真実の愛も悪くない
「貴方はだあれ?」
「私は魔女だよ。こないだ助けてくれただろう?」
庭で遊んでいた私の前に、彼女は突然現れた。貴族の邸内への侵入者だ、本来なら警戒すべきだったろう。だけど幼い私は好奇心の方が勝ってしまった。
腰まで流れるウェーブのかかった白髪を後ろで束ね、黒が基調とはいえ清潔感のあるワンピース。普通の老婆にしか見えず、言われなければ魔女だとはとても思えない。
そういえば、どこかで見覚えがあるような……。
「思い出したわ!一昨日、街で座り込んでいた人ね」
「そうそう。あの日は色々あって魔力を使い過ぎてねえ。お嬢ちゃんが送ってくれて助かったよ。あのままじゃ、家へ帰れなくなるところだった」
あれは友人の屋敷へ訪れた帰りだった。
座り込んでいる老婆が気になって「具合が悪いのですか?お医者様へお連れしましょうか」と声を掛けたのだ。医者はいいので街はずれまで連れて行ってくれないかと頼まれたので、馬車に乗せて老婆を送った。
「あの辺に古い知り合いが住んでてね。マジックポーションを分けて貰えたから、無事に家へ転移できたのさ。お嬢ちゃんは恩人だから礼をしようと思ってね」
「それはご丁寧にありがとうございます。当然のことをしたまでですから、お気遣いは不要ですわ」
「幼いのに礼儀正しいねえ。良い子だ」
覚えたてのカーテシーをして見せた私に、魔女は口元を綻ばせる。
「せっかくの魔女の贈り物だ。受け取っておきな。かなり幸運なことなのだからね」と言いながら、彼女は手にしたものを差し出した。丸い形をした金属にはめ込まれたガラス。その中に針と目盛りのようなものがある。
「懐中時計かしら?」
「これは『時戻りの時計』という魔法具だ。望んだ時まで時間を戻せるよ。戻りたい年数、針を進めてボタンを押せばいい。ただし、使えるのは三回までだ」
絵本でしか聞いたことのない「魔法具」という言葉に、私は目を輝かせる。
「わあっ。とっても貴重なものね!」
「そうだよ。だけど使うときは慎重に、良く考えて使うんだ。あんたも、あんたの周囲の人間も、人生をやり直すことになってしまうのだからね。もしあんたがこれを要らないと思うなら、いつか私へ返してくれればいい」
「分かりました。魔女様はどちらにいらっしゃるの?」
「普段はエフェの森にいるよ。あんたに悪意がなけりゃ、入れるだろうさ」
じゃあねと手を振って、魔女様は消えてしまった。白昼夢かと思ったけれど、手の中に残された時計が夢ではなかったと教えてくれる。
「時戻り……何だか面白そう!」
◇ ◇ ◇
「なぁ~~にが真・実・の・愛よ!!ふざけんな!!」
私は手にしていたクッションを壁へ投げつけた。思いっきり投擲したつもりだったけど、所詮はか弱い女の腕。壁にぶつかったクッションはポスンと間抜けな音を立てて落ちる。
え?か弱くない?悪かったわね、華奢なレディじゃなくて!
