表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/43

1-13

 逸る気持ちを抑えつつ、二人はゆっくりとした足取りでマスターの店へと向かった。


 どうせなら、この前と同じような時間帯に合わせようと思ったのだ。


 果たして、店に着くころには日はほとんど落ちていた。


 店の中からは、一日の仕事を終えた男たちの喜びの声が聞こえてくる。


「よし、行くか」


 相変わらず臆した様子は一切見せず、エルは店の中に入っていった。


 足を踏み入れた瞬間、店がざわついた。多くの意識が、こちらへと注がれる。


「あれ、あんた、また来たのかい?」


 目ざとく店の変化に気づいたマスターが、エルに声をかけた。


「ああ。今度はちゃんと、仕上げてきた。だから、もう一度チャンスをくれないか?」


 そもそも、ここで断られたらどうしようもない。エルはそれ以上は語らず、ただ仮面の奥からマスターを見つめた。


「……いいよ。やってみな」


 マスターはそう告げると、また客たちを指揮して場所を整えてくれた。この前のことを心得ている客たちは、またエルの周りを取り囲むように陣取る。ただし、以前よりも少し距離をおいて。


「またあの()()()か。懲りもせず」

「まぁいいじゃねぇの。ここは失敗を愛する町、職人たちのクレモニアだ」

「そうそう。進歩がなけりゃ、今度こそ追い出しゃいい」


 客たちはときおり野次を飛ばしながらも、思った以上に積極的に聞く態勢に入っていた。


 それというのも、この町が職人の町だからだろう。職人の技術は、教わっただけで身につくものではなく、自ら体験し、失敗を繰り返すことで磨かれていく。


 だからこの町の人間の多くは、失敗をすることに寛容なのだ。


 だが一方で、失敗を重ねるだけで、なんの成長も見せない人間にはことさら厳しい。彼らにはそれが、怠惰に映る。


 ここでエルが何の成長も示せなければ、今度は袋叩きにあってもおかしくない。


 聞く気はありながらも、場合によっては飛びかかってやろうという敵意もまた、漂っていた。


 その中にあってエルは、淡々と用意をする。途中、店員の一人が椅子を持ってきたが、彼はそれを断った。


 そのことに、アンナは目を丸くした。まさか、立ったまま弾くというのか。


 だが、驚きは終わらない。


 エルは足を開き、バイオリンを左の鎖骨の上あたりに置く。そして、アゴで挟むようにして()()()()()。左腕は、肘の部分がバイオリンの真下にくるような形で伸ばし、指先を弦の位置にもっていく。残った右手には、弓が握られた。


 不思議なことに、その見たこともない構えは、至極自然なものに見えた。それは、余計な力が入っていないからだろう。特に肩の部分は、バイオリンを挟むようにしているというのに、強張りが感じられない。


