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悪魔に魅入られた娘

作者: 更科 郡



 薄暗い森の中を馬車は走り続けた。中に乗るのは一人の娘。

 「お嬢様、ここいらは道が悪いので、揺れますがすみません」

 御者が馬に鞭を当てながら、中にいる娘に声をかける。

 悪路に馬車がかなり揺れるが、中にいる娘は気にした様子もなく返事をする。

 「ウォルター、急がせてごめんなさいね。薬は早馬に持たせたけれど、どうしてもお母様が心配で」

 「ですがお嬢様…」

 ウォルターと呼ばれた男が、周りを見回しながら声を潜めて言う。

 「かなり遅い時間になりましたし、なによりここは『悪魔の森』ですからね」

 街中のような石畳とは違い、ただでさえけもの道に毛が生えたレベルのでこぼこの道が続く森の中を――ましてやその森は『悪魔の森』と呼ばれる恐ろしい場所なのだ――、馬車の側面につけたカンテラ一つで揺らさずに走行するのは、熟練の御者でも難しい。ましてウォルターは、本来はこの娘の護衛であって御者ではないのだ。

 「私が馬に乗れればもっと簡単だったのにね」

 練習しておけばよかったわ、と呟く声は御者席まで聞こえたはずはなかっただろうに、ウォルターが苦笑いしながら答える。

 「旦那様がミーシャお嬢様に練習させるわけ、ないでしょうに。万一お嬢様が乗馬をしようとして、その練習中に落馬でもしたら俺たち護衛がどんな目にあわされるか」

ミーシャと呼ばれた娘はそれを聞いて、諦めたように首をすくめた。


 本来なら、こんな遅い時間に危険な森を通るのは自殺行為だ。今日は街に泊まり、早朝屋敷に戻るべきだったのだとは思う。けれど、とミーシャは思うのだ。万が一薬が効かなかったら、お母様の命は今日明日が峠。最期の時にお会いできないなんて、悲しすぎる。


 男爵家の一人娘であるミーシャは、田舎だが呑気な気質のこの男爵領のすべてが大好きであった。

勿論その中でも父と母は別格で、ミーシャのすべてだったと思う。その大好きな母が病に倒れたのは半年前。どんな薬も効かず、どんどんやせ細っていく母。見かねた父が伝手を使って、王都の名医と連絡を取った。かつて王宮専属医であったというその医師は、高齢のためこの男爵領まで来てくれることはなかったが、何度も手紙のやり取りの結果、おそらくこの薬なら効くだろうと隣国由来のかなり高価な薬を送ってくれた。しかしながら、母の症状は急激に悪化しており、今日明日をも知れない状況になってしまっており、更に船便で送られてくる予定の薬は、天候の荒れで到着が遅れてしまっていた。このまま到着後に順に荷を解き、配達員が配送を行うのを悠長に待っている余裕はなかった。

 そこで、男爵家の家令が数日前から港町に入り、船便の到着を今か今かと待っていたが、ようやく届きそうだと連絡が入ったのが昨日。手紙には、本来であれば家令の権限で、領主である男爵家に配達される分を優先してもらうように手続きをお願いするつもりであったが、遅れていた船が数艘まとめて到着することになるらしく、すべての船の中身を優先的に探してもらうには、領主である男爵より一筆書かれた委任状があった方がよりスムーズかもしれない、と合わせて記載があった。

 それを聞いて、ミーシャは自分が行くといったのだ。自分は13歳なのでおそらく役には全く立たない。だが、父男爵の名代であるという肩書は、領内でお願いをするときにかなり有効であろう。父は、日一日と悪化していく母についていたいだろうと慮り、せめて自分が出来ることをと考えた結果であった。こうして、護衛を連れて馬車で港町まで一日かけて移動してきた今朝、ちょうど到着した船便に対して領主名代であるとの書類と共に優先的に荷解きの権限を得たのだ。

 王都の名医から送られた薬は、無事手に入った。後はこれを持って帰るだけだが、馬車でまた一日かけてゆっくり持って帰る気はなかった。少しでも早く母に届けたかったのである。本来であれば護衛が一番馬を駆けるのが上手であったが、さすがに護衛はミーシャの傍を離れることを良しとしなかった。当初の予定では、家令にその任をお願いする予定であったのだが、ここ数日慣れぬ海風にあたりながら、荒れた海を眺めて船を待ち続けていた彼はすっかり体調を崩し、治るまで宿で休むこととなった。そこで御者に薬をもって単騎で屋敷に戻るようお願いし、先に帰した。そうして、優先的に荷解きをして広げてしまった荷物がきれいに片付くのを待っていたら、かなり遅い時間となってしまったのである。けれど、さすがに勝手に散らかすだけ散らかして、それを放って帰るのは、領主である男爵家のメンツにかけて許されない。父の評判が下がることは避けたかったミーシャは、その場が収まるのをきちんと領主名代として確認し、領民たちから男爵夫人の快癒を祈られつつ、その場を後にすることとなった。



 ヒヒーン!

