十月四日 午後
「やっぱり、神様は守ってくれないのかー」
表彰式の後、崇史は少し恨めしそうにつぶやいた。結局、神守中は虎太朗君一人にやられた形だ。
「いや、守ってくれるんだよ。でも、神様は一生懸命にやったやつだけを守ってくれるんだろうな。…俺はこの数か月、真面目に剣道やってこなかったから、守ってもらえるわけなんてないよ」
遼は晴れ晴れとした表情で言い切った。
「栞、崇史。遅くなったけど、俺、明日から剣道部に入部する」
「本当か。やったぜー」
「何言ってんのよ、遼。遼はもう立派な神守中剣道部員でしょ」
私はまだ外し終えていない遼の垂れネームを指さして微笑む。崇史も遼も黙って笑顔を見せる。
「ようやく決心がついたようね」
白石先生もにっこり笑顔を見せる。嬉しそうだ。
「よろしくお願いします」
スッキリした顔で遼が頭を下げる。
「じゃあ、火曜日の朝練から休まないようにね。そうそう、それから月曜日の朝礼で表彰があるからね。名前呼ばれて体育館の舞台に上がるからね。しっかりね。それから事故に気を付けて帰るのよ」
白石先生はすました顔で遼に今後の予定を告げると、後ろで一つに束ねた黒髪を左右に揺らしながら帰っていく。
「崇史、栞、ちょっと時間はあるかい?」
「ああ、もちろん」
私もうなずく。
「聞いてくれるかい?俺が入部を迷ってた理由を」
「遼さえよければ。それにこれから弁当食べるんだから」
「持ってきたのか?」
「あれ?連絡しなかったっけ?」
私も弁当箱を見せながら聞き返す。剣道部ではこういう大会の時には、弁当を持ってくるのが当たり前なので、伝えることを忘れていた。
「聞いてないよ」
「じゃあ、私、多めに持ってきてるから半分あげるよ。一緒に食べよ」
「いや、いいよ」
「栞はかなりの食いしん坊だからたくさん持ってきてるんだよ」
崇史の言葉を横目でじろりとにらむ。
「遠慮しなくてもいいよ。同じ部の仲間なんだから」
遼は私の差し出すおにぎりを受け取ると、申し訳なさそうな顔を見せる。
「仲間か…」
おにぎりを一口頬張った遼はゆっくりと話し始める。
「実はさ、…前の学校で夏休み前の中総体の地区大会に出場したんだよ」
「えっ、すごいじゃない。どこの大会?レベルは?それでけっ…か…」
また私の悪い癖が出てしまった。隣で崇史が白い目で睨んでいる。遼にしゃべらせろという合図だ。
「ごめん。続けて」
私は口をつぐむ。遼はまた重い口を開く。
「今年は実力の拮抗しているメンバーが揃っていたんだよ。三年生と俺で七人。その中で、誰が選手に選ばれるかっていう話だった。俺は二年生だったし、転校も決まっていたから、上の大会に上がっても出場できないことが分かってたから、先輩たちに出てもらえればいいって思ってたんだけどな…」
崇史と私は黙って聞いている。白石先生から聞いた話にも少し間違いがあったようだ。遼はまたおにぎりを口に運ぶ。何度か咀嚼すると再び話し始める。
「そんな中、キャプテンが実力順でメンバーを決めよう。勝てるメンバー編成で行こう。そして地区大会を突破して、上の大会を目指そうって提案したんだ」
「まあ、当たり前の考え方だな。それまでは違ったのかい?」
ここで初めて崇史が自分の考えを吐き出す。
「ああ。まあ基本は上の学年の人から順番にだな。よほどの差がない限りは…。俺がいた間じゃあ一度もなかったな。だから当然五人の先輩が出るもんだと思ってた」
「それが、遼にチャンスが回って来たってことね」
私の問いに遼は水筒のお茶を飲みながらうなずく。
「他の何人かの先輩も自分より俺の方が強いから、その方がいいって言いだしたんだ。俺はこの夏で転校することも伝えたんだけど…。それでもいいからって、頭下げられて…。」
「先生がメンバー決めたりしないの?」
私はさっきから疑問に思っていることを尋ねる。
「先生は全くの未経験者で、よくわからんからみんなの自主性に任すっていうスタンスだった。だからみんなで話し合った結論を尊重するって」
「神守じゃあ、考えられないな」
崇史がぼそっと言う。確かにそうだ。白石先生も未経験者でまだ顧問としてのキャリアも少ないけれど、今までの試合の様子や部員と相談したり、練習の時の様子などを考慮したりして、自分で考えて選手を決めている。選手を決めたのは自分だから、勝っても負けても責任は自分が取る。それが顧問・監督としての役割だからとよく話している。
「それで、先輩を追い抜いて試合に出たんだ?」
「うん」
「それで試合の結果はどうだったの?」
「四チームのリーグ戦で一勝一敗一分け。勝者数の差で三位。決勝リーグに行けなかった」
「それで遼は?」
崇史の質問に遼は、ふっと視線を上げる。
「二勝一分け」
「すごいじゃない」
でもその表情は微妙だ。
「その一分けが、入れた本数での差で決勝トーナメントに行ったチームだったんだ。だから俺が勝っていればチームは決勝に行けた」
「それは勝負の運だから仕方ないじゃない」
「俺もそう思ってた。でも…。先輩たちはそう思ってはくれなかった」
「遼に責任があるって、か?ひどいな」
崇史はメガネのレンズを反射させて憤っている。
「特に俺は先鋒だったから、チームの流れを自分たちの方に引き寄せなきゃいけないだろうって」
「確かに先鋒にはその役目があるけど…、でもそれを遼一人に押し付けるのは間違ってるよ!後の四人で三勝すればいいだけじゃん」
