5 新しい女主人
名は知らない。
本当の名など、とっくに捨てた。
任務の度にその時々の仮の名がつく。
だが、基本、その名すら呼ばれることはまずない。
「おいっ」とか「お前」で、あるいは手振りや顎をしゃくられたりで済まされる。
まあ、返事をする口がないのだから関係もない。
口がきけないというのは、相手に誤った優位感を与えるのだろう。
ガードの固い切れ者と言われる者でも、簡単に重要な情報を自分の前には落としてしまうことがある。
ある意味、諜報活動には向いている。
口が聞けないイコール得た情報を他に一切伝える術のない犬や猫と同等の安全な者という間違った印象を与えるのだろう。
重大な秘密を抱える重要人物ほど、口の聞けない召使いを欲しがったりするのだ。
運命が大きく動く瞬間というものは、ある日唐突に訪れる。
後宮でそれなりに重大機密に関わる仕事をしていた筈だったのだが、銀仮面の突然な呼び出しを受け、急に移動となった。しかも、今夜のうちからその新しい所に入らなければならないという。
潜入先でどういうことをしろと具体的な策がまだ立たないほど、情報の乏しいところに入れられることは確かなようだ。まあ、どの様な危険地帯でもそれなりに生き延びられる自信はある。
それに、工作活動よりは、諜報の方がまだいい。自分自身の感情などとっくに無くした筈だけど、自分の起こしたことにより運命を狂わされた周りの者の生々しい感情に直の触れることにはまだ疲れを覚えるのだ。
「詳しいことは言えない。現場で判断しろ。今度の仕事は……ある意味、もっとヤバイ……かもしれない」
銀仮面にしては珍しく、仕事の要点の全く掴めない説明しかしなかった。
少なくとも持っている情報は、全て開示して欲しい求めると、歯切れの悪い調子で、さらに意味の判らないことを言い出した。
新しい潜入先の主人は、「妻の服」と共に、喋れない上に男ではない者を寄越すように言ったというのだ。そんな、倒錯した趣味の変態から何の情報を引き出せというのだろう。大体、銀仮面はそういう系の口入屋の仕事に手を出したことはなかった筈だ。
それとも、その殿とやらが、この自分の存在を知ってのご指名だったというのか。
「いいや、お前はウチの秘蔵っ子だ。誰かに知られる様なヘマはしねえよ。それに殿からしたら俺のことは、何でも屋ってぐらいの筈なんだ。こんな依頼が来ること自体が初めてだし、異常なんだ。本当に重要な仕事なのかどうかすら確信も持てないのだがな、……何か俺の勘に引っかかってよ。あっちの仕事もそんな長く空けられないし、すぐ呼び戻すからよ。試しにちょっと探ってきておくれよ」
仮面の向こうの表情は、うかがいようもないが、銀仮面の声はいつもより少し熱を帯びていた。この男が興奮しているとは珍しい。
夜明けが近づく頃、新しい赴任地に到着した。
潜入先は、意外なことに、森の中に建つ、どうということの無い館だった。
そして、その足で、「殿」とやらの前に立たされた。
醜怪な蝦蟇の化け物の様な老人の前にでも立たされるのかと思っていたら、殿というよりは若様ではないかという若人で、それも非常に美しい人物だった。人としての造形以前に纏うオーラの美しさが只者ではないと感じられた。
おそらく、かなりの魔力持ちだ。貴族なのだろうか。
舌も下もないことを確認された後、
侍女風の服へと着替えさせられた。
早速、殿の寝室にでも案内されるのかと思ったが、違った。
なんと、自分が仕えるのは、殿ではないと言う。
そして、殿の言うところの、「本当の主人」の前に案内された。
見たこともないほど美しい人が、寝台に寝かされていた。
瞼を閉じたその姿は、朝の光に包まれて神々しく、聖なる話の一部分の様だった。
その方が目を開いた時には、ただそれだけで、空気の色や温度まで変化したかに見えた。
「このお方にお仕えせよ。どのような事にも従うように。また、何の不自由もさせないように」
殿からの言葉は、それが全てだった。
こうして、「妻の服」の名目で、自分が着せられるかと思っていた服には、正当な持ち主が現れた。
また、この侍女にも正当な主が、現れたのだった。
自分の女主人は、女主人とはまだ呼びにくいくらいの、少女だった。
何とも不思議な少女で、話し方もとても変わっている。
年増女のような言葉を使うので、外見と合わないこと、この上ない。
少し気取って「ワタクシ」と自称しているのが、言い慣れない台詞を頑張って口にしている大根役者のようで、聞いている方まで気恥ずかしくなる。奥様を、妻を頑張って演じるんだからね、という背伸びが言葉や動作の端端にまで現れていて吹き出しそうなほどだ。
要は、第一印象の畏多さも神々しさも、その珍妙な言動により一瞬のうちに無と化したのである。
また、外見上の異常と言えば、左右の目の色が違う。
そして、口のきけない侍女にやたらと話しかけてくる。
そう、この殿の妻にして自分の女主人である少女は、新しい侍女が、口がきけないということ自体が全く理解できていない様なのである。
