1-9
コンコンコンコン……。
何か、そんな音がしたような気がして、アンナはハッとした。
いったいどれだけの時間、師匠との思い出に浸りながら作業をしていたのか。手元に目をやると、魂柱の調整をしている最中だった。
もう一度意識を集中させ、作業に戻る。
コンコンコンコン……!
バイオリンは、弓――正確には弓についた弓毛――が弦を擦ることによって振動が生じて音を出すが、その音はとても小さい。
それが橋の形をした駒と、内側に立てた小さな魂柱を通じて楽器全体に広がっていく。そして、内部で共鳴した音が、f字孔というバイオリン独特の形の穴から放出され、楽器としての音が鳴り響く。
魂柱は、音質を調整する重要な存在で、位置を変えることによって音色や反応を変えることができる。大事なパーツである。
当然、その作業には集中を要する……。
ドンドンドンドン。
「……?」
やはり、何か音がしたような気がする。風が強いのだろうか。
正体を確かめるように、ドアに近づいた瞬間――。
「おい、いるんだろ!?」
ドンドンドンドンドンドンドンドン!
男の声が響くと共に扉を連打され、アンナは飛び上がりそうになってしまった。
ここだけは安全な城だと思っていたのに、この場所まで脅かされるなんて。
しかも、聞こえてきた声には聞き覚えがない。どちらかというと少年のような、やや高い声だ。
「い、今開けます!」
誰かは判然としないが、とにかく相手を怒らせたくない。その思いで、アンナは扉を開けた。
そして、そこに立っている人物を見て、目を丸くした。
目の前に立っていたのは、全身が黒ずくめだった。黒い衣装に、黒いマント。さらには、その豊かな髪の毛までが黒い。
いったい何者かと顔を見れば、顔の上半分は、白い仮面で覆われてしまっている。下半分は肌が露出しているが、そこは逆に透き通るように白い。
全身を黒で揃えている中で、顔だけが白いせいか、そこが浮かび上がって見え、どこか白骨を想起させた。
「だ、誰……ですか……?」
ここまであからさまに怪しいと、かえって警戒心は薄くなる。よく見れば、背もそれほど高くない。アンナより少し高い程度だ。そのせいか、あまり威圧感もない。
「やぁやぁ、俺の名は、エル・ケーニッヒ。さすらいの音楽家、といったところかな」
「え……エル……ケーニッヒ……?」
男が口にした名前に、アンナは息が詰まる思いがした。
その名前は、アンナにとってあまりに重い。
エルケーニッヒ。それは、シルワ族が信仰する森の王。彼は森のあらゆるものに宿り、様々な恵みや試練を人間に与える存在。
逆にシルワ族以外からは、魔王などと呼ばれて恐れられているが。
目の前の男は、エル・ケーニッヒと名乗った。アンナの知るエルケーニッヒとは、若干発音が違う。
知ってか知らずか。いずれにしてもアンナは、悪い印象よりも、むしろ運命のようなものを感じていた。
「え……エルは、何を、しにきたの?」
「言ったろ? さすらいの音楽家だって」
そういえば、言っていた気もする。名前の方が強烈で、頭に入らなかった。
けれど、さすらいの音楽家というのも不思議な話だ。
音楽というものは、神や貴族に捧げるものであり、勝手なものが演奏されぬよう、音学院が目を光らせている。彼らは、彼らが定めた正しい音楽を無視する輩の取り締まりも行っており、そのための部隊も保有しているという。
このエル・ケーニッヒという男は、臆面もなく音楽家を自称しているが、もしこれがあのエルネスタの耳にでも入ったら、大変なことになるのではないか。
「えと……音学院の人?」
「いんや。音学院は関係ない。むしろ俺は、あいつら嫌いだね」
瞬間、アンナは顔から血の気が引く思いがした。こんなところにあの音学院の人間が来るはずはないが、万が一ということもある。彼女は慌てて辺りを見回しつつ、エルを工房内に招き入れ、扉を閉めた。
