。それが、あの構えなのだ。
いったいどれだけの修練を経て、彼はこのやり方に行き着いたのだろう。そこには、一種の狂気すら孕んでいるように思えた。
奏でられている曲は、勇壮で力強い。どこか、兵士たちの行進を思わせる。
店の喧騒を、全て呑み込むような響き。いや、実際にそうだ。全ての音を奪い去ったかのように、店の中はバイオリンだけが鳴いている。もはや、音を発するものは他にない。
誰もが、息さえ殺してエルの姿に見入っている。あるいは、魅入られている。
そう。音だけではない。演奏するその様が、美しいのだ。
漆黒の衣装。かすかに覗く白い肌。そしてそこに、赤みがかったバイオリンが映えている。
その姿は、なんと表現したらいいのだろう。
兵士が行進するイメージとともに、それを指揮する堂々たる王の姿。あるいは、多くの人間を死地に導こうとする、恐ろしい死神の姿。
様々なイメージを喚起する可能性を内包しながら、彼は聴衆を魅了する。
そして、演奏が終わった。
余韻の響きが、店内にこだまする。それに酔いしれるように、客たちは無言を貫いていた。
かすかに残っていた音の粒すらも消えて、エルが恭しく腰を折った。
とたんに、地鳴りのような拍手と歓声がわきおこった。
「やるじゃねぇか、兄ちゃん!」
「夢中になっちまったぜ!」
「そうかぁ……。アンドレアはあんなものを作ってたのかぁ……」
エルへの称賛の声が飛ぶ。さらに一部では、師匠のことを懐かしむような声があがっていた。そのことが、アンナには嬉しかった。
エルもさぞ喜んでいるだろうと思ったが、彼自身からは、それほど充実感が伝わってこない。それよりもむしろ、もっと弾かせろと訴えているような感じがした。
その望みに応えるように、客たちからは再びの演奏を求める声が出始める。
エルが頷き、またバイオリンを構えようとした、そのとき。
「待て待て待て、待てぇい!」
騒々しい足音と共に、そんなしゃがれた声が響いた。
何事かと目を向けてみれば、そこには自警団の二人がいた。とたんに客たちの顔が「やべっ」といたずらを見つかった子供のようになる。
「なーにをやっとるか、貴様ら。そんな得体の知れん輩に演奏など許しおって。マスター!」
自警団のヒゲ面の団長に怒りの矛先を向けられ、マスターは肩をすくめた。
「ちょっとしたお遊びだよ。ただでさえ、大した娯楽のない町なんだ。ちょっとくらい楽しんだって、バチは当たらないんじゃないのかい」
さして慌てる様子もなく、マスターは店の中央あたりで待ち構える。団長は、それに挑むようにズカズカと進んでいった。
「わしだって普段なら、これぐらい見逃してやってもよい。だが、今はダメだ。今は、音学院の人間が来ておる。ここで不愉快な思いでもさせてみろ。今年の聖奏祭に、音学院の人間を派遣しない、なんてことになりかねん。それこそ、バチが当たってしまう」
「そうなったら、この子にでも弾いてもらえばいいじゃないか」
マスターはエルを見つつ、ちらりとアンナにも視線を送ってきた。意図を察したアンナは、人波を掻き分けながらエルのもとへ向かう。
「あー、だからわかっとらん。聖奏祭は、一年の感謝を音楽に込め、神に捧げる祭なんじゃ。そんな半端者に任せるわけにはいかんのだ」
「半端者って……聞いてもいないくせに、そりゃちょっとひどいんじゃないのかい?」
「ええい、聞かんでもわかるわ。しかも、それはアンドレアの楽器だろう。そんなもので、神に感謝を伝えられるはずがない」
この言い方にはアンナも歯噛みしたが、マスターも不快を露わにした。それを敏感に感じ取ったのか、自警団の若い方が割って入る。
「ちょいちょいちょい、団長、この店で揉めないでくださいよ〜。俺だってこの店けっこう使うんすから」
「うるさいわ、お前は! とにかく、あの男はこちらで取り締まらせてもらう」
「はぁ……わかったよ。じゃあさっさと――行きなぁ!」
その声を合図に、アンナとエルは走り出した。店は客でごった返しているが、一部だけ見事なまでの道ができている。マスターが話している間に、客たちが動いてくれたのだ。
それで、一気に店の入り口まで到達。そこから外に出る。
「んな!? マスター、なんということを!?」
「おやまぁ、逃げられちまったね。残念残念。あたしがさっさと行けっていうのに、あんたたちが行かないからだよ」
「ぬぅ……まぁいい。追うぞ!」
団長が入口の方へ、踵を返そうとする。が、いつの間にか入口までに人の壁ができあがっていた。
「んな……」
「あぁ、悪いね。そろそろみんな酒でできあがってる頃だからさ。ちょっとふらついたりしちまうのさ」
「……ああもう、小僧! お前だけでも先に――」
「団長〜、助けてくださいよ〜」
団長の前には、男たちの壁。そして若い方は、酔っ払いたちに完全に絡まれていた。
「ぬああっ! なぜ邪魔するかぁっ!」
「……そりゃ、あんたたちのほうさね」
叫ぶ団長を見ながら、マスターはそう、ポツリとつぶやいた。