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1-12

 春の季節も進み、少しだけ夏の気配を感じるような日も出てくるようになった。


 アンナは今日も一人、工房にいた。珍しく作業ではなく、作業場の整理を行っている。


 エルと出会い、そして別れてから、一ヶ月が過ぎた。


 あれから、彼は姿を見せていない。


 その間、アンナはアンドレアの残した資料を引っ張り出し、バイオリンのおよその値段を決めた。当然ながら、エルの残していった金貨は、十分すぎる量があった。


 一度、ニコラが成果の確認に来たので、申し訳なかったが、その中からバイオリンの代金をもらい、一部をニコラに渡した。


 彼は驚いた顔を浮かべた後「物好きもいるものだ……」と嘆息していた。もちろん、エルのことを話したわけではないので、おそらくはまた、美術品目的の客が来たと思ったのだろう。


 そして彼は「客が来るのなら、もう少し人に見せられる状態にしろ」と忠告していった。一応、この工房の主は彼のため、アンナはその言葉に従い、片づけをしていたというわけである。


 改めて整理をしていて気づいたが、アンドレアは思った以上にいろいろとバイオリンづくりのための資料を残していた。日記のようなものもあったが、あいにくとアンナは字の読み書きができない。自分の名前が書ける程度だ。


 それでも、いくつかの資料にはアンドレアが描いた絵が入っていたため、最近はそれを眺める時間もとっている。


 そうして時間を過ごしながらも、アンナの頭には常にエルの存在があった。


 彼は、どうしただろうか。もうバイオリンのことなど見限って、どこかに行ってしまっただろうか。


 今さらながらに、アンドレアが言っていた言葉がよみがってくる。


 ――いいか。音学院が好んで使うのはピアノだ。こいつは鍵盤を押し込めば、誰もが音を出すことができる。それを奏でようと思ったらまた技量が必要だが、誰もが一応、同じ音を出すことができるんだな。それが、あいつらの言う「秩序」だの「調和」だのに通ずるってわけだ。バイオリンは違う。そもそも、音を出すのが難しい。だが、だからこそ出された音には個性が出る。そこが、面白いんだ。


 このことをエルに伝えておけば、あるいは結果は変わったかもしれない。


 アンナにとって特別な名前を持った、不思議な魅力のある人。


 あの人ともう会えないのは、寂しいと思った。


「と……そろそろマスターのところに行かないと」


 あの一件があって以来、余計に遅い時間にマスターの店には行きにくくなってしまった。この時間ならまだ大丈夫、と工房の扉に近づいた瞬間。


 ――ドンドンドンドン!


「うひゃうっ!?」


 目の前に来たところでドアから突然荒々しい音が響いたため、すっとんきょうな声をあげてしまった。


 なにか、このノックの仕方には覚えがある気がする。


「おう。どうせ聞いてないと思ったら、出るとこだったのか。悪いことしたな」


 ドアが開き、口元を苦笑させた顔が現れる。上半分は、仮面で覆われている。そして体は相変わらず、漆黒の衣装に包まれている。


 忘れるはずがない。


「え……エル・ケーニッヒ……」


 一ヶ月ぶりに出会った青年の名が、自然と口をついて出た。


「ちゃんと覚えてたか。いや、待たせたな。ようやく、俺の中で納得がいった」

「な、納得?」

「これに決まってるだろ」


 エルが示したものを見て、アンナは目を見開いた。


 その手にあったのは、あのとき渡したバイオリン。あの日は新品だったものが、今ではすっかり使い込まれた風貌になっている。


「それ……」


 別に使い込まれていることを非難するつもりはない。むしろ、嬉しいことだ。けれど、わずか一ヶ月にしては、くたびれすぎているような……。


「悪いが、少しみてやってくれるか。本番は、これからだからな」

「本番って……まさか……?」

「当然。リベンジだ」


 それはつまり、もう一度マスターの店で演奏をするということか。何か、勝算があるというのか。いや、そもそもまたあの店で演奏させてもらえるのだろうか。


 渡されたバイオリンを確認しながら、そんなことを考える。


 いっそ、これでは満足な演奏ができない、などと告げた方が、よいのではないか。


 そんなことさえ思い浮かべてしまったとき。


(……あれ?)


 意外なことに気がついた。


 たしかに、このバイオリンはずいぶん使い込まれた姿になった。だが、痛んだりしているところはない。


 大ざっぱな言い方をすれば、バイオリンは表板や裏板、横板などが接着されることで形をなしている。それぞれのパーツは薄い板のため、ちょっとした不注意で簡単に割れてしまう。また、接着剤がはがれてしまう場合もある。


 エルはバイオリンの扱いに不慣れだろうし、そうしたダメージも、当然入っているとアンナは思い込んでいたのだ。ところが、実際に見たバイオリンは、使い込まれた跡はあっても、そうした傷はない。


 つまりは、それだけこのバイオリンが大切に扱われていた、ということだ。


 それでもなお、バイオリンには疲労感がにじんでいる。


 いったいどれだけの練習を重ねれば、こんな状態になるというのか。


 どうやらエルには、あきらめるなんていう気持ちは、全くなかったらしい。ならば自分もまだ、あきらめるわけにはいかない。


 確認と、簡単な調整を終え、エルにバイオリンを差し出す。彼の手へとそれが渡る直前に、アンナは口を開いた。


「エル……聞かせて、あなたの演奏を」


 バイオリンを受け取ったエルの口元が、自信ありげな笑みに変わる。


「ああ。任せとけ」


 楽器と奏者には、なじむ期間が必要なのだと、アンドレアは言っていた。これまではよくわかっていなかったけれど、今ならばわかる気がする。


 エルはきっと、バイオリンを自分のものにしてきたのだ。


 その演奏を聞くのが、アンナは楽しみで仕方がなかった。

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