「ビアンカお嬢さ……いえ、若奥様。落ち着いて下さいませ」
「結婚式の夜に愛人の存在を暴露されて、怒らない女がいたら会ってみたいわ!」
侍女は私の剣幕に怯え気味である。私はふうと息を吐いて気持ちを落ち着かせた。
彼女へ当たっても仕方がない。私が怒りを向けるべき相手は――夫のエドガーだ。
初夜を迎えるため身体を磨き上げ、胸を高鳴らせながら寝室で待っていた私に「俺には真実の愛で結ばれた相手がいるんだ。君にはお飾りの妻でいてもらう」と偉そうにのたまった男。
婚約時代は優しかったから油断していたわ。まさか愛人の存在を隠していたとは……。
というか、えっらそうに胸を張って言う事か?ちょっとは申し訳なさそうにしろっての。
「……また『真実の愛』なのね。本当にどうかしてるわ」
「また?」
私の呟きに、侍女が首を傾げた。
いけないいけない。うっかり心の声を漏らしてしまった。
「何でもないのよ。今日はもう休むから、貴方も下がっていいわ」
退室する侍女を見送ってから、私は机の引き出しを開けた。
その奥に潜ませてあるのは、針が一つしかない懐中時計。魔女から貰った『時戻りの時計』だ。
私は既に一度、この魔法具を使用している。
一度目にこれを使用したのは20歳の時。
成人までは特にトラブルもなく、そこそこの人生だったと思う。実家のオルコット子爵家は羽振りがいいという程でもなく、子爵としては普通。友人もそれなりにいたし、親の決めた婚約者もいた。醜聞に塗れるようなこともなく平々凡々な、つまり何の変哲もない下位貴族令嬢だった。
だが卒業を控えたある日、私は突然に婚約者のクライド・ロートン伯爵令息から婚約破棄を言い渡された。
彼はとある女生徒との『真実の愛』に目覚めたらしい。それに嫉妬した私が彼女を虐めたという、訳の分からない言いがかりを付けられた。
「お前のような性悪女と結婚など、考えただけで寒気がする!」という罵詈雑言と共に。
浮気をしたのは自分だろうに、どの口でそんなことを言うのかしらね。大体嫉妬も何も、私はクライドにそんなお相手がいることすら知らなかったのに。
彼との婚約は親同士が決めたもので、月に一度会うか会わないかというくらい疎遠だった。その数少ない逢瀬も義務的なもので、当たり障りのない会話をして終わり。
少なくとも私の方は、嫉妬をするほどの情は育んでいなかった。それはクライドだって同じだったろう。だけど政略結婚なんてそんなものかと思っていた。
後から知ったことだが、クライドは私にあらぬ罪を着せて婚約破棄へ持ち込むつもりだったらしい。私がその『真実の愛』の相手と面識すら無いという事実は知らなかったそうだ。そんな穴ぼこだらけの計画を、通せると思う方がどうかしている。
両家の話し合いの末、私たちの婚約は解消となった。
本来なら浮気した側の有責としてこちらから婚約破棄すべきである。だが息子に瑕疵がつくことを嫌がったロートン伯爵により、解約料を多めに払うから破棄にはしないでくれと頼まれたのだ。
相手はこちらより高位の伯爵家。父と私は渋々承諾した。
後に、私はそれを酷く後悔することになる。新しい縁談が見つからなかったのだ。
成人近くなって婚約が無くなったというのは貴族令嬢にとって取り返しのつかない傷である。それでも婚約破棄ならば、こちら側に全く瑕疵が無いと知らしめることができただろうに。口さがない連中には「婚約破棄ではなく解消となったのは、ビアンカ嬢の方にも問題があったのでは?」と言う者もいたらしい。
そもそも、既に成人近い年齢だ。同年代の目ぼしい令息は既に婚約者がいる。
多少年上でも構わないと選択肢を広げてみても駄目だった。数件の縁談はあったが、ひどく年の離れた相手の後妻だったり、相場の2倍近い持参金をふっ掛けてくる相手だったり……完全に足下を見られていた。
一方でクライドは『真実の愛』の相手と結婚した。相手は男爵家の令嬢だったため、高位貴族の作法に慣れず苦労していたようだ。だが彼は、そんな妻を献身的に支えた。当初は厳しい目を向けていたロートン伯爵も支えあう二人の姿に態度を軟化させ、今ではまあまあ幸せにやっているらしい。