「そ、そういうこと、あんまり言わない方が、いいと思うよ……」
「ん? あー、なるほどな。けど俺は、自分に嘘つくほうが、いやなんでね」
なんだろう。なんというか、これまでに自分が出会ったことがないタイプだ。自分とは、まさに正反対だと思う。
けれど、不思議とアンナは彼に嫌悪感を抱いてはいなかった。むしろ、不思議と惹きつけられる感じがする。
「さて、中に入れてくれたってことは、俺の話を聞いてくれるってことでいいんだよな?」
「え、あ……」
そうか、あの場で追い返すという選択肢もあったのか、とアンナは今さらながらに思う。しかし、仮に思いついたとしても、そんな大胆な行動には出れなかっただろう。
つまりアンナは、頷くしかない。
その反応を見てから、エルは口を開いた。
「実は、俺はずっと悩んでたんだ。俺はさすらいの音楽家だが、残念なことに武器となる相棒がいない。いろんな楽器を試したが、いまいちビビッとくるものがなかった。けど、俺は今日、それに出会ったんだ」
どこか芝居がかった動作で、エルは作業机の上にあったバイオリンを指した。
「あれが、俺が求めてたものだ」
「ば、バイオリン? でも、どこで?」
バイオリンの存在は、ほとんど知られていないはずだ。
だから、一部の貴族が鑑賞用の美術品として買い求めていったことはあるが、この町以外で触れ合う機会なんて、ほとんどないといっていい。
「さっきの音学院のやつとのやりとりを見てたんだよ。はたから見ただけで、弾いたわけでもない。それでも確信したんだ。俺の目指す音楽を実現させてくれるってな」
アンナ自身はもちろん、バイオリン自体もこうして好意的な言葉をかけてもらったことはほとんどない。だから、あの場を見られていたという恥ずかしさよりも、嬉しさのほうが勝った。
「そこで、相談だ。バイオリンを、俺に弾かせてくれないか?」
それもまた、嬉しい申し出だった。アンナは二つ返事で、彼の申し出を受けようとする。
が、すんでのところで理性が頭をもたげた。
本当に、そんな決断を下していいのだろうか。
アンナも詳しいわけではないが、こうして音学院に異をとなえようとする人間は、時たま現れるらしい。けれど、彼らは結局音学院が管理する価値観を変えることはできず、取り締まられてきた。
もしバイオリンが、そんな人物が使った楽器という烙印を押されることになったら?
彼に与することは、バイオリンのためにはならないのではないだろうか。
「……工房を見て確信したよ。あんたが本気でやってるってことも、バイオリンがいい楽器だってこともな。だけどな、こうしてるだけじゃ、音学院には伝わらない。言っとくが、あの女が特別冷たいんじゃないぜ? あれが、音学院じゃ普通なんだ。あいつらは、自分たち以外の音楽を認めない。けど、そんなのつまんないだろ? だから、見返してやろうぜ。俺とお前のバイオリンなら、絶対できる」
たぶん、根拠はないのだろう。それでも、彼の言葉には熱があった。まるで、師匠とバイオリンを語り合っているときのような熱。
そして、その名前。エル・ケーニッヒ。自分にとって、特別な名前を持つ男。
彼が今、この場に現れたことが、偶然とは思えない。それこそ、エルケーニッヒがもたらした恵みのようにさえ思う。
だから、信じてみようと思った。冷静な考えではなく、情熱的な直感に、賭けてみたいと思った。
「――わかった。バイオリンをあなたに、託します」
アンナの宣言を聞いて、エル・ケーニッヒはとたんに、弾けるような笑みを見せた。どこか恐ろしさのただよう外見に似つかわしくない、子供のような笑みだった。
「決まりだ。さっそくで悪いが、バイオリンをひとつ貸してくれないか? もう、弾きたくてうずうずしてるんだ」
「え、でも……」
