第三十二話 高校三年生の夏
早恵との出逢いを話すとして、ボクとしては一年前の夏の話と向き合わなければならない。
去年の夏、高校三年生の夏。
高校サッカー全国一を決める場所、インターハイのフィールドにボクは立っていた。
幼なじみの彼と誓いあった、決勝戦。
一進一退の試合は、2―2の同点のまま、延長戦後半ロスタイムへ。
長く遠い道程だったボクと彼の誓いが、PKによって決するなんて納得がいかなくてボクらはロスタイムを焦った。
緑一面の芝の上を走り、ボールを追いかけ高く跳んだ。
FWのボクはセンタリングで上げられたボールを目指して跳んだ。
守るために競り合う彼より高く、ボールだけを見つめ高く高く。
ボクの頭がボールを叩き、ボールはゴールネットを揺らした。
ボクはずっとボールの軌跡を目で追っていた。
応援に来てくれた学校の生徒やチームメイトの家族の歓声で、場内が揺れていた。
チームメイトの声も聞こえる。
全てがスローに流れて心地よい感動の中、ボクは着地に注意を払わなかった。
倒れるボク、倒れる彼。
鈍い音が鳴る。
歓声に紛れるように、鈍い音が鳴る。
倒れた彼の右足が、曲がっていた。
そうして、ボクはサッカーを止めた。
幼き頃から誓いあった夢をボクが彼から奪ってしまったのだ。
ボクにサッカーを続ける権利は無い。
サッカーを止める、という事はボクも夢を棄てるという事だったし、いつの間にかそれが全てになっていたボクにとって失った物は多かったし、大きかった。
無気力状態が続いた。
樹下桜音己ではないが、引きこもりたいとも思った。
だけど、そうする事で何も救われないし、何も許されない。
だから、何をすればいいのかわからなくなっていた。
高校三年生の夏はそうやって過ぎ去ろうとしていた。
ある日、これから先を見失ったと思っていたボクに、両親が家庭教師を呼んだ。
勉強なんてする気は起こらないし、大学受験について考えている気分じゃなかった。
何処の大学に行きたいとかも浮かびもしなかった。
家庭教師としてやってきた早恵は、そんなボクにゆっくりと授業を開始した。
与えられた教材を無言でこなすだけのボクに、それでも早恵は丁寧に話しかけながら授業を進めてくれた。
「優しい人なんですね、先生とは大違いです。生徒に苦手な教科を押しつけるスパルタな先生とは」
ボクの話に、うんともすんとも相槌を打ってこなかった樹下が久々に言葉を挟んできた。しかも、なかなか失礼な事を言う。
「押しつける、なんてしてないし、出産気味な君の介護までちゃんとしてるじゃないか」
その点については、早恵には無い優しさがボクにはあると思う。というか、苦手教科の答えを産み出す為にラマーズ法を始める生徒に心優しく接してくれる家庭教師なんてそうはいないだろう。アンケートは採ったことはないが。
「まぁ、早恵が優しい、ってのは間違いじゃないよ。彼女があの頃のボクの支えになってくれたのは、確かだからね」
早恵の優しさと授業の面白さに、次第にボクは早恵に支えられているような気になっていった。
すごく不純な理由だけど、彼女といられるならと大学受験に力を入れていった。
「男性って、ナースとか家庭教師とか好きですもんね」
「確かに不純とは言ったが、そういう意味の不純さとは少し違う」
違う、はずだ。いや、自信がないわけではないのだけど。
「出逢いはわかりましたけど、早恵さんと付き合う事になったきっかけって何だったんですか? まさか、まさかのエロ展開!?」
「女性家庭教師がエロにしか繋がらないなんて、君は青春真っ只中の男子生徒か!?」
まぁ本当は、青春過ぎ去った男性諸君も妄想したり期待したりするんだろうけど。
「ある授業の時、早恵が急に泣き出したんだよ。どう声をかけても泣き止まずに、ずっと泣いてしまってね」
「この問題わかんないんです、とか言いながら押し倒そうとしてたのがバレたんじゃないんですか? せっかく立ち直らせた生徒が身体目当てだったなんて気づいたら、そら泣きたくなりますよ」
「君は一度エロから離れなさい」
いつの間にかボクが狼さん扱いになっているんだけど、何故だろう?
猿渡美里からもジゴロな扱いされたし、実はボクから危険な色気かフェロモンが醸し出されているのだろうか。
それとも、彼女らの年齢の女子は歳上の男性に狼的期待感でもあるのだろうか。
期待されてる割には、小馬鹿にされてる感が拭えないが。