「何で浮気された私が不幸になって、浮気した奴らはのうのうと暮らしているのよ。おかしいでしょう!?」
こんなことなら、婚約する前に戻ってやり直したい。
そう考えたところで私は思い出したのだ。幼い頃に、魔女を自称する老婆から貰った時計のことを。
半信半疑ではあった。
だけど、このクソッタレな事態を回避できるのならば……何でもいい。
時戻りを行った私は14歳に戻っていた。クライドと婚約する前だ。
一度目と同じようにロートン伯爵家から婚約が持ち込まれたが、断固拒否。
「あの方とは気が合いませんの。結婚しても不幸になるだけだと思いますわ」と言い張る私に、両親はそこまで相性が悪いのなら……と諦めた。
その後クライドはとある伯爵家の令嬢と婚約。彼女とは学院で顔見知りだったから、私は時期を見計らってクライドの浮気を教えてあげたわ。伯爵令嬢は怒り心頭で、婚約は即行で破棄された。伯爵家同士だから婚約解消をごり押しすることも出来なかったみたい。
さらに元婚約者の父親に圧力を掛けられた貴族や商会から次々と取引を打ち切られ、事業が傾いて青息吐息だそう。いい気味だわ~。
私はといえば、別の相手――エドガー・ライルズ伯爵令息と婚約した。
父に頼んで念入りに身辺調査をして貰ったが、問題なし。女性関係についても綺麗なものだ。
「エドガー様には親しい女性はいらっしゃらないですか?」
「そんな人はいないよ」
「馴れ馴れしい幼馴染とか、病弱な従妹がいたりしません?」
「いないよ。ああ、浮気を心配してるのかい?婚約もしていない相手とみだりに親しくするなんて、貴族としてあり得ないだろう」
エドガーはとても優しかった。頻繁に会いに来てくれるし、贈り物も欠かさない。
前回の婚約者クライドと上手く行かなかったのは、私の方から歩み寄らなかったせいもあるかもしれない。勿論、浮気する奴が悪いのは大前提だけどね。
だから私は積極的にエドガーと交流を試み、ほんのりとだが彼を慕うようになった。きっと彼も同じように想ってくれているに違いない。今度こそ、幸せな結婚が出来る。そう思っていたのに。
「俺には真実の愛で結ばれた相手がいるんだ。君にはお飾りの妻でいてもらう」
今回の『真実の愛』のお相手はメイドだった。身分違いであることは互いに重々承知していたが、それはむしろ恋を燃え上がらせる材料になったらしい。
「俺たちの強い愛の前には、身分など些細な問題だ」と恍惚としながら話すエドガーには、怒りを通り越して寒気を覚えたわ。
婚約話が持ち上がったことを知り「私のことなんて忘れて、子爵家のご令嬢と幸せになって下さいませ」と泣きながら訴える彼女に、エドガーは心を打たれたという。
「彼女は慎ましくてか弱い女性だ。俺は生涯、彼女を守ると決めた」
ばっっかじゃねえの。慎ましい女が勤め先の令息と恋仲になるわけないじゃない。
そんな分かりやすい演技に騙されるなんて。男って、どうしてこうポンコツばかりなのかしら。
身辺調査をしても出てこなかったわけだ。二人は家の中でこっそり逢瀬を繰り返していたのだから。
「彼女が嫌がるから、お前とは床を共にしない」
「そんな……跡取りはどうするのです?」
「彼女に産んでもらうさ。届け出はお前の子供として出す。次期当主の母親として遇されるんだから、それでいいだろう?」
つまり、夫が愛人といちゃいちゃするのを眺めながら産んでもいない子供を育てろと?
「酷すぎます!お義父様に全部お話しします。離縁させてもらうわ!」
「父上も母上も、承知の上だ」
そもそも、私との婚約を進めたのは義父のライルズ伯爵だった。義父はメイドを愛人として囲うことを認める代わりに、エドガーに私との婚約を吞ませたのだ。
婚約期間中にエドガーや義両親が優しかったのは、私を逃がさないため。格下の子爵家の娘なら言いなりに出来ると思ったらしい。
このまま一生、お飾りの妻として生きていくのか。私を家族としてすら扱う気のない夫や義両親と共に?