それどころか、世の中のことも、この屋敷内のことも何も全く理解できていないようである。
本当に、あの殿の妻なのだろうか。
さらには、初めて泊まることになった身の丈に合わない高級ホテルにビビりながらも興味関心を隠せない田舎者さながらに、部屋の隅から隅まで探検して回り、ベッドの下を這いつくばって覗き、全ての開く扉を片端から開けては閉じてを繰り返した。
さらには、突然はっとした様に立ち上がると
「ちちんぷいぷい!」
「アブラカタブラ!」
「テクマクマヤコン!」
「ちんからほい!」
などと、腕を振り回しながら何とも珍妙な雄叫びをあげた。
悪霊にでも取り憑かれているのだろうか。
そして、振り返って、この侍女の存在に気付いた途端に、ギャッ見られていたとは、とばかりに、仰天して飛び退き、誰が見てもはっきり判るほどに取り乱した。スカートの襞をいじってみたり、パタパタ身だしなみを整えていたふりをしたりと、ド下手くそなごまかし方まで何とも滑稽だった。
まともな貴族の娘ならもっと小さいうちからこの様に感情を外に見せることはないし、召使いの視線など気にするそぶりをするはずがない。一体何なのだろうか、このさっきから百面相をしながらパタパタ動き回る馬鹿に幼い女主人様とは。
ただ一つ、はっきりしたのは、この不思議な少女は、あの殿を特別好いているらしいということである。
そして、あの殿の方も、この少女に対して相当に丁寧な言葉遣いをし、不自然なほど丁重に遇している。
この、何も知らず、まともに物を考える力があるとは見えなかった少女が、只者では無いことが分かったのは、すぐ、その直後のことだった。
少女は、殿から、少女のものだという見なれぬ形の「本」を受け取ると、本の魔石を棒の様な形状に変化させ、本の上を動かすことにより、奇跡としか思えぬ力を使いだしたのだった。
少女は、この侍女の声にならぬ言葉を、聞こえるはずもないのにそのままに聞き取り、そこに言葉がこの通りあるのだから喋らなければならないのだと命じた。
確かに、音にはなっていなくても、言葉としてはあったのかもしれない。それは、よりあるべき姿として示すと声であるべきなのかもしれなかった。
少女が本の上に棒を滑らした上で、この侍女に喋るようにと命じると、あり得ないことに、自分は声を出していた。
自分の体の欠損部分の全てが再生されていることに気づいたのは、その直後だった。
一度魔術によって失われた部位を再生させることなど、歴史上の聖女にだってできなかったことのはずである。
これは、神の領域の事、奇跡である。
さらに、同時に、自分は真名を与えられていた。
真名などというものは、御伽噺か迷信の部類かと思っていたが、名付けられた瞬間に、雷に打たれた様な衝撃を受け、これが真名というものなのだと体全体で直感した。
メイ・ドーサン
この名前が、頭の中に響き渡った途端に、今までの呪いも術も全て無と化したのだった。
無くならされていたというこれまでの事象の方が無にされたというべきか。
無くしたものを再生されたというよりは、今まで無くなっていたと感じていたことの方が大きな過ちであったかのように、全ては元通りの、自分の舌であり、下もある様だった。
何も知らないおかしな少女などと無礼なことを考えていたことを恥じた。何も知らないのも、おかしいのも自分の方であった。
少女より与えられた声で、新しく授けられた真名メイ・ドーサンの名にかけて少女に忠誠を誓った。
「何かお役に立てることはないでしょうか。何なりと仰ってください。」
この、メイを何かで頼って欲しいと願うと、少女は少し考えてから答えた。
「そうね、ではまず、ワタクシにこの世界の文字を教えて」
「も、文字とは?」
「文字よ、文字、あの……言葉や音を紙の上に書き記す時に、使う文字。えーと、文字という言葉ではないのかなあ? こういう音とかをそのまま記号にしたものよ」
「大変申し訳ないのですが、このメイの知る限り、『文字』という精霊は、すでにこの世界にはおりません。これは昔物語に聞いた話にすぎませんが、音を記号に変換するという術式は文字の霊ごと、この国の始まりの時に封じられました」
「えっ? せ、精霊? 文字が封じられた? とは、どういうこと」
「この国の始祖、偉大なる初代の王にして精霊の研究家としても名高かったナブ・アヘ・エリバ王は、世界を文字の精霊より救い、この国を築いたとされています」
「文字の精霊?」
「先程、貴方様は、奇跡のような力を用いて、私をお救い下さいましたが、それは、この世界には今は、存在しないはずの力なのです。貴方様のお使いになったのが文字の霊の力なのでしょう?」
「えっ、ワタクシが、何の力を使ったんですって?」
伝承される『世界の相続者』とは、全くイメージの繋がらない頼りない少女は、その奇跡の力をすでに示してしまったことにも無自覚なようで、また、神々しさも威厳もへったくれもない、素っ頓狂な声をあげたのだった。
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