 馬の嘶きが聞こえたと思った途端、馬車が大きく揺れ、そのまま横倒しとなった。


 「ウォルター? 大丈夫?」

 馬車の中で、角に肩をぶつけはしたものの大して怪我の無かったミーシャは、暗い中で何も見えないが前にいるはずのウォルターに向かって声をかけた。騒がしい感じはしない。賊に襲われたわけでもないだろう。ならば、純粋に馬が何かに足を取られるなどしたのかもしれない。

 ミーシャは何とか馬車の扉を開け、外へ出た。


 既に『悪魔の森』と呼ばれる入り組んだ道半ばまで入っていたのだろうか、幸いカンテラの炎に問題はないようで、倒れた馬の傍にちょこんと置かれて、その周りだけぼんやりと明るくなっていた。

 …馬が倒れている。ピクリとも動かない。ウォルターはどこ?

 ぐるりと周りを見渡そうとして、急に恐怖で冷汗が流れた。この場所で一人取り残されたら、私はどうなるのだろう?


 「大丈夫?」

 急に声をかけられて、それこそ飛び上がるほど驚いた。

 自分の隣に、いつの間にか長身で妙に見目麗しい若い男性が立っていたのだ。薄暗い灯りの中ではあるが、非常に美しい。けれど、その美しさは、おそらく人間のそれではない。

 ここが『悪魔の森』と呼ばれる場所である理由を思い出し、ミーシャは声が出なかった。


 「御者も馬も、ちょっと止まってもらっているだけで大丈夫だよ。君は怪我とかしていない?」

 優しく声をかけられて、どうすればいいかミーシャは心の中で必死に考えた。


 『悪魔の森』には悪魔が住んでいる。彼はめったに人前には現れないが、気に入ったものを見つけるとふらりとその姿を現す。そして、自分の気に入ったものにはとても親切だが、その親切とは悪魔なりの親切であり、人間とは相いれない。彼に気に入られてはいけないよ。でも彼に嫌われたらもっといけない。彼は、気に入らないものは滅してしまうから…。

 そんな、御伽噺のような言い伝えは本当だったのかと、目の前のおそらく人外の男を見ながら思う。どう答えるのが正解だろう? おそらく何故かは分からないが自分が気に入られたのだとミーシャは瞬時に理解した。


 「だ、大丈夫です」

 震えそうになる自分を叱咤しながら、気丈にミーシャは答える。

 「ご心配頂き、ありがとうございます」

 ついでにお礼も言っておく。何を契機に、男が機嫌を損ねるかはわからないから。


 「礼儀正しいね」

 と男は笑う。綺麗に、本当に作り物のように整った顔で。


 「こんな暗い夜道、どうしてそんなに急いでいたの? 良ければ理由を教えてほしいな。力になれるかもしれない」


 どうしよう。悪魔に何と答えればいい?

 うかつなことを言ってしまっては、としばらく葛藤していたが、やはり母の容体が心配で仕方がないミーシャは、もし薬が間に合わなかったら、あるいは薬が効かなかったら、その時はたとえ悪魔に魂を売っても母を助けてもらえるならお願いしたい、と心を決めた。


 「お母様が心配なのです」

 そういって、ここ半年の出来事を男に説明した。

 「お母様を助けたい?」

 聞かれた言葉に、代償に何を差し出せと言われるのかと思い一瞬躊躇したが、それでもどうしても母を助けたかったミーシャは、コクンと頷いた。その後、頷くだけでは暗くてわからなかったかもと思い、あわてて言葉でも告げた。


 「お母様を助けていただけますか?」


 男はゆっくり腕を上げ自分の肩のあたりで手首を回した。薄暗かった森の中で、男の手首を回した箇所だけが明るくなっていく。そして、その中に寝台で眠る母の姿と、その隣で椅子に座り祈るように寝台に肘と頭をつけている父の姿が浮かび上がった。

 薬は届いたのだろうか? 効いたのだろうか?

 ミーシャは食い入るようにその場面を見続けた。

 母の様子は特段変化しているようには見えない。顔色は相変わらず悪そうだ。本当に大丈夫なのだろうか?


 「うーん。薬はある程度効いているみたいだけれど、それ以上に衰弱がひどいね。このままだと持たないかもしれない」

 さらっと言われたセリフに、ミーシャは驚いて隣を見る。


 「大丈夫。助けてあげるよ」

 「ありがとうございます」

 頭をしっかりと下げた後、どうしても気になってそっと聞いた。

 「代償は、何でしょうか?」


 面白そうにミーシャを見つめた男は、僕を怖がらないのかと聞いてきた。

 普通、僕に遭ったら大声で叫んで逃げるんだけどね、と。


 叫んで逃げる?

 確かに人外の美しさだけど、叫んで逃げるほどではないと思う。

 ミーシャは思った通りにそう伝え、それに、と言葉を続ける。

 「お母様を助けて下さるのなら、代わりにこの命をお渡ししてもよいと思いました」


 男はミーシャを見てにっこり笑うと、

 「僕の名前はロンダリエンス。君になら名前を呼ばれてもいいや。そう、君が思っている通り悪魔だよ。君は心が綺麗だね。僕ら悪魔は相手の心を映す鏡なんだ。だから、僕を見て逃げ出す奴らは、僕がとてつもなくおぞましいものに見えているらしい。自分自身の心がそうだっていうのに」


 森の中で久しぶりに綺麗な魂が見えたから様子を見に来たんだよ、と悪魔は言った。

 「私の魂を食べるのですか?」

 どこもおぞましくは見えないこの悪魔になら、食べられてもいいかな、とミーシャは思った。きっと先ほどからの恐怖で、感覚がマヒしていたのかもしれない。それに、少なくとも彼は嘘をついたりはしないだろう、彼が助けるといったからには母は助かるに違いない、と男の目を見ながらこの悪魔は信じられると何故か思った。