……冗談じゃない。そんなお先真っ暗の人生は御免だ。
私はまた、時戻りの時計を使うことを決意した。
そして三度目の14歳。今回の婚約相手であるマーヴィン・ファインズ子爵令息は少し気が弱いし、見た目も地味だが優しい人だ。今度は家中まできっちり調べ上げ、女性関係が全く無いことも確認した。
ああ、勿論エドガーとクライドは前回同様、婚約者に浮気相手の存在を教えて差し上げたわよ。
クライドは二度目と同じく、婚約破棄された。
エドガーの方は結婚したけれど、妻は愛人を認める代わりにライルズ伯爵家の実権を手中に収めたらしい。義両親は領地に追いやり、愛人とクライドは別邸に放り込んだ。本邸には妻の実家の者が入り込み、好き放題やっているとか。したたかな女性だわね。
二人の女性が不幸になるところを防げたのだから、良いことをしたと思うわ!
「今まで、女性に接する機会があまり無くて……。不作法もあるかと思うが許して欲しい」
「経験がないのは私も同じですわ。互いに、気に入らないところは話し合って改善していきましょう」
私たちはゆっくりと距離を縮め、成人後に無事結婚した。たまに喧嘩することもあるが政略結婚にしては仲の良い方だと思う。ほどなく長男が生まれ、アーサーと名付けた。
「お父さま~、このご本を読んでください」
「駄目よ、アーサー。お父様はお仕事中よ」
「構わないよ、そろそろ休憩しようと思っていたから。おいで、アーサー」
息子はマーヴィンの膝に飛び乗り、絵本の朗読を嬉しそうに聞いている。
なんて微笑ましくて幸せな光景だろう。それを眺める私や使用人はニッコニコ、義両親であるファインズ子爵夫妻は孫の愛らしさにデレデレだ。
東方の国には「三度目の正直」という格言があるらしい。
アーサーはすくすくと育っているし、夫婦仲は良好。義両親とも使用人ともうまくやっている。
格言の通りだ。私は三度目で、ようやく幸せな結婚を掴めたのよ。
――そう思っていたのは、私だけだったらしい。
「ビアンカ。済まない……離縁して欲しい」
「……どういうことか、説明して下さる?」
「俺は『真実の愛』に出会ってしまったんだ」
「はぁ???」
衝撃のあまり頭が追い付かず、床に付きそうなくらい頭を下げた夫を呆然と見つめる。まさかマーヴィンの口から真実の愛なんて言葉を聞くとは……。
お相手はキャロル・トレイナー男爵令嬢。マーヴィンが慰問に訪れた修道院で彼女は奉仕活動に勤しんでいた。何度か偶然顔を合わせるうちに、孤児たちを甲斐甲斐しく世話する彼女に惹かれてしまったそうだ。
最近、妙に奉仕活動に入れ込んでいるとは思っていた。孤児院へ行くと言って夜遅く帰ってくることもあったし、バザーだ子供向けの劇だと持ち出しも多かった。
慈善事業は悪いことではないし、我が家の家計を傾けるほどの散財をしているわけでもない。だからやんわりと「執務もあるのですから、ほどほどにして下さいな」と窘める程度に留めていたのだ。
「君や子供のことは大切に思っているが、彼女を求める気持ちが抑えられない」
「だからその令嬢と再婚なさりたいと?」
「ああ……どうしても彼女と結婚したいんだ。慰謝料は言い値で支払う。勝手なことを言っているのは理解しているが、どうか許して欲しい」
「アーサーはどうするのよ!?」
「彼女と二人できちんと育てるつもりだ。出来るなら君は過去を忘れて、新しい幸せを見つけて欲しい」
余りにも勝手な言い分に絶句してしまう。
離縁された女にまともな縁談が来るとでも思っているのだろうか。真面目な人だったのに……恋をするとここまで頭がお花畑になるのかしら。
その後何を話したかは覚えていない。
一人にしてくれと伝えて部屋へ戻った私の手には、あの時戻りの時計がある。
「どうしてこう、いつもいつも……!『真実の愛』が何だってのよ。平穏な幸せを棒に振ってまで、貫かなきゃならないモンなわけ!?」
