第四十一話 ふんぬーっ
もう、とふてくされながら樹下は椅子に座り直した。
「先生は笑いにおける定番の流れとかベタとかを、蔑ろにし過ぎですっ」
ビシッ、とかそういう効果音が聞こえてきそうな程左手の人差し指をボクの眼前に突きつける樹下。右手は樹下自身の眼前で何やら変な動きをしている。
人差し指と親指で何かを挟む様に上下に揺らして……。
ボクの思い違いでなければ、眼鏡の位置を直している仕草の様だ。
もちろん、樹下は眼鏡をかけて、いない。何故かここにきてメガネっ娘を偽装しようとしている。
一体、何の為に?
「ここは先生の今後のツッコミ向上の為に、もう一度やり直したいと思います。いいですよね?」
樹下の右手の人差し指と親指が上に動くメガネっ娘が威圧的にする行為を表現しているらしい。
もちろん、そこには眼鏡は無く、間違ってもボクには眼鏡があるように見えるなんて事も無い。
だが、しかし、まぁ。
「わかったよ、やり直せばいいんだろ?」
付き合ってやるのも悪くはない。
偽装メガネっ娘の威圧に負けたわけでも、ツッコミを向上したいわけでもない。
今は、樹下に付き合ってやる時間だからだ。
僅かににっこりと微笑み樹下は、じゃあ行きますよ、と言った。
言った瞬間に右手が眼前から動き始めたのを、ボクは見逃さなかった。
「これはシンちゃんの分!」
バチンッ、という音が耳に聞こえてくる前にボクは樹下の右腕をしっかりと掴んだ。
「待て待て待て待て。何処からやり直す気だ、君は」
「さ、最初からですよ。何事も、ふぬぅー、最初が肝心ですからねぇっ。ふぬぅぅー」
言いながら樹下は右腕に物凄い力を入れてくる。掴んだボクの左手ごと、ボクをひっぱたく気だ。まるで理科の勉強を始めてしまった状態みたいに、呼吸は荒く、鼻息は酷い。
「これ絶対、チョップ分を返したいだけだろ」
「ぎくっ」
「本心をつかれて、ぎくっ、って言っちゃう人と初めて会ったよ」
そんな人物が本当にいたのなら、絶対嘘なんてつけないのだろうなぁ。もしその人が虚言癖の持ち主だったりしたら、何か会話する度に、ぎくっ、ぎくっ、とうるさいのだろうなぁ。
と、ボクの思考が見事に脱線してしまった間も樹下が力を弛める事は無かった。
チョップの恨み、恐るべし。
「そして、これが!……ふんぬーっ」
樹下が言いきる前に素早く左手の動きを止める。手が上がる前に止めるなんて、今のボクの洞察力は素晴らしい。
と、自画自賛している間も樹下の両腕の力は弛む事はない。
「何を強引に次に進めようとしてるんだよ!? せっかくの感動的なシーンだったのに、台無しじゃないかっ」
「それとこれとは話は別! よそはよそ、うちはうち!」
何の事なのかさっぱりわからないが、樹下は鼻息荒くそう言い返してきた。気を抜けば両手がボクの頬を襲う。
「待て待て待て待て。確か、暴力変態ってとこまでの流れのやり直しだったよな。それじゃあ、ボクはまた君に二回程脳天チョップをする事になるぞ」
忠告のつもりでボクは言ったが、樹下はそんな気遣いを嘲笑うように口を歪める。何だか悪党の顔になりきっている。
「そんなシーン、オールカットです。最後は私が、この私が、先生に脳天チョップしてお終いです」
「それじゃあ、やり直しにならないじゃないか!」
「同じ事を繰り返して、何が面白いんですか!?」
「君が、定番の流れが大事、とか言い出したんだろうが!」
押しつ押されつの闘いは続く。意外と本気でやらないといけない状態だ。
ボクの腕っぷしが悪いのか、樹下の腕っぷしが良いのか。
「先生。人ってね、成長するんですよ。考え方だって変わっていくんです。ふんぬぅー」
生徒の瞬時の成長を喜んでやるのが教師としての務めか、考え方にブレが生じ過ぎる生徒を正しく導いてやるのが教師としての務めか。
鼻息が顔にかかりそうになりながら考えるに、ボクは後者を選ぶ事にした。樹下には出来るだけまっすぐに成長していってほしい。
何より、もうビンタはごめんだ。
ふんぬぅー、だとか、ふぬらぁぁ、だとか最早何の気合いなのかわからない雄叫びを上げながらボクと樹下の取っ組み合いは続いている。
ちらりと目線を斜め上へとずらし時計を見ると、時針は3を過ぎていた。
何だかんだで樹下家へはいつも通り二時過ぎには到着していたので、かれこれ一時間は過ぎていた。一時間経ってやっている事と言えば、取っ組み合いである。
樹下桜音己の呼び名に掛けて、猫のいがみ合い、と言えば上手い感じだろうか?
実際は、プロレスラーの力比べみたいになっている。樹下は眉間に皺を寄せ、力を込めたからか顔が紅潮してきている。
なるほど、これがブッチャー面か。