 「食べないよ。こんなきれいな魂、もったいない」

 悪魔は笑いながら言った。悪魔だからって、すぐ魂をもらっちゃうわけじゃないんだよ?と。


 それに、と悪魔は続ける。君はとても綺麗だし。

 そういって悪魔はまた手を振る。その手には一輪の薔薇。黒く見えるその薔薇を手に

 「覚えておいて。年頃になったら迎えに行くから、待っていて」

 そういってミーシャの手をそっと持ち上げると、その甲に跪いてキスをした。それは求愛の行動。物語でしか見たことのなかったその動作を受けて、ミーシャが真っ赤になっているうちに、その手に薔薇を握らせて悪魔は姿を消した。


 はっとミーシャが辺りを見回すと、横倒しになったはずの馬車は元通りになっており、ミーシャは馬車の中に先ほどまでと変わらぬ姿勢で座っていた。え、と思い前を見ると、御者席にはウォルターが見える。


 「すいませんね、何か見えたような気がして馬車を一旦止めたんですけど、何もなかったみたいです」

 止まっていた馬車が、ウォルターの掛け声で動き出した。


 さっきのことは夢だったの?

 夢であってほしい、という気持ちも込めてそう思ってみたが、手に持っているのは黒い薔薇。そして悪魔に口づけられた左手の甲には、薄くではあるが魔法陣のような文様が描かれている。

ひっ、と声にならない声が出そうになって、あわてて自分の口をふさいだ。

 あぁ、私は悪魔に魅入られたのだ、と分かった。

 同時に、これが契約の印というならば母は必ず助かるとも。


 「ウォルター、ゆっくりでいいわ。安全運転でお願いね」

 もう急がなくても大丈夫。母は助かるから。安堵の溜息を吐きながら呟くと、自分がすごく疲れていたことに気付いた。少しだけ…と言いながら、ミーシャはクッションにもたれて、うとうとし始めた。




 屋敷へ帰ってすぐ、侍女にお願いしてとりあえず着替えだけした。

 本当ならお風呂に入るべきなのだとは思ったが、どうしても母の様子が心配で様子を見たかったのだ。長時間馬車に乗っていた服は、かなり汚れているはず。粉塵等で具合の悪い母の体調を悪化させるわけにはいかない。なのでせめて着替えだけでも、とそれだけ済ませると母の寝室へと直行した。

 母はまだ眠っていたが顔色は随分と良くなり、頬には赤みがさしていた。


 あぁ、もう大丈夫。

 本来だったら、神様感謝します、と続けるべきところでミーシャはハタと止まった。

 悪魔様感謝します? って祈るべきなのかしら。


 隣に父はいなかった。母が落ち着いたことを確認して、おそらく溜まっていた仕事を片付けようとしているのだろう。家令がいないために言付けを頼むこともできなかったので、ミーシャは直接父のいるであろう執務室へと向かった。



 「お父様、お話があります」

 執務室のノックをし、返事を待たずに入室した。

 どうしても心が落ち着かなく、気が急いてしまっていたのだ。


 書類と格闘していた父は、しばらくはミーシャに気付かなかったようだ。

 ふと顔をあげ、室内にいるミーシャに驚いたように声をかけた。

 「いつの間に帰ってきていたんだ? お前が薬を届けてくれたおかげで、リリーシャの具合は良くなったよ」

 嬉しそうに父は告げる。薬を飲んですぐは、あまり効いているように見えなかったのだけどね、その後劇的に良くなったんだと笑いながら言うのは、母の様子が改善した今だからこそ安心して出た言葉だろう。


 「その件なのですが…」

 さすがに言わないわけにはいかないだろう。何よりミーシャの手には悪魔との契約の証があるのだから。

 そっと左手の甲を父に見せる。


 「…これは?」

 訝し気に父が問う。何か良くないことが起こりそうな気がしているのか、声がかすかに震えている。


 「…悪魔と契約しました。お母様の命を助けるために。あの薬だけでは、衰弱がひどかったお母様は間に合わなかったようです。代償は、私が年頃になったら貰い受けると」

 ぐっと唇を噛み締めてから、一息に伝えた。自分のしたことに後悔はない。でも、心配をかけてしまうことは本当に申し訳ない。


 父の目が限界まで見開かれた。息を呑む音が聞こえたが、絶句していたのか父は声を発することができなかったようだ。

 しばらくハクハクと、口を動かす音だけが聞こえたが、やっと父の口から言葉が漏れた。

 「…悪魔は何と言った? 一言一句、間違えずに伝えなさい」


 ミーシャは、悪魔との会話を思い出しながら、悪魔の森での出来事を伝えた。

 「では、悪魔は『覚えておいて。年頃になったら迎えに行くから、待っていて』と言ったんだな? 文言に相違はないな?」


 ミーシャは何度もその場面を思い出そうとする。

 「…確かにそういったはずです。えぇ、確かにそういいました」


 しばらくミーシャの言葉を反芻していた父は、やがて小さく呟いた。

 「ならば、覚えていなければ契約は無効だ」


 え?