結婚して7年。夫や息子と共に、温かい家庭を築いてきたつもりだった。それでも『真実の愛』に勝てないのだったら、もう私に打つ手は無いじゃない。
また時を戻そうかとも考えた。
しかし……どうやら私は男運に恵まれないらしい。
やり直して他の相手と結婚したところで、また浮気されるのではないだろうか。
そして何よりも、時を戻してしまったら私はアーサーに会えない。別の人と結婚して子供が出来たとしても、それはアーサーとは違う子だ。
子供部屋のベッドですうすうと気持ちよさそうに寝息を立てる息子。私はその愛らしい頬をそっと撫でた。
そうよ。貴方と共に生きる人生を、無くしてたまるもんですか。
「離縁はしません」
ファインズ子爵家の応接間で、私はそう宣言した。
向かいに座るのはマーヴィン。そして右側のソファには私の両親、左側のソファには義両親のファインズ子爵夫妻。その場にいる全員から睨み付けられ、夫はひどく居心地が悪そうだ。
「私はアーサーと離れたくないのです。だから貴方との離縁も受け入れません」
「そんな……望むならアーサーと会えるようにするから」
「そういう話ではありません。私はあの子の母であることを放棄する気はありません」
「それじゃあ俺はキャロルと結婚できないじゃないかっ」
「当たり前だろうが、この愚か者が!」
ファインズ子爵の雷が落ち、マーヴィンは縮み上がった。
「男爵令嬢風情に籠絡されおって。今までお前を支え、長男まで産んでくれたのは誰だ?それをあっさり捨ててみろ。お前は明日から非道な男として、社交界中で後ろ指を指されるだろうよ」
「まじめな男だと見込んでいたのに……。よくも私の娘をここまで侮辱してくれたな」
「そうよ。ビアンカが可哀想だわ!」
双方の両親から口々に責められたマーヴィンは「両親を巻き込むなんて」と呟き、恨めしそうな顔で私を見る。
離縁を回避するためなら、親だろうが義親だろうが使うわよ。
「離縁はしませんが、キャロル様を愛妾としてお迎えすることは認めますわ」
「いや、それは……彼女が納得するとは……」
マーヴィンが狼狽え出した。
やはりね。いずれ子爵夫人にしてやるとかなんとか、愛人へ甘言を囁いていたに違いない。思い通りになんてさせないわよ。
「文句を言えた立場か?正妻のビアンカがここまで譲歩してくれているのだぞ」
「でも、愛する女性を日陰の身にするなんて」
よくもまあ、そんなことをぬけぬけと言えるものね。
「あら。もし私が離縁を受け入れたとして、私がこれから舐めるであろう辛酸と日陰の身の、どちらが辛いのでしょうね?」
「そ、それは……」と夫が言い淀む。自分の勝手な行動が私にどれだけ不利益を被せることになるのか、ようやく理解したらしい。
これ以上ゴネるのは得策ではないと考えたのだろう。マーヴィンは渋々といった様子で「分かった。愛妾ならば認めてくれるんだな」と譲歩の姿勢を見せる。
「ええ。ただし、彼女を迎えるに当たって条件がありますわ」
私は取り出した書面を読み上げた。
キャロルは本邸には立ち入らず、別邸で生活すること。
公式の場には私を同伴すること。私的な場ではキャロルを伴っても構わない。
ファインズ子爵家の後継ぎはアーサーとすること。
「後継ぎがアーサーとはどういうことだ?ファインズ子爵の次期当主は俺だろう!?」
「お前なんぞを当主にしたら、そのキャロルとかいう女が好き勝手するかもしれんからな。次の当主はアーサーだ。あの子が成人するまで、私が責任を持って監督する」
「しかし、貴族は長子相続が基本で」
「後継ぎに著しい問題がある場合に限り、孫あるいは次子の相続が認められるはずだ」
著しい問題。それは長男が犯罪を犯す、あるいは重病に掛かるなど、当主の実務を行えないと判断される場合だ。
浮気は貴族法で禁じられてはいないので犯罪ではない。しかし現ファインズ子爵が実務に問題ありと判断したのなら、王宮側も嫡男のすげ替えを認めるだろう。
「俺は次期当主としてきちんと勤めていました!執務も、社交も」
