プロローグ
寒々とした星空の下、一頭の馬が風を切って森の中の道なき道を駆けていく。
その背には、父と娘の親子。父は片手で器用に手綱を握り、もう片方の腕で子供を抱きかかえている。腕の中で子供はぐったりとし、弱々しい呼吸を繰り返している。
ただ、父の腕を通して伝わってくる体温だけは、蝋燭の最後の灯火のように熱かった。
「あぁ……エルケーニッヒよ」
馬の蹄の音が乱雑に響く中、父がつぶやく。
「どうか……あなたの導きを拒むことをお許しください。娘を救わんとすることを、お許しください」
神聖なものへの祈りのように、父は幾度となく、古くからの聖句を唱える。
その声は、薄れゆく意識の中にあった娘の耳にも、かすかに届いていた。
エル……ケーニッヒ……。
その言葉を、頭の中で反芻する。
とても大切な言葉だった気がする。けれど、それが何を意味するものだったか、娘はすぐには思い至れなかった。
それでも、やがて思い出す。
それは自分たちを見守る、森の王の名前。
そのときふと、娘は何かに見られているような感覚を覚えた。
かすかに首を動かせば、暗い森の奥に、ぼんやりと光る何かが見えた――気がした。
「お……とう……さん。いま……あそこ……」
娘のつぶやきに、父はギョッと目を剥いた。手綱が乱れ、馬の体がぐらつく。
「く……」
だが、それもすぐに立て直した。それから父は、娘を抱く腕に力を込めた。
「大丈夫だ。絶対に、大丈夫だから……」
それは娘に向けた声か、それとも自分へか。いずれにしても、娘はその言葉に安心を得て、静かにまぶたを閉じた。それから、すぐにまた弱々しい呼吸音が聞こえてくる。
「あぁ……エルケーニッヒよ」
そしてまた、父はつぶやく。
「どうか……我が罪を許したまえ。どうか娘の、健やかなる成長を見守りたまえ」
やがて馬は、森を抜ける。前方には、人々の営みを示す、ほのかな灯りがともっていた。