 ミーシャが父の言葉が良く聞こえずに聞き返そうとしたとき、父は重ねていった。

 「今日は疲れただろう。ゆっくり休むがいい」


 執務室に備えられたベルを鳴らして侍女を呼ぶと、父はミーシャを休ませるようにと命じた。確かに昨日から休む間もなく頑張った、そう思ったミーシャは先ほどの父の呟きが聞こえなかったことはそのまま忘れてしまい、ぐっすりと眠りについた。




 翌日、神殿に連れていかれたミーシャは、神官に忘却魔法をかけられた。また、父から淑女の嗜みとして常に手袋を外さないように、と何足も貴婦人用手袋をプレゼントされた。


 ミーシャは自分の左手の甲に薄く何かが書かれているような気がするが、いつからこんなあざが出たのか分からず誰かに聞くのも憚られ、淑女の嗜みとして常にレースの手袋をはめるようになり、日々を過ごした。


 体調を崩していた母は日に日に元気になり、今まで寝付いていたのが嘘のように起き上がり、食事もしっかりとれるようになった。逆に母に代わるようにミーシャはしばらく寝付くことになったが、それは数日のことで済んだ。おそらく疲れが溜まっていたのだろう。


 元気になったミーシャの日常で変わったことはただ一つ。今までの護衛とは別に、新たな護衛が一人付いたことだ。


 「なぜ護衛が増えたのかしら?」

 ミーシャが新たな護衛に聞くともなしに言う。


 「そうですね。お嬢様もお年頃ですから、変な虫がつかないようにでしょうねぇ」

 新しく来た護衛は、にこやかに微笑みながら続ける。

 「私は以前は神官騎士だったので、通常の騎士より強いんですよ。そこを旦那様に気に入られたんだと思います」


 神官騎士、と聞いてミーシャはびっくりした。神官騎士とはその名の通り、神官の仕事もできる騎士である。すなわち、神聖魔法を使うことが出来るということだ。自分で回復が可能な騎士として戦いの際にはかなりその存在を望まれるが、神官騎士はその名の通り神官でもあるため、神の名のもとにという大義名分がない場合は決してその剣を抜かない。融通が利かないともいわれるが、騎士として、神官としてその姿勢は非常に真摯な人物であると評されるものだ。勿論通常の騎士にもその精神は求められるが、神官騎士はその比ではない。彼らは、国の争いごとなどに対してその剣を差し出すことはない。あくまで神の御為にしか剣を振るわないのだ。それほどの人物がなぜこんな田舎の男爵家に?


 「な、なぜにこんなところに?」

 慌てすぎて噛みそうになりながらミーシャは聞いた。


 「親が一時期臥せってしまいまして。心配で仕事が手につかず、神官騎士を辞して戻ってまいりました。今は親もすっかり元気になりましたが、激務である神官騎士だと何かあった際に親元に駆け付けられないので」


 それでも、とミーシャは思う。

 この男爵領は田舎だから神官騎士もそんなに忙しくないと思うわ。明らかに神官騎士の方がお給料もいいと思うんだけれど。それとも男爵領の神官騎士ってすでに定員一杯なのかしら? それなら繁盛していいことね。となんだかよくわからないことを考えつつ、その話は終了した。おそらくきっと聞かない方が良い理由もあったりするのだろう、という気がなんとなくしたからである。


 そうこうしているうちに、ミーシャは15歳となった。

 日々問題なく過ぎ、もうじきデビュタントを迎えることとなる。

 婚約者もいないため父にエスコートをお願いすることになるが、ドレスも気に入った形のものを一年も前から依頼済みで、準備は万端である。今まで領地からほとんど出たことのないミーシャにとって、初めての王都は噂でしか聞いたことがない魅惑の地だ。これまでは近隣の領地の令嬢たちとお茶会くらいしかしたことがなかったから、出かけた場所もあくまで両隣の領程度。初の王都散策に今からドキドキしている。


 でも、とミーシャは思う。

 この頃の私はおかしい。記憶が時々途切れている気がする。幼い頃から世話をしてくれている侍女にそんなことを言うと、侍女は

「お嬢様はこの頃お体が弱いですものね。よく寝込んでしまわれるから、記憶が飛んだような気がするんですわ」と心配そうに微笑んだ。


 そうだろうか? 私は体が弱かった?

 そんなことはない。弱かったのは、寝込んでしまったのは母だわ。だって私は薬を取りに…、


 そこまで考えた途端、頭がガンガンしてきてくらりと体が傾いた。


 「危ない!」

 傍に控えていた神官騎士が、あわててミーシャを抱きしめる。中肉中背に思えた神官騎士の体は、思ったより硬く鍛えているのだと感じさせた。


 「あ、ありがとうございます」

 父親以外の異性と近距離で接したことなどないミーシャは、急に抱きしめられてドキドキした。いや違う、このドキドキは…。


 神官騎士が覗き込むようにじっとミーシャを見つめている。

 「大丈夫ですか?」


 「…ええ、大丈夫よ。ありがとう」

 声が震えなかっただろうか? おかしな態度は取っていないか?