 前回の演奏を知る誰もが目をみはる中で、弓がバイオリンへと当てられた。


 瞬間、店の空気が振動した。


 聞く者の体の皮膚が、びりびりと痺れる。


 まるで、空気の波が襲いかかってきたような感覚。


 その発生源は当然、エルの奏でるバイオリンだ。


 バイオリンは、これまでの弦楽器よりもはるかに大きな音を奏でることができる。


 そう、師匠は語っていた。それを今、アンナは実感している。


 あたかもこの場所は狭すぎると言わんばかりに、バイオリンは咆哮する。


 それを宥めるように、あるいは煽るように、エルは自由自在に弓を操る。その姿は、猛獣と猛獣使いのようにさえ映る。


 腹の底まで貫くような音響。けれど、不快な響きではない。それに応えるように、体の奥底が熱くなる感覚がある。


 というか、ここまで響く楽器を、エルは左肩におき、アゴで保持している。つまりは、左耳がごく近い距離にあるはずだが、大丈夫なのだろうか。


 そこまで考えて、はたと気づく。先ほどは、猛獣と猛獣使いに見えた、その姿。


 だけど、それは勘違いだ。彼はもっと、楽器と近いところにいる。バイオリンと一体になっていると言ってもいい。


 己の体を楽器に捧げ、奏でる音楽の一部とする。それが、あの構えなのだ。


 いったいどれだけの修練を経て、彼はこのやり方に行き着いたのだろう。そこには、一種の狂気すら孕んでいるように思えた。


 奏でられている曲は、勇壮で力強い。どこか、兵士たちの行進を思わせる。


 店の喧騒を、全て呑み込むような響き。いや、実際にそうだ。全ての音を奪い去ったかのように、店の中はバイオリンだけが鳴いている。もはや、音を発するものは他にない。


 誰もが、息さえ殺してエルの姿に見入っている。あるいは、魅入られている。


 そう。音だけではない。演奏するその様が、美しいのだ。


 漆黒の衣装。かすかに覗く白い肌。そしてそこに、赤みがかったバイオリンが映えている。


 その姿は、なんと表現したらいいのだろう。


 兵士が行進するイメージとともに、それを指揮する堂々たる王の姿。あるいは、多くの人間を死地に導こうとする、恐ろしい死神の姿。


 様々なイメージを喚起する可能性を内包しながら、彼は聴衆を魅了する。


 そして、演奏が終わった。


 余韻の響きが、店内にこだまする。それに酔いしれるように、客たちは無言を貫いていた。


 かすかに残っていた音の粒すらも消えて、エルが恭しく腰を折った。


 とたんに、地鳴りのような拍手と歓声がわきおこった。


「やるじゃねぇか、兄ちゃん!」

「夢中になっちまったぜ!」

「そうかぁ……。アンドレアはあんなものを作ってたのかぁ……」


 エルへの称賛の声が飛ぶ。さらに一部では、師匠のことを懐かしむような声があがっていた。そのことが、アンナには嬉しかった。


 エルもさぞ喜んでいるだろうと思ったが、彼自身からは、それほど充実感が伝わってこない。それよりもむしろ、もっと弾かせろと訴えているような感じがした。


 その望みに応えるように、客たちからは再びの演奏を求める声が出始める。


 エルが頷き、またバイオリンを構えようとした、そのとき。


「待て待て待て、待てぇい!」


 騒々しい足音と共に、そんなしゃがれた声が響いた。


 何事かと目を向けてみれば、そこには自警団の二人がいた。とたんに客たちの顔が「やべっ」といたずらを見つかった子供のようになる。


「なーにをやっとるか、貴様ら。そんな得体の知れん輩に演奏など許しおって。マスター!」


 自警団のヒゲ面の団長に怒りの矛先を向けられ、マスターは肩をすくめた。


「ちょっとしたお遊びだよ。ただでさえ、大した娯楽のない町なんだ。ちょっとくらい楽しんだって、バチは当たらないんじゃないのかい」


 さして慌てる様子もなく、マスターは店の中央あたりで待ち構える。団長は、それに挑むようにズカズカと進んでいった。


「わしだって普段なら、これぐらい見逃してやってもよい。だが、今はダメだ。今は、音学院の人間が来ておる。ここで不愉快な思いでもさせてみろ。今年の聖奏祭に、音学院の人間を派遣しない、なんてことになりかねん。それこそ、バチが当たってしまう」

「そうなったら、この子にでも弾いてもらえばいいじゃないか」


 マスターはエルを見つつ、ちらりとアンナにも視線を送ってきた。意図を察したアンナは、人波を掻き分けながらエルのもとへ向かう。


「あー、だからわかっとらん。聖奏祭は、一年の感謝を音楽に込め、神に捧げる祭なんじゃ。そんな半端者に任せるわけにはいかんのだ」

「半端者って……聞いてもいないくせに、そりゃちょっとひどいんじゃないのかい?」

「ええい、聞かんでもわかるわ。しかも、それはアンドレアの楽器だろう。そんなもので、神に感謝を伝えられるはずがない」


 この言い方にはアンナも歯噛みしたが、マスターも不快を露わにした。それを敏感に感じ取ったのか、自警団の若い方が割って入る。


「ちょいちょいちょい、団長、この店で揉めないでくださいよ〜。俺だってこの店けっこう使うんすから」

「うるさいわ、お前は! とにかく、あの男はこちらで取り締まらせてもらう」

「はぁ……わかったよ。じゃあさっさと――行きなぁ!」


 その声を合図に、アンナとエルは走り出した。店は客でごった返しているが、一部だけ見事なまでの道ができている。マスターが話している間に、客たちが動いてくれたのだ。


 それで、一気に店の入り口まで到達。そこから外に出る。


「んな!? マスター、なんということを!?」

「おやまぁ、逃げられちまったね。残念残念。あたしがさっさと行けっていうのに、あんたたちが行かないからだよ」

「ぬぅ……まぁいい。追うぞ!」


 団長が入口の方へ、踵を返そうとする。が、いつの間にか入口までに人の壁ができあがっていた。


「んな……」

「あぁ、悪いね。そろそろみんな酒でできあがってる頃だからさ。ちょっとふらついたりしちまうのさ」

「……ああもう、小僧! お前だけでも先に――」

「団長〜、助けてくださいよ〜」


 団長の前には、男たちの壁。そして若い方は、酔っ払いたちに完全に絡まれていた。


「ぬああっ! なぜ邪魔するかぁっ!」

「……そりゃ、あんたたちのほうさね」


 叫ぶ団長を見ながら、マスターはそう、ポツリとつぶやいた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