「本当にそうか?最近は慈善だと抜かしてほとんど家にいなかったではないか。その間、ビアンカが手伝ってくれていたのだぞ。どうせお前は知らなかったのだろうがな」
「ビアンカが……?」
確かに、以前の彼は執務に忠実で熱心だった。だけどキャロルと会ってからというもの、夫は彼女との逢瀬に溺れて不在がち。ぼやく義父を見兼ねて、私が執務を手伝っていたのだ。
「マーヴィン。万が一俺に何かあったときは、アーサーが成人するまでお前が子爵代理を勤めろ。ただし、執務の決定権はビアンカに与える」
夫の不貞を知った私は義父を説得し、夫が担当していた執務を全て私へと移行してもらった。マーヴィンがいなくても、家中に何の問題もないと示すために。
義母も全面同意してくれている。孫を溺愛する彼らは、夫を見限ったのだ。
「お前の分の予算は今まで通りの額を与える。働かずとも金が貰えるとは羨ましい身分だ。許してくれたビアンカに感謝するんだな」
「そんな……それじゃ俺とキャロルは一生、中途半端な立場じゃないか」
「いいじゃありませんか。これからは誰にも咎められることなく、二人で過ごせるのですよ?真実の愛で結ばれた相手ですもの。彼女だってきっと受け入れて下さいますわ」
◇ ◇ ◇
「そうかい、お嬢ちゃんの子がもう成人かい。私も年を取るわけだ」
以前とちっとも変わらない姿の魔女が、目を細める。
「魔女様は全然変わらないように見えるわ。お幾つなの?」
「おやおや、女性に歳を聞くもんじゃないよ」
「あら、これは失礼しました」
私は出されたお茶に口を付けてふふっと笑った。
ここはエフェの森にある魔女様の家だ。森へ入って「魔女様に会わせて下さい」と叫んだら、目の前に家が現れた。先ほどまで何もなかったのに、不思議だわ。
「それにしても……これを返して本当にいいのかい」
「ええ。もう必要なくなったから」
私がここを訪れた理由。それは、時戻りの時計を魔女様に返すためだ。
アーサーは成人し、無事にファインズ子爵家を継いだ。気立ての良い妻を娶り、夫婦仲も良好だ。
マーヴィンはあれから数年後にキャロルと別れた。最初こそ別邸で人目も憚らずいちゃいちゃしていたが、しばらくすると彼女は生活に不安を覚え始めたらしい。
いくら夫の寵を得ているとはいえ、正妻はあくまで私。妾だから子供が出来たとしても本邸に迎えられることはない。彼が子爵家の実権を握るようになればと思っていたらしいが、それも叶えられないと知って「話が違う!」と騒いだそうだ。
たびたびヒステリーを起こすようになったキャロルの姿を見て、夫は幻滅したのだろう。結局いくばくかの慰謝料を支払って彼女を実家へ戻した。
納得して妾の立場になったはずなのにね。二人とも恋に溺れて先が見えてなかったんだろう。
別邸を引き払って本邸に戻ってきたマーヴィンは私へ擦り寄ってきた。
鬱陶しいったらなかったわ。予算はきちんと与えられているんだから、好きなだけ愛人でも何でも作ればいいのに。
閨の相手をする気もないため、私は寝室に鍵を掛けている。
義両親は勿論、使用人たちも夫に対する態度は冷たい。家に居場所も無く、彼は小さくなって生活している。
これでも一応、マーヴィンに感謝はしているのよ?
だって、彼は私にとっての真実の愛――息子に会わせてくれたんだもの。
「手元にこれがあったら、また何かの拍子に使いたくなってしまうかもしれないわ。そうしたら、私とアーサーが今まで過ごしてきた時間が消えてしまうでしょう?それは嫌なの」
「そうかい。良い人生を歩んできたんだね」
「ええ、おかげさまで!」
アーサーが当主を問題なく務められることを確認したら、別邸で隠居するつもりだ。若夫婦の邪魔になりたくないもの。
隠居したら何か趣味を見つけようかしら。ゆっくり旅行を楽しむのもいいわね。
『真実の愛』に翻弄されてばかりだったけれど、三度目の人生は私なりに幸せだった。
だから、今なら胸を張って言える。
真実の愛も、悪くないわね。