 「足元がふらついてしまったわ。午前中にダンスの練習を頑張りすぎたせいかしら」

 にこやかに笑って見せて、侍女に告げる。

 「少し疲れたのかもしれないわね。ちょっと休むわ」


 そういって侍女も護衛も部屋の外に追い出し、やっとミーシャは一息ついた。


 思い出した。悪魔との契約を。

 そして思い出したことに気付かれると、目の前の神官騎士は私に忘却魔法をかける。今までに何度もそうやって忘れさせられてきた。悪魔が渡してくれたのと同じ黒い薔薇を見たとき。母が体調不良で臥せった時。様々なきっかけを元に、私は直ぐに悪魔との契約を思い出し、それを言葉にしてしまっていた。あぁ、そうよね。神官騎士が神の名のもとにという命題以外で動くわけがない。悪魔を駆逐するという大義名分があるからこそ、神官騎士が私の護衛として傍にいたに決まっている。そうして忘却魔法をかけられると、そのまま私は寝込んでしまい、侍女は私の体が弱くなったように感じていたのだろう。

 確かに悪魔に魅入られたなんて皆の前でいうわけにはいかない。知っているのはおそらく父と、父が依頼した神殿及び我が家にいる神官騎士くらいだと思うわ。だから屋敷の中で私は年頃になって急に病弱になった娘ということね。


 ならば、騙し通さなければ。悪魔との契約を反故にしようなんて、父は何と恐ろしいことを。そんなことをしてはいけない。悪魔に嫌われたらどうするというのだ。悪魔は気に入らないものを滅するという言い伝えがあるではないか。父が、母が、そしてこの男爵領が滅せられたら、と思ったらミーシャはぞっとした。そんなことがあってはいけない。



 デビュタントのために王都へ移動する日が近づいたある日、ミーシャは家令に父と話をしたい旨言伝を頼んだ。

 しばらくして、家令が執務室へ案内してくれる。家令に続いて、ミーシャは執務室の中へと入った。


 「どうした。お前から話があるとは珍しい」

 訝しんだ様子で父がこちらを見る。その目が、私が何かを思い出しているのではないかと探っているようで、目を逸らしたくなる気持ちをぐっとこらえる。


 何でもないように微笑んで、告げる。

 「私、この頃よく臥せっているでしょう? 侍女も私の体が弱いというし、体調が良くないのかもと心配になってしまったの。それで、王都で文官をしている切れ者と噂の従兄のアルフレッド様を我が家の養子としてお迎えしたらいかがかと思って。私はまだ婚約者もいないし、この体調では子をなせないかもしれない。ならばアルフレッド様に継いでもらえばいいのではと思ったの」


 畳みかけるように、どうせ王都に行くのだしアルフレッド様にご挨拶もできるわね、と続ける。叔父様も喜んでくれるわよ、と殊更にこやかに言って見せた。

 本心は見せない。目は逸らさない。

 悪魔との契約は反古にはさせない。そのために、どうしてもこの男爵領を継ぐ人間が必要だ。


 じっとミーシャの目を見つめていた父は、ミーシャの中に悪魔の影を見つけ出せなかったのか、緩やかに息を吐いた。

 「どうしたのだね、急に。お前に子がなせないかは結婚してみないとわからないであろう? 養子の話は、それからでも良いのではないか」


 言われるとは思っていた。それでいい。

 とりあえず、父の頭の片隅にでも養子の件を覚えていてもらえたら。年頃という言葉がいつを指すかわからないもの、少しでもできるうちにできることをしておかなくては。


 「そうね。ならばそのお話はあとでもいいわ。実はもう一つ、お願いがあったの。神官騎士様って、おそらく物腰から貴族の方だと思ったの。デビュタントで踊ってみたいわ」


 可愛らしいお願いに変わったためか、父は安心したように目元を細めた。

 「おや、お前は彼がお気に入りかい? その割には名前で呼んでいないように思えるがね」


 確かに私は彼のことは今まで神官騎士様としか呼んでいない。

 「だって恐れ多いじゃない。ただの騎士じゃないのよ。神官騎士様なんだから。一応敬意を表しているのよ。そういう高名な騎士様と踊る機会なんてめったにないでしょう? だから、一度くらいどうかしらと思って」


 「では、神官騎士であるダリスよ。そなた、今回の夜会は貴族として参加が可能か?」

 ミーシャの後方に控えていた神官騎士に向かって、父が声をかける。


 「はっ。それであれば王都に行った際、一旦実家のタウンハウスに戻りまして、準備をしてまいります」


 王都にタウンハウス持ってるんだ、ってそれって伯爵家以上じゃないの?

 男爵家である我が家は勿論王都に別宅であるタウンハウスなんて持てない。そんな維持費払えるわけがない。子爵家だってよほど大金持ちじゃないと無理だよね。…ってことは、少なくとも伯爵家かそれ以上のはず。まぁ、彼の出自が何であれ、私には関係のないことだわ、とミーシャは思う。

 ちらっと神官騎士様を見ると、かすかにではあるがニヤッとした笑みを返された。

 ミーシャの考えなどお見通しのようだ。




 初めて見る王都はやっぱり素晴らしかった。町並みは綺麗だし、お店も高級そうな感じ。タウンハウスなんて持っていないので、宿に連泊するのだけれど、こうして宿に泊まったのも初めてで何もかもがドキドキすることばかり。

