第五十五話 しゃーない
早恵は夜空へと伸ばした右手の先を見つめていた。多分、見つめているのは夜空でも花火でも星でもなくてもっと遠い何か、きっと違う何かだ。
「あの試合もね、観戦してたんだよ。優人がね、高校最後の試合だから観に来てくれって、お母さんと一緒に来てくれって」
あの試合、と言われただけで今でも瞬時にあの時の光景が頭を過る。
ボクは早恵の表情を見ていたが、早恵は相変わらず遠い何かを見つめていた。
「フィールドで走ってる優人の表情が見たことないぐらい輝いていて、話に聞いてた洸も同じくらい輝いていて。ああ、羨ましいなって」
「羨ましい?」
「私ね、スポーツとかあんまりやってこなかったから、二人が……というかフィールドに立つ両校の選手達が凄く輝いて見えて、いいなぁ青春だなぁって」
ほら、あの花火みたいにさ。早恵が続けてそう言うと、夜空に大きく花火が打ち上がった。夜空へと昇り、弾けて大輪を咲かせ、やがて消える。それは確かに青春の例えに相応しい輝きと言える。
美しくて、儚くて。
「……洸が決勝点を決めて、観客席は揺れていたの。勝利を喜ぶ声と敗北を悲しむ声で。それは本当に凄くて、二人が少し遠い存在に感じちゃうぐらいで……」
そこまで言って、早恵は一呼吸置いた。そこに一呼吸置く意味をボクは感じ取っている。
あの時と同じように、一瞬の空白が生まれる。
「競技場が揺れる様なそんな歓声の中心で、優人が倒れた。私はもちろん、他の観客も事態が把握できずにいてすぐに歓声は止んだ」
優人の足が折れたのを把握したボクはすぐに優人に声をかけた。優人は何も言わず、何の言葉も発さずにただ右足を両手で抑えていた。ボクのチームメイト、優人のチームメイトが次第に事態に気づきはじめた。
認識、理解、把握、そういったものが波の様に伝播していく。
最後に伝わったのは、観客席だろう。歓声に揺れていた競技場は、どよめきに揺れ始めていた。
その頃にはすでに優人はタンカーで運ばれていて、茫然と立ち尽くしたままだったボクはチームメイトに引っ張られてフィールドの外へと連れていかれようとしていた。
「病室であった優人は、試合での輝きも、いつもの明るさも失ってしまっていて、見繕ったみたいな顔で無理矢理微笑んでた」
早恵の声が少し震える。あの時の優人の表情は当事者のボクにはとても辛いものだった。姉である早恵にとっても、辛いものだったはずだ。
「泣いてるお母さんに気を使ってね、しゃーないしゃーないサッカーの試合にはつきもんなんやて、ってそればっかり繰り返して。でもそれは、お母さんや私に気を使った言葉だけじゃなくて優人自身に言い聞かしてる言葉なんだってそう思ったの」
高校生としてのサッカーは去年の夏で終わった。しかし、サッカーはまだまだ続けていけるはずだ。大学生になっても、社会人になっても、プロだとしても、アマチュアだとしても。
優人はボクに対しても、しゃーない、とだけ言ってくれた。ボクに、優人自身に、言い聞かす様にしゃーないとだけ言っていた。それは優人らしい前向きな言葉で、だけどボクは前向きに受け取れなかった。
「一週間ぐらいで色んなお見舞いが来てくれててね、優人って人気あるんだなぁって思った。高校の女の子達とかも来てたんだよ。優人は相変わらず無理して微笑むから女の子達が大泣きしちゃって大変で」
女の子を泣かすなんて姉としては微笑ましいやら情けないやら、と少し笑う早恵。優人との連絡の中には女子の話なんて無かったので少し意外で、でも納得のいく話だった。優人は小学生時代から女子に人気があったからだ。
「そんな中、洸のご両親がお見舞いにいらっしゃったの。お見舞いというより、謝罪と報告って感じだったけど」
「謝罪と報告?」
両親が優人の見舞いに行ったなどと聞いたことが無かった。ましてや、あの時から優人の事もサッカーの事も父親が何かを言ってきたことは無かった。ただ自棄になったボクを怒鳴ったぐらいだ。それも何時もなら手が出てもおかしくないのに、怒鳴るだけだった。
「優人の骨折への謝罪と、洸がサッカーを辞めたという報告。ご両親共ずっと謝りっぱなしで、お母さんが説得する様に無理矢理帰ってもらったの。謝られる度に優人が辛くなるんじゃないかって。優人は……洸がサッカーを辞めた事がショックだったみたいで暫く喋らなくなった」