第十九話 明日の予定、あとの予定
うまくボケれなかった事がよっぽど悔しかったのか、樹下桜音己は静かになり自主的に勉強を再開した。
相変わらず苦手な理科だったが、出産するほどの唸り声は上げず、僅かに呻くだけだった。まぁ、それも怖いっちゃ怖いんだけど。
何でもかんでも否定しても、彼女にとってやりにくいだけだろうから、今日のところは呻くぐらいはそのままにしておこう。
ちなみに、う~ん、う~ん、と言うのは“唸る”なんだが、“呻く”となると、う、うう、ううう、となる。悩むというより、怯えてるようにも見える。
理科って怖い教科なんだな。
そうこうして、怯える樹下桜音己をなだめながら、家庭教師らしく勉強を教えていたら、あっという間に時間は過ぎた。
「お、終わったぁ~」
樹下は、両手を高く突き上げ勝利のポーズを取る。完走したマラソン選手のようだ。
「やはり理科は苦手なんだな」
「人間誰しも苦手な物は存在します」
「素直な言い回しはできないのかよ。苦手結構、その為の家庭教師、その為のボクだ」
「先生は、話相手で遊び相手なだけのはずですが?」
「もうカウンセラーか、ベビーシッター呼べよ」
時計を見ると、時針が5を僅かに過ぎようとしていた。昨日同様、窓から見ても外は夕陽がかっているがまだ明るい。
苦手科目ということで、休憩を挟んだとはいえ二時間かかったのは、予想した通りであり想定外だった。これからの方針が少し決まった気がする。
「それじゃあ、ボクは今日はこれで帰るよ」
「お疲れ様です」
理科によっぽど疲れたのか、樹下桜音己は机に伏して返事をした。
今日は引き留めないんだな。
「明日は、英語と社会やるからね」
「なるほど、予告されるとテンション落ちますね」
机に伏したまま返事する、樹下。これ以上、落ちるとするなら床に倒れてしまうのだろうか?
「国語か数学を入れてもらえるとテンションが上がります」
体勢はそのままに、顔だけこちらを向けて樹下はそう言った。目に活気があるので、余程国語と数学が好きなのだろう。
「じゃあ、明日は社会と数学に切り換えよう」
わーい、と少し棒読み気味だが樹下は両手を上げて喜んだ。
体勢はもちろんそのままで、だ。
勉強の科目で喜んだ事なんてあっただろうか。
ボクの好きな授業は、自習、だ。
そう黒板に教師が書いたもんなら、ボクはすぐに寝る準備を始めたもんだ。
机に伏したままの樹下をそのままに、ボクは部屋をあとにした。
昨日と同じように樹下母に廊下で出会い、一連の挨拶。
二、三度互いに頭を下げあってから、ようやく樹下家をあとにできた。
樹下母との一連の挨拶は、これから先もずっとあの調子で繰り返されるのだろうか?
なんだか、肩が凝る。
昨日の過ちを犯さないためにも、エレベーターの前に着いたら直ぐ様ボタンを押した。
相変わらず、直ぐにエレベーターが着いた。利用客が少ないのだろうか。
エレベーターに乗って一階へ。
そういえば、まだ一度もこのマンションのエレベーターで相乗りしてないな。
運がいいのか、このマンション思ったより住人が少ないのか。
少なくとも昨日出会ったオバサンは住んでいるんだろうが。
古いマンションではないのだけど、やはり一階に住人の許可が無いと入れない防犯システムとかが無いのが、人気が無い要因か。
人気が無いとか、また勝手な推理をしてるな。
迷探偵ぶりは、今日これでもかと発揮したばかりだというのに。勝手な推測も詮索もしない方が身のためだ。
なんだか、秘密結社みたいな言葉が浮かんだ。
実は、結構急いでいる。
今日は、この後会社のまだ会ったことも無い方々が新人歓迎会なるものを開いてくれるらしく、予定は七時からだった。
また事務所に寄って、使えそうな教材を集めたかったので、少しばかり時間が押し迫ってる感じだ。
本当は、会ったことも無い人達と飲めないお酒の場にいるなんて御免被りたいのだが、早恵に出てこいと何度もメールを送られたので出ないわけにも行かなかった。
夏休みだけかもう少しだけの短期予定のアルバイトなので、他の家庭教師な方々と出会う必要性は無いのだけど。
夕焼けがだいぶと街をオレンジに染めて、風が僅かに涼しげに感じても、やはり夏であることに変わりはなく日射しも気温も簡単に汗をかくほど暑い。
走ると汗を大量にかきそうだったので、ボクは焦る気持ちを抑えつつ、走らないように早足で駅に向かった。
やはり、替えのシャツを持ってきておくべきだっただろうか。
走れない事が、もどかしかった。