 ミーシャは見るもの聞くものに目を輝かせるばかりであった。実際、母もしばらくぶりの王都のようで、日中は結婚前からの友人たちとのお茶会に呼ばれて忙しそうだった。

 私も一緒にどうかと誘われたのだけれど、初めてお会いする母と同年代の方々ばかりのお茶会は、居心地が悪そうで遠慮させていただいた。ご年配の方々の前では、色々淑女らしさの足りない部分を粗探しされそうで怖いわ。



 そうやって母と別行動をすることに成功したミーシャは、護衛と侍女を連れて初の王都の街並みを歩くことにした。賑やかな通りは、目に映るものすべてがキラキラとして見える。領地に残っている者たちの分も何かしらお土産を買わなきゃ、と意気込んでいると侍女に笑われた。

「まだ王都に来られたばかりですからね。お土産を買うには早すぎます」


 分かってはいるのだけれどね。食べ物は買わないわ、さすがに。

 でも、自分でこうやって直接お店を見て回れる機会はあまりないでしょう? と可愛らしくミーシャがおねだりするように侍女を見上げると、苦笑しながら、少しだけですからね、と了承してもらった。


 そこで、雑貨など小物類を売っているお店を中心に何軒か見て回り、ミーシャは領地に残っている多くない使用人一人一人にあてて、小さなお土産を購入することができた。女性陣にはいい匂いのする石鹸や保湿クリームなど、男性陣には髭剃り用のローションや高齢の馬丁には腰痛に効くお薬など。それなりに時間がかかってしまったので、最後は一度やってみたかった王都カフェでのお茶とした。侍女と護衛にも一緒に座ってもらって、おいしいケーキに舌鼓を打った。幸せ、とミーシャは嘆息した。


 あっという間にデビュタントの日となり、ミーシャは朝から侍女に磨かれた。ここまで徹底的にピカピカにされたのは初めてで、またコルセットのキツさに涙目になった。淑女ってこうやって作られるのね、と出来上がりまでの労力に思わず目が虚ろになりそうだった。こうして出来上がったミーシャは、初々しく、そして可憐な娘であった。父は満足そうに頷くと、そっと腕を出しエスコートをしてくれた。後ろには母が続く。初めての家族全員参加の夜会である。


 王宮はそれこそ、目が眩むほど美しい場所だった。ミーシャが普段住んでいた男爵領では決してお目にかかれないような高価で且つ荘厳な調度品が並べられていた。そしてそれが決してゴテゴテしておらず、素晴らしい統一感をもって置かれている様は、王宮に住む方々のセンスの良さを如実に表していた。


 「はぁ、眼福…」

 思わず声に出てしまったが、それを聞いた母も笑っていた。

 「わかるわ。私も初めて王宮に来た時、同じこと思ったもの」

 そう微笑む母の目じりが下がり、その表情が自分とよく似ているな、とふとミーシャは思った。親子よね、と思わず二人同時に声に出て、それがとても嬉しく思えた。


 「お母様、大好きですわ」

 そっとミーシャは告げる。嬉しそうに微笑んでくれる母を見ていると、自分は? というように覗き込む父の姿が見えた。

 「勿論お父様も大好きですわよ」

 ミーシャは父にも告げる。

 幸せな気分のまま、来場を告げる声につられホールに入った。


 雲の上の人である国王に初めて謁見してデビュタントの祝いの言葉を頂いた、本日やっと成人と認められたミーシャたち若人は、そのままエスコートしてくれた自身の父兄弟または婚約者などとファーストダンスを踊った。ミーシャは勿論父とだ。こんな大舞台で踊るのは初めてで、今までしっかり練習をしていたはずなのに、よろけそうになってミーシャは焦った。大丈夫だと笑いながら父ががっちりホールドしてくれて事なきを得たが、さすがにファーストダンスでの失敗はいただけない。次からは気を付けなくちゃ、とダンスを終えて自分に活を入れていた時に、すっと自分の前に跪く男性を見た。


 「お嬢様、私とダンスをお願いしたい」

 今まで下ろしていた前髪を後ろになでつけたその表情は、今日初めて見るものだった。そういえば今まで神官騎士様のお顔ってあまり見たことなかったわよね、とミーシャは思い返す。

 「お願いしますわ」

 出された手に、手を添える。


 向かい合ったときに、ダンスがあまり上手でなくてごめんなさいと先に告げると、神官騎士はしっかりフォローするから大丈夫だと笑ってくれた。彼はとても優雅にステップを踏み、そして力強くミーシャを抱きとめてくれた。今まで練習に付き合ってくれたダンス講師や父よりもはるかに安定感があって、そして踊り易かった。思わず素敵ね、と声が漏れた。


 「気に入っていただけましたか?」

 そう聞いてきた神官騎士に、ミーシャは頷く。そして、ゆっくりと尋ねた。


 「年頃っていつのことを言うのかしら、ロンダリエンス様」

 見つめ合っていた神官騎士の目が見開かれる。


 「気付いていたのか」

 まさか、というように強張った声が聞こえて、ミーシャは少し楽しくなった。


 「変な虫がつかないように、見張ってくださっていたのでしょう? でもまさか、神官騎士様としていらっしゃるなんて」

 神官騎士もとい悪魔のロンダリエンスは、にやりと笑った。


 「お前を迎えに行くといっただろう? 確かにお前の父は狡猾だ。覚えておいて、と最初に行ったから、覚えていなくては契約は履行されない。常に忘れていてもらうために、高い金を払って神官騎士まで依頼していた。だから、俺が神官騎士に成り代わることにしたんだよ。お前が何度忘れても、きちんと俺を思い出せるかどうか確かめるために」