私はできるだけ平静を装うが、声が大きくなったのだろう。通りすがりの親子連れがこちらを不思議そうに見ている。昼を回って人出は午前よりも多くなっている。ちょっと恥ずかしいけれど、それよりも遼の気持ちを考えると許せない気持ちの方が強い。
「補欠になった先輩も、こんなことなら自分が出た方がよかった。補欠になった甲斐がなかったなんて言いだしてな…」
「……」
「聞くところによるとその先輩は、上の大会に行った時には俺が引っ越して、自分が選手になって出られればラッキーくらいに思ってたんだって。人は信用しちゃあいけないって、初めて思ったよ」
「そんな…」
私は遼の淋しそうな瞳を見ながら、心中を思いやる。
「それが、お前が神守中で剣道をやるかどうかで迷ってた理由か?」
崇史の問いに、俯いたままうなずく遼。
「じゃあ、何の心配も、迷うこともないじゃないか」
「えっ?」
遼が顔を上げて、崇史の顔を見る。
「大丈夫。俺たちは遼も他のみんなも大切にする。絶対に裏切ったりしない!」
「ホントか?」
「絶対にだ。俺も栞もそんなことは絶対に許さない」
「当然でしょ。白石先生だっているし、うちの部はみんな信用していいよ」
崇史の珍しく力強い言葉に、私も相槌を打つように続ける。
「先輩たちも初めはそう言ってたんだ…でも…」
「確かに何の保証もないけど、これだけは信じてほしい」
「大丈夫。私がこの津島神社で素戔嗚尊に誓うわ!」
私はこの間、遼から聞いた津島神社の御祭神の名前が口をついて出す。その言葉を最後に沈黙の時間が流れる。
「わかった…。そう言われると信用するしかないな。神様はちゃんと見ていてくださるから」
しばらくして遼がにっこりとほほ笑む。頬には涙の流れた後がうっすらと光っている。おそらくここ何か月かの遼の心の中のわだかまりが、ようやく溶け出し、流れ出たのだろう。
遼はデーバッグからタオルを取り出すと、恥ずかしそうに顔を拭う。
「俺さ、崇史や栞に剣道やらないかって誘われた時、とっても嬉しかった。でもすぐにうんと言えなかった。そのうち自分でも意固地になってしまって…。ごめん。本当にごめん」
遼は深々と頭を下げる。
「ううん。そんなことがあったら仕方ないよ。ねえ崇史」
「ああ」
「でも、しつこく何度も誘ってよかったー」
「栞のしつこさは並大抵じゃないからな」
「何よ、それ」
相変らずの崇史の軽口にふくれてみせる。遼が笑っている。
「これから一緒に、いい思いしようね。絶対に県大会に行こうね」
私はお弁当の中のウインナーを遼の前に差し出す。遼は一瞬でそれに嚙みつく
「ああ、遼が入ってくれたら戦力アップだ!」
「ああ。そのためには虎太朗君を負かさないとね」
午後の穏やかな日差しを浴びて、軽やかな気持ちになる。
「あっ」
思い出したように遼が声を上げる。
「どうしたの?」
「今から急いで帰れば、まだ神守の山車は見られるかなあ」
遼が急に真顔で尋ねてくる。
「さあ…」
崇史も私も、毎年試合が終わった後は、遅い弁当を食べ、津島神社の秋祭りの雰囲気を味わってから帰っているので、よく知らないのだ。
「それよりこの津島神社のお参りはしなくていいのか?」
崇史の問いに、遼はすました顔で答える。
「試合の前に、ご挨拶は済ませた。それに御朱印もちゃんといただいてある」
遼はそそくさとデイバッグから御朱印帳を取り出して見せる。
「えっ、ちゃっかりしてる」
「じゃあ俺、帰るわ。神守の山車、見てくるから。栞、ごちそうさま」
防具を肩に背負った遼は、そう言うとそそくさと歩き始める。
遼の後ろ姿の向こうには、少し色あせた朱色の金属製の鳥居と雲一つない青い空が広がっている。
私はさっきの遼の言葉を思い浮かべていた。
―― 神様は一生懸命にやったやつだけを守ってくれるんだろうな。…俺はこの数か月、真面目に剣道やってこなかったから、守ってもらえなかったんだと思う ――
私たちは、いつも神様を意識しているわけではない。でも、いつも、いつも助けてもらおうとは思っていない。自分のことは自分で決めて進んでいきたいと思っているはずだ。でも苦しい時、大変な時、落ち込んだ時には、神様に助けてもらいたい、守ってもらいたいと思うだろう。だからそんな時に神様のお願いをする。でも大切なことは、それから後、それ以上にまずは自分で頑張ってみることではないだろうか。もう一歩足を踏み出してみる、もうちょっともがいてみる。ほんの少し必死になってみる、もう少しだけ努力してみる。今はそんな時代じゃないと言われるかもしれない。でもそんな行動がきっと私達を成長させてくれるのだろう。そうした前向きに努力をした後の成果を『神様が守ってくれた、願いを聞いてくれた』と言うのではないだろうか。
神様が守ってくれるから、一生懸命に頑張っていこう!それが神守中校歌の「神、守ります」っていう歌詞の意味だと私は思う。
「よし、決めた」
「何を」
「剣道部のホームページのタイトルよ」
「お、決まったのか?何にしたんだよ」
私は大きく息を吸うと、大きな声で答えた。
「神、守ります 剣道部」
「どう?」
崇史は右の頬を少し上げるだけで何も言わなかったが、その笑い顔がいいじゃないかと言っている。そして私の少し長くなった前髪を気持ちの良い風が揺らした。