第二十四話 再びの猿渡さん
地球温暖化による異常気象で夏の熱気は前倒しされていくと、テレビの天気予報士達に予想されたにも関わらず日に日に連続真夏日を更新し続ける、八月。
程よく冷房の効いた電車から降りて一旦外気に触れてしまうと、汗は止まることを忘れたのか止めどなく噴き出してしまう。
予想が外れた事を悪びれもせず、テレビの中の天気予報士達は熱中症の危険を訴えかけていたのを思い出した。
蝉は暑ければ暑いほど、喧しく生命の音を鳴らす。
蝉の声が死ぬ間際に聴こえていた。
なんて事にはなりたくないので、しっかりと熱中症対策に持っているスポーツドリンクのペットボトルも、もうぬるいを通り越して熱い。
ボクは、ハンドタオルを鞄から取り出し額から流れる汗を拭った。
家庭教師という名目上、正装しなければと、白い半袖のカッターシャツに肌着を着用して来ているが、脱ぎ捨ててタンクトップに着替えたかった。
せめて半袖のポロシャツにしておけば良かったと後悔してる間に、もう何度目かの訪問となる樹下桜音己の住むマンションに到達し、一階のロビーの玄関口の自動ドアを開けると、確か二度目となる少女と出逢った。
相変わらずの健康的な爽やかさを持つ野球少女。
猿渡美里だ。
「お久しぶりです、アキタ先生」
「うん、もうそれ誰だよって感じなんだけど。本当に名前を間違われたのが久しぶりだから悪い気はしないよ」
ボクの言葉で猿渡美里は間違いを指摘された事に恐縮しつつ、ボクのにこやかさに困惑していた。
いやぁ、本当に単なる間違いは久しぶりでなんだか新鮮だった。
「改めて、こんにちは猿渡美里さん。新木洸です」
「ああすいません、アラキ先生。また失礼な事を」
かしこまり深々と頭を下げる猿渡美里。
礼儀にうるさい家の躾か、体育会系の野球部による躾か。
まぁ、そんなに躾られているなら名前は間違えないで頂きたいが。
「今日はまた樹下さんに会いに来たのかい?」
「はい。また会えませんでしたが……」
かれこれ一ヶ月近く樹下桜音己の家庭教師をしているが、彼女は変わらず引きこもりのままだった。
まぁ、引きこもりと言っても微妙なスタンスなんだが。
家から出ることはないけど別に内に籠ってしまってるわけでもないし、ボクとも相変わらずの突飛な漫才を繰り広げている。
この一ヶ月近くでわかった事。
樹下桜音己が外に出ようとしないのは、この野球少女猿渡美里と水泳少年犬飼英雄の二人の幼なじみと会わない為だという事。
「アラキ先生はネコから何か聞いてませんか?」
先生と呼ばれるのはどうもしっくりと来ない。樹下桜音己の家庭教師ではあるが、猿渡美里の家庭教師ではないし、ましてや学校の教師でもない。
猿渡美里からしたらボクは冴えない大学生でしかないはずだ。いや、大学生ということを伝えていないから冴えないお兄さんってところか。
とにかく、彼女に先生と呼ばれるのはしっくりと来ない。
「その、先生っての止めてもらえるかな?」
「……え、あ、はい。……わかりました。……アラキ」
猿渡美里は何故か頬を赤らめ、身をよじる様にして身体を揺らしながらボクの名前を呼び捨てにした。
「うん、もしかしたらボクの言い方が悪かったかもしれないが、さん付けぐらいはしてくれないかな? ちょっと関係性が密接になりすぎてる気がするから」
健康的に日焼けた褐色の肌からでも見てとれる程頬を紅潮させた猿渡美里は、何故か上目遣いでボクを見ていた。
彼女の身長がボクよりも顔一つ分低いからであるのはもちろんだが、それでも何だか心配になって彼女の目の前で二三度、手を振ってみた。
はぅ、と呟き何か変な衝撃でも食らったかの様に目をぱちくりと開いては閉じて、猿渡美里は首を横に横暴に振った後、下を向いた。
何だか樹下桜音己とは違ったタイプの忙しい娘だな。
「わ、私てっきり親密な関係を求められてるのかと、お、思いまして、その……」
余程恥ずかしかったのか、吃りながら言う猿渡美里の耳が紅潮していく。
健康的に日焼けした耳は小ぶりで何だか可愛い。耳まで綺麗に日焼けってするもんなんだなぁ。
それにしても、とんだ勘違い娘だ。
出会って二度目でいきなり親密な関係を迫るなんて、どれだけジゴロな男に見られているのだろうかボクは。
自慢じゃなく皮肉だが、ボクは平凡で素っ気なく味気ない男にしか見えないし、最近流行りの草食系男子の象徴みたいな見た目だ。
まぁ、雑誌に載る草食系男子程髪の毛や服などのファッションにこだわりが無いので、象徴だなんて本当はおこがましいのだけど。
「関係の改善は求めているけど、親密さは求めちゃいないよ」
これ以上の誤解を生まない為にもハッキリと訂正はしておこう。