 ミーシャを見つめるその表情は、既に捕食者のそれだ。

 傍目には優雅にダンスをしているように見えながら、ミーシャに話しかける声は、逃がさないという副音声が聞こえそうなほど。


 ミーシャはにっこりと答えた。

 「何度でも思い出したでしょう? だって私、あなたに魅入られたのだもの」


 そう、ミーシャは悪魔に魅入られた。その美しさにかはわからないが、少なくとも契約の印をつけられたとき、ミーシャは悪魔が迎えに来る日を心待ちにしていたのだ。

 黒い薔薇は、決して滅びることのない愛、あなたは私のもの、という深い愛を示す。場合によっては愛するが故の憎しみまでもが、黒い薔薇の花言葉だ。ミーシャが悪魔を受け入れなければ、どれほどのことが起こるか想像に難くない。


 デビュタントは済んだ。成人として扱われるようになった今、きっと悪魔はすぐにでも自分を連れ去るに違いない、とミーシャは思っていた。そのために事前に皆にお土産も買っておいたのだ。両親には既に手紙をしたためてある。ミーシャがいなくなったら、隠しておいた手紙も見つかるだろう。


 ダンスが終わり、悪魔にエスコートしてもらって父と母の元へと戻る。先ほどの話などなかったように、悪魔はミーシャの護衛のように斜め後ろに控えた。父が悪魔に、今日は護衛任務は不要だから、交友関係を温めていいのだと告げるが、悪魔はそれを固辞し、心配なのでお嬢様の傍にいますと告げる。悪魔のことだから、認知を歪めて爵位ある誰かの子息という形にしているのだろうけれど、本来は存在しない人物なのだろうから交友関係があろうはずもない。父の好意を固辞するのも当然かもしれない、とミーシャは内心笑わずにはいられなかった。


 父は自分の挨拶回りに婚約者探しも兼ねようとしたのかミーシャを誘ったが、ミーシャは疲れた風を装ってここで待っていると告げた。父が母を連れて挨拶回りへと向かったのを見て、ミーシャは壁際にそっと移動した。悪魔もその後ろをついてくる。


 「これからどうするの?」

 ミーシャは小さく尋ねる。


 「今しばらくは大人しくしていますよ。一番問題がないのは、お嬢様が病でお亡くなりになられることかな」

 私死ぬの? 花嫁じゃなかったの? とびっくりしたようなミーシャの顔を見て、悪魔は意地悪そうに笑う。

 「花嫁に決まってるじゃないですか。求婚したでしょう?」

 黒い薔薇を渡したでしょう、と不敵に笑うその顔は神殿騎士の顔のはずなのに、最初に会った人外と思える悪魔の美しさと二重写しに見えた。


 「やっぱり綺麗」

 思わずミーシャは人外に見えた悪魔の顔に見惚れた。


 「この顔に見惚れるなんて、お嬢様くらいですよ」

 目をすがめて優し気に微笑むその顔は、やはりとても美しく見えた。


 悪魔に攫われたとするより、対外的には病死となった方が問題は少ないでしょうから。あなたの大好きな男爵領に、悪魔がいると騒ぎ立てられて問題が起きるのはうれしくないでしょう? そう問いかけられて、確かに、と考えさせられた。悪魔の森の話はあくまで御伽噺だ。それがいきなり領主の娘が悪魔に攫われたとなると、それこそ男爵領は神官騎士などが討伐に来たりして大変かもしれない。また悪魔を恐れた領民が、他領へ逃げ出す事態も避けたい。父は私の手に契約の証があることは知っているから本当のことを言わざるを得ないが、あえて公にする必要はないだろう。


「わかった。大人しく病死するわ」


 回りで聞いている人がいたとしたらあまりに不穏であろう言葉をミーシャは事も無げに言って、悪魔に向かって微笑んだ。ぎょっとしたように見る人間がいなかったから、周りには聞こえていなかったと思われる。


 そうして王都での社交を終え、帰路に就く途中、馬車の中でミーシャはこっそり悪魔から渡された薬を飲んだ。父と向かい合い、母の温もりを隣に感じながら、ミーシャは最後の言葉を告げる。

 「お父様、お母様、愛しておりました。男爵領を共に盛り立てることが出来ず、申し訳ございません」

 ゆっくりと頭を下げ、そうして瞼を閉じた。

 本当はもっと話をすべきかもしれない、と思いもした。けれどそうすれば父は、悪魔でない、もっと別な神官騎士を呼ぶかもしれない。また繰り返し忘却魔法をかけるだろう。

 けれど、悪魔がいつまで温厚でいてくれるかはわからないのだ。彼が一旦不快に思ったらすべてを滅することだってあり得る。その前に、悪魔の花嫁になるのが一番被害が少ない。

 そして何より、私はあの悪魔のもとに嫁ぎたいのだ。

 きっと父母にはわかってもらえないと思う。悪魔に焦がれてしまったなどとどう言っても理解してもらえるとは思えない。だから、愛しているという言葉だけ伝えて、消えることを許してもらいたい。ミーシャは閉じた瞳から一粒涙を流しながら、ゆっくりと母の肩へと倒れていった。