困った。本来であれば、彼に合ったバイオリンをつくりたいところだが、アンナにその経験はないし、そもそもエル自身が我慢できなさそうだ。
ここはそれほどクセのないものを渡そうと思うが、さてそうなるとどれがそうか、迷ってしまう。まだ未熟とはいえ、どれもがアンナにとっては可愛い作品たちなのだ。
「なんだよ、決められないのか? だったら……とりあえず、それでどうだ?」
エルが指さしたのは、作業机の上に置いてあったバイオリン。それを見て、アンナは青ざめた。
「だ、だだだだめですよ、これは、これは師匠のバイオリンなんです。私がつくったやつじゃないんです。そりゃ、私のより出来はいいかもしれませんけど、あの、とにかくだめです!」
慌ててまくし立てられ、エルは呆気に取られたような顔をしている。怒っただろうか? けれど、こればっかりはだめなのだ。この見本がなくなったら、アンナは作業ができなくなってしまう。
「……そう、か。それが、師匠の作なのか。亡くなったと聞いた。……そうだな。お前の作のほうが、これからの調整もしやすいだろう。待っているから、お前が見繕ってくれ」
これまでの、どこか芝居がかった声音とは違う、真剣みを感じさせる声だった。てっきり落胆するか、もしくは怒るかと思ったが……。
おそらく、この人物は誠実なのだろう。やはりこの人になら、バイオリンを託していい気がする。
そんなことを考えながら、アンナはバイオリンを一挺持ってきた。
以前、「きれいに」作ることを心がけた一作だ。個人的には、少々面白みに欠ける部分はあるが、エルの音楽性がわからない以上、こうした作の方がいいはずだ。
「こいつか……うん、やっぱりいいな。美しい。これ、弾き方は?」
「え、あ、えと……」
再びバイオリンを受け取って、アンナは椅子に座る。それから、バイオリンを体の前、膝の辺りに乗せるようなかたちで縦に構えた。一般的な弦楽器の奏法だ。そして弦に弓を当て、音を奏でる。
ちなみに、アンナの演奏の腕は、大したことはない。弾ける曲は一曲だけ。母や父が奏でてくれた、シルワ族の子守歌だけだ。耳が覚えていて、それだけは再現することができた。
とはいえ、演奏の仕方を習ったのは両親からではなく、アンドレアからだ。そのアンドレアも、演奏の仕方はシルワ族から教えてもらえなかったらしく、二人の演奏はあくまで自己流だ。
「……なるほどな。だいたいわかった」
アンナがわずかに弾いただけで、エルはそう頷いた。
「え、も、もう?」
「ああ、大丈夫だ。ヴィオラ・ダ・ガンバと同じだな」
「ヴィオラ・ダ・ガンバ……」
ヴィオラ・ダ・ガンバ――すなわち、脚のヴィオラを名称とするこの楽器は、音学院でも用いられている弦楽器だ。
たしかに、バイオリンとよく似ているが、アンドレアはまるで違うものだ、と主張していた。
その違いは――。
「えと……師匠が言うには、バイオリンと、ヴィオラ・ダ・ガンバは、その、響く音の大きさが違うって、言って、ました……」
アンナのその反論に、エルの仮面の奥の瞳が、興味深げに輝いた。
「へぇ……そいつは楽しみだ。じゃあ、行くか」
「……どこに?」
「ん……そうか。この町で、騒がしい場所ってあるか?」
「騒がしい……」
ふと、窓の方へ目を向ける。さしこむ光から察するに、また夕暮れ近くになっている。
だとしたら、そろそろマスターの店が「酒場」になっている頃のはずだ。昨日の様子を思い出して、アンナは嘆息した。
「……私がお世話になってる人のお店が、その……この時間だと、酔った人とかいて、やかましい、かな」
「じゃあそこだ。行くぞ」
アンナの手からバイオリンを受け取ったエルは、そのまま工房を出ていく。
「え、えぇ……?」
まさか、酒場で演奏をしようというのか。しかも、いきなり。
そんなことにはならないでほしいと願いながら、アンナは彼の後を追いかけた。