第五十二話 告白
あの日――早恵が昔の彼氏にフラれた日、あの時もこうして早恵は微笑んでいた。
涙を流して肩を震わした早恵は、慰めようと声をかけるボクの腕を掴んで無理やり笑みを浮かべて、大丈夫、と絞り出した様な小さな声でそう繰り返していた。
その姿が、その言葉通りで無いことはそれ以上言葉を付け足さなくてもわかった。早恵が強がっているということを強く感じた。
今も、それを感じている。
早恵が一歩近寄ってきた距離を、一歩離れようとしていた。
ボクは慌てて早恵の肩を掴んで、引き寄せる様にして抱きしめた。
今離れてしまったなら、もう二度と近づけない。
「ちょっ……」
「話、聞いてくれるんだろ?」
ボクは早恵の声を遮った。
今度はボクが想いを伝える番だ。
早恵の返事は無かったが、早恵が身体をボクに委ねてくれたのがわかった。
左肩に早恵の吐息が当たる。
震える肩を止めたくて、強く抱きしめた。
「ボクも正直予感していたんだ、こうなってしまうのを……いや、予感じゃなくて自信が無かったんだ。ボクが早恵の横に居ていられる自信が」
早恵の横に居ていられる自信、早恵を守っていられる自信、早恵に愛され続けられる自信。
自信が無くて怖くなって、自信が無くて弱くなって、自信が無くて自棄になって。
別れを告げて、楽になりたかった。
別れを告げれば、楽になれると思った。
傷ついたって、傷つけたって、楽になれるならそれで良かった。
そうすれば震えは止まると思った。
怖かった。
痛かった。
嫌だった。
そうやって振り絞って出した言葉は、逃げ足だった。
「自信が無くて逃げた先は、空っぽだった」
真っ黒な暗闇の世界でも、真っ白な光の世界でも、そんな非現実的な世界ではなくて、全てがそこにあるのにボクだけが遠ざかるボクが閉ざした世界。
何も掴めなくて、何もかもに無気力で。
痛かった。
嫌だった。
居なかった。
「ボクの中に、ずっと真ん中に居た早恵が、居なかった。それがどんなに大事な事なのか、それがどんなに大切な事なのか、失ってから気づいた」
うん、と小さく早恵は言葉を返した。
腕の中にある早恵の身体、震えが小さくなっていく。
「一週間、ボクは早恵を失った事を受け入れようとした。頭にすぐに甦るあの日の事を飲み込もうとした。だけど、そんなこと無理だった」
いつまでも消えずに繰り返していた、ボクの言葉、早恵の返事。
いつまでも消えずに残り続ける傷に、ボクは向かい合えずにいた。
「受け入れれるわけがない、飲み込めるわけがない」
立って、闘いなさい。
樹下の言葉にボクは自分の本当の気持ちと向かい合えた。
傷つけて傷ついて、そうして得た逃げ足を前に進める様に変えた。
「ボクは早恵が好きだ。ボクは早恵を守りたい。ボクは早恵を愛してる」
思いつく限りの言葉を尽くす様に、想いをはきだした。
そうしてボクは、あの日、早恵の涙が止めたくて早恵を守りたくて口にした言葉を思い出した。
早恵自身何度となく口にしていた言葉。
自信が無くて、勇気が無くて、もう一度自分の言葉として口にできなかった言葉。
「世界中を敵に回しても、ボクは早恵を愛している」
ボクに身体を預けていた早恵が顔を上げた。
その表情は驚きに満ちていて、次第に緩やかに笑みへと変わっていく。
「今その言葉は、卑怯だよ」
「卑怯?」
「だって、今、私の敵は洸君じゃない?」
涙声混じりに早恵は問う。
「そうだね。だけど、だからこそボクはここにいるんだ。お世辞にも勝ったなんて言えやしない、ここに来れる様に引っ張ってもらったから」
優人の思い、樹下の思い、そして、早恵の想い。
引っ張ってもらってやっと立てて、引っ張ってもらってやっと闘えて。
「早恵を泣かすボクと、ボクは立ち向かえた。そして、これからも立ち向かうんだよ。もう早恵を泣かさないように」
もう大事なモノを失わないように。
ボクはボクの弱さと立ち向かう。
「……ねぇ、もう一回言ってよ。今の言葉」
ボクの胸元にあった早恵の手に力が入るのを感じた。
ボクは、うん、とだけ言葉を返す。
「世界中を敵に回しても」
「世界中を敵に回しても」
ボクの言葉の後に、口調を真似して早恵が続いた。
「ボクは早恵を」
「私は洸を」
強がりじゃなく優しく微笑む早恵の頬には、もう涙は流れていなかった。
「愛している」
「愛している」
そして、ボクらは。
秘めてた言葉を交わして。
揺れていた想いを交わして。
互いを求めて唇を交わした。