 かすかに父母の叫ぶ声が聞こえたような気がするが、意識はそのまま落ちていった。



 目が覚めたときは、ふかふかの寝台の上にいた。

 男爵家で使用していた寝台とは雲泥の差だ。天蓋も付いていて、いかにも高級ですと調度品が訴えている気がした。

 ミーシャは起き上がり、周りを見渡した。寝台だけでなく、部屋全体が薄いクリーム色で可愛らしい調度品が溢れている、高位貴族の令嬢とかがこういうお部屋で暮らすのかしら、と思わせる夢のような部屋だった。


 「あ、起きたようだね?」

 ノックもなく扉が開き、初めてあった時のような人外の姿で、悪魔が現れた。

 「僕のお姫様。お目覚めはいかがかい?」


 頭痛もなく、特段不自由も感じなかったので、大丈夫そうだわ、とミーシャは答えた。


 「それは良かった」

 悪魔は笑い、葬儀は無事に終わったよ、と告げた。


 葬儀って、それ、私の葬儀のことよね? とミーシャは思う。

 わざわざそう告げるのは悪趣味だわ、とジト目で悪魔を見るが、悪魔は上機嫌だ。

 「男爵家は、君の望んだとおり君の従兄を養子に迎えたよ。彼なら男爵領を今後もっと発展させてくれるだろうし、君の実家だからね。陰ながら今後の繁栄にも力を貸してあげよう。さて、これで無事に君は僕のもの。君に不自由はさせないから、これからは一緒に暮らそうね」


 悪魔はそっと近寄ってミーシャの左手を取り、薄く描かれてある契約の印の上に口づけた。その途端、手の甲から全身に何かが流れていくのをミーシャは感じた。


 「なに、これ?」


 「悪魔の契約完了のお知らせ。これで君は僕から決して逃げることはできないからね」


 悪魔は自分がかなり長いこと孤独であったことを告げた。自分に遭う人間は、殆どが自分を化け物と呼び逃げていく。まれに魂の綺麗な者に会い、言葉を交わすことができたが、そういったものはいつだって早死にしたのだという。善良な人間は騙されやすいからね、と悪魔は悲し気に告げる。彼らを助けるためにいくつか魔法を使ったりしたのだけれど、そうすると余計に彼らは虐げられたのだとか。亡くなった彼らを悼んで、虐げた奴らにはきちんと報復はしたよという悪魔を見て、ミーシャは御伽噺というのはかなり本質をついていると思わざるを得なかった。

 だから、今度話ができる魂の綺麗な人間を見たら、早めに囲ってしまおうと思ってたんだ、と何でもないことのように悪魔は続けた。最初はお話しするだけでいいと考えてたのだけど、ミーシャを見たら一目惚れしちゃって。大事にするからね、と恥ずかしそうに言う悪魔に、人外の整った顔で何を言う…と思わないでもなかったが、そのストレートな物言いにミーシャも真っ赤になった。


 少なくともミーシャは逃げるつもりはない。自ら囚われに来たつもりだ。だからこそ、デビュタントの日、自分から悪魔に声をかけたのだから。どうしてもこの悪魔と踊りたかった。悪魔の名前を呼んでみたかった。だから、偽名だろう神官騎士の名前を呼ばなかったのだから。


 「あ、偽名じゃないよ」

 ミーシャの心を読んだのか、悪魔は笑う。自分の名前はロンダリエンス。ダリスは愛称だからどちらで呼んでも問題なし。でも愛称で呼んでもらえたらもっと嬉しいかも、と告げる悪魔にミーシャは叫ぶ。

 「もしかして私の心読めるの?!」

 それなら、記憶が戻ったのをばれないように頑張っていたのって、意味ないじゃないの。


 焦るミーシャに、悪魔は微笑んで答えた。読めるけど読んでなかったよ。分からない方が面白いでしょ? 君が自分から僕の手に落ちてきてくれる日を、今か今かと待っていたんだ。

 捕食者の瞳でミーシャを見つめながらぎゅっと抱きしめてくる悪魔に、ミーシャは危険なものに捕まった、とは思ったが嫌悪感は持たなかった。この腕は優しい。自分を守ってくれる。


 そういえば、とミーシャはふと疑問に思っていたことを聞いてみた。悪魔は相手の心を映す鏡だと言っていたけれど、あなた普通の神官騎士の姿、してたわよね?

 多少言いづらそうな応えがあった。本物の神官騎士の皮を借りたんだ、と。

 深く追求してはいけなそうな気配に、ミーシャはすぐさま口を噤む。

 着ぐるみを着ているようで、結構辛くて大変だったんだよ。だから、自分が自然体でいられて、尚且つ君が一緒にいてくれるのがとても嬉しい、とより一層ミーシャを抱きしめる力が強くなった。



 「落ちてきてくれてありがとう、ミーシャ」

 抱きしめられたまま聞こえてくる悪魔の声が、少し震えているようにミーシャには思えた。


 「こちらこそ、捕まえてくれてありがとう、ダリス様」

 そっとミーシャも悪魔の背中に手を回して抱きしめ返した。うん。怖くない。私はこの人と一緒にずっと生きていくんだ。悪魔の温もりの中で、ミーシャはきっとこれから幸せになれると嬉しくなった。



誤字報告いただきました。ありがとうございます。修正いたしました。

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