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エルは、店からしばらく行ったところで立ち止まった。日はすっかり落ち、あたりに人影はない。
「え……エル。大丈夫……?」
あれだけの人に囲まれ、恥をかいたのだ。アンナだったら、おそらく立ち直れない。エルだって、同じなのではないだろうか。これで、バイオリンを手放してしまうのではないだろうか。
「……いくらだ」
「え……?」
「このバイオリンは、いくらで売る?」
息を乱しながら、なお鋭い声で問うてくる。
「え、あの……う、売る?」
突然、そんなことを言われても困る。
アンドレアは、アンナを商売にはあまり関わらせなかった。ときおり彼は美術品としてバイオリンを求めてきた貴族と商談をしていたが、そこにアンナは加わらなかった。
そのため、師匠がいくらでバイオリンを売買していたかを知らない。
だから、というわけでもないが、正直考えたことがないといっていい。
アンナが考えている間、呼吸を整えていたエルは、ふーっ、と大きく息をついた。
「……決めてないなら、それでもいい。これで足りるか?」
言葉と共に、彼は懐から麻袋を差し出した。一目見ただけで、重量感が伝わってくる。
突き出すようにしてくるので受け取ったが、とたんにアンナの腕、そして体はその重みに引っ張られた。
「ちょ……これなに……?」
地面に降ろして、中を覗いてみる。中には、金貨がぎっしりと詰まっていた。あまり金銭に聡くないアンナでも、しばらくは暮らせる額だとわかる。
「これ……エル、これなに……? どうして?」
どうしてくれたの、というよりは、どうしてこんな額を持っているのかというつもりで訊いた。
「バイオリンの代金だ」
どうやら、エルは前者の意味でとったらしい。
「いや、そうじゃなくて、いや、それもそうなんだけど……あの、お、多いよ……」
急にこんな金貨を渡されても、嬉しさというよりも、怖さの方が圧倒的に勝つ。
「だろうな。さすがに、それを全部持ってかれたら、少し困る。とはいえ、しばらくは使う機会もないし、お前に預けるよ。次に会うときまでに、額を決めといてくれ」
「え、あの……え?」
状況がいまいち飲み込めない。エルは、一体どうする気なのだろう?
「代わりにこいつは俺が預かる。じゃあな」
「あ……」
止める間もなく、エルは走り去ってしまう。金貨を手放したからか、その動きは軽やかだ。逆に金貨を受け取ってしまったアンナは、追いかけることさえできない。
「これ……どうするの……?」
エルの姿は闇に包まれてすでに見えず。アンナの呟きだけが、むなしく響いた。