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工房からマスターの店に着くころには、日が落ちて夜になっていた。
店の中は、相変わらず騒がしい。皆もそれは心得ていて、よそのやりとりに意識を逸らすようなことはなく、それぞれがそれぞれの会話に集中している。
が、一人の人物が入ってきた瞬間、そんな客たちの注目が一斉に集まった。
入ってきたのは、全身黒ずくめの男。作業に邪魔な余計な装飾を嫌う職人たちの中で、仮面にマントまで身につけた男の姿は、あまりに異様だった。
しかも、その後にはフードを目深にかぶった人物まで続いている。とはいえ、町の人間からすれば、こちらは見覚えがあるのだが。
「おい、ありゃなんだ?」
「知るかよ。アンナのやつと一緒ってことは、まさかシルワ族?」
「まさか。あいつらはよそに移ったんだろ? そりゃ戻ってくることもあるようだが……」
「にしたって、わざわざ町の、しかもこんなところにゃ来ないだろ」
「待て待て、あの手に持ってんのは、アンドレアのとこの楽器だろ。ってことは……どういうことだ?」
周りの声から、関心が集まっていることが嫌でも感じられて、アンナは寒気を覚えた。万が一これで自警団の二人でも来ようものなら、とんでもなく面倒くさいことになる。
「ちょ、ちょっとあんた! いったいなんの用だい?」
店の騒ぎに気づいたのか、マスターがエルの前に立ちはだかった。店で何か問題を起こした客は、どんな相手でもあっという間に退場させてしまうマスターだ。屈強な男でさえ恐れる剣幕を前にしても、エルに臆した様子はない。
「あなたがこの店の主か? 急で悪いが、こいつを弾きたいんだ。場所はあるかな?」
「はぁ? あんたそりゃ……」
彼の手にしているバイオリン、さらには背後で縮こまっているアンナを見て、マスターは事情を察したらしい。
客たちにも声をかけて、瞬く間に店内に開けた一角をつくりだしてしまった。
「んで、何がはじまるんだ?」
「さぁ、楽器の演奏らしいが……」
「ならあれが、例の音学院のやつか?」
「いや違うだろ。俺は実際見たけど、音学院の客ってのは、こう、金色の髪の女の子だったしな」
「なら、はぐれか」
「だろうよ。今年の聖奏祭は盛大にやりたいとかって領主さんも言ってたしな。おおかた、そんな噂でも聞きつけたんだろ」
「マスターもよくやるぜ。わざわざ面倒を抱えるようなもんじゃねぇか」
「そこがマスターのいいとこだろうがよ。それに、俺たちからすりゃ、ちょうどいい余興だよ」
「だな。面白けりゃ、なんでもいいや」
珍しい見せ物をできるだけ近くで見てやろうと、スペースをつくりながらも男たちは、できるだけエルから近い場所を陣取っていく。
またたく間に屈強な男たちに囲まれる状況になってなお、エルは落ち着き払って、ときおり「お前、もう少し離れろ」などと指示まで飛ばしている。
その様子を見ながらアンナは、申し訳なさそうにマスターのそばに駆け寄った。
「あの……マスター。ごめんなさい、まきこんで……」
さっきの男たちの会話で今さらながらに思い至ったが、もしエルが取り締まられるようなことになったら、演奏を許した店側も責任を問われかねない。
アンナは知り合いであることに甘えて、マスターにいらぬリスクを背負わせてしまった。
「あん? 別に気にしちゃいないよ。それより、あんなのどこで見つけてきたんだい?」
「えと……見つけてきたというか……あっちから来た」
「ふぅん。あの仮面のせいで、ちゃんとは見えなかったけどね。いい目をしてたよ。あれは、なんかやってくれるね」
マスターにも太鼓判を押された気がして、アンナは嬉しくなった。
こうしてエルの周りに集まっている人たちだってそうだ。
この場の誰もが、エルに期待している。
職人の町であるクレモニアは、先代の仕事を継ぎ、それを守っていくことが多い。ゆえにいつもどこか、新しさに飢えている面がある。
だからこそ、皆が期待するのだ。この男は、新しい何かを自分たちに見せてくれるのではないか、と。
(がんばって、エル……)
アンナ自身、バイオリンの演奏を聞くのは、実ははじめてになる。アンドレアが弾いているのは当然聞いたことがあるが、彼はあくまで職人で、弾くことを目的にしている人間ではない。
自称とはいえ、「音楽家」がバイオリンを奏でたらどうなるのか。自分の作品は、どんな風に応えてやれるのか。
我が子の旅立ちを見送るかのごとく、アンナは懸命に祈っていた。
エルは椅子をひとつ持ってきて、それに腰かける。それから、バイオリンを膝の上に構えた。そして今、弓がバイオリンの弦に触れる。
――キィィギィィィ。
次の瞬間、なんとも言えない不快な音が、店中に響き渡った。
多少の喧騒などものともしない、しっかりした音だ。
しかし、それが逆効果だった。
とたんに、周りで聞こうとしていた者たちはズッコケそうになる。
「ははは、失敗失敗」
動揺を隠すように、エルは一人、高らかに笑った。再び、弓を弦へと当てる。
――キィィギィィィキィィ。
だめだ。なんなら、さっきよりひどい。金属の板を引っ掻いたような音が、また響き渡る。
今度は、聞かされた側も我慢できなかった。
「おいおい、ふざけんじゃねぇよ。全然下手くそじゃねぇか」
その一言を皮切りに、いくつもの声が飛びはじめる。中には、耳を塞ぎたくなるようなものもあった。いや、実際にアンナは耳を塞いでしまった。
けれど、エルはあきらめることなく、バイオリンを弾こうと試みていた。それでも、まともな音が出ていないのは、雰囲気でわかる。
(ああ……もうだめだ)
このままでは、暴動になりかねない。そう思った矢先、エルが腰を上げた。
「くそっ!」
彼は悔しさを噛み殺すことなく叫び、そのまま店から出て行ってしまった。
慌てて、アンナは彼の後を追いかける。その背後では、客たちが彼を嘲笑する声が聞こえていた。