4 美しき従者
その夜、俺は月明かりの中、キャンプ道具を背負って祖母の家の玄関を出ると、家の背後に延々と広がる森の中へ入っていった。森は所々に草原や居住地があり、茶畑も作られている。そして、最終的には富士山の麓の樹海へとつながっていた。
けやきの巨木が聳え立つ林の中に足を踏み入れたとたん、俺はいつもの気配を感じて、少し緊張した。木々の間や木の上の方に、こちらをじっと見ているもののけや霊体の姿も感じられた。懐中電灯で先の方を照らすと、白い影が慌てたように木の陰に隠れた。
「ふむ┅┅この辺りのあやかしどもが皆集まってきて来ておるようだのう。良きにつけ悪しきにつけ、新しき射矢王の誕生に沸き立っておるのじゃ┅┅」
俺の前を飛んでいた〝そいつ〟はそう言ってから、凛として辺りに響く声で続けた。
「よく聞け、精霊並びにあやかしどもよ。射矢王襲名の儀は葉月の十五夜ぞ。今宵はおのおのが住処へ帰るのじゃ、去れっ!」
その声と共に、あたりに蠢いていた影が一斉に四方へ散って消えていった。
〝そいつ〟が何者なのかまだ分からなかったが、相当な力か地位を持った奴だということは分かった。俺は、努めて平静を装いながら、林の奥へと歩いて行った。やがて、辺りが開けた場所に着いた。
月明かりに照らされた草原が、なだらかな起伏を見せて半径約五十メートルの円状に広がっている。ここは幼い頃から、お盆で里帰りするたびに草スキーや忍者遊びをするために親戚の子供達と訪れていた場所だ。キャンプをしようと思い立ったとき、真っ先に思い浮かんだのは、この懐かしい風景だった。
俺はさっそく背負っていた組み立てテントを下ろして、林の出口近くの平らな場所に設営を始めた。小さな二人用テントなので、ものの二十分ほどで作業は終わった。灯油カンテラに火を点けてテント中につり下げると、リュックから寝袋を出してその上に寝転び、ヘッドフォンをつけて携帯用ラジカセの音楽を聴き始める。例のうるさい〝そいつ〟の声を、なるべく聞かないためだった。が、それは無駄だった。
「さて、では、そなたに与えられた使命について話をしようか┅┅」
〝そいつ〟の声は、耳からではなく、直接俺の脳に入ってきたのだ。俺はせめてもの抵抗を見せるため〝そいつ〟に背を向け、頭を抱え込んで背を丸めた。
「ふう┅┅やれやれ┅┅かほどに情けなき男が、わが主とは┅┅だが、まあ己の大いなる使命を前に気が弱っているのはいたしかたないことやもしれぬ┅┅ふむ┅┅まずは心を慰めることから始めねばならぬか┅┅」
〝そいつ〟はため息交じりにそう言った。その直後、外から入ってくるそよ風とは違う、一陣の風が巻き起こり、同時に何やら花のいい香りが俺の鼻をくすぐった。俺は、何事かと思い、起き上がって背後を振り返ったまま、固まってしまった。
そこには俺と同じくらいの年頃の少女が座っていた。しかも、その服装、髪型などから、その少女が例の〝そいつ〟であることは間違いなかった。
俺は茫然として、口を開けたまま少女を見つめた。それは驚いたこともあったが、あまりにも少女が美しかったからである。
緑色を帯びた黒髪、小さな細面の顔に髪と同じ色の半月形の眉、長い睫毛に縁取られた大きな目、すーっと通った鼻筋、小さくふっくらとした唇┅┅それは、アニメやゲームの中に出てくるヒロインそのままの姿だった。
「どうじゃ┅┅心が慰められたか?い、言うておくが、そなたは我を、さ、さほどに美しいと言うが、これはそなたを女にした姿なのじゃぞ」
俺は心の中で、よほど少女への賛美を叫んでいたに違いない。それはまあしかたがないとして、問題は後半の言葉だ。
「えっ?こ、これが、女になった俺だって?┅┅」
「じゃから、言うたであろう?そなたと我は、御霊分けした双子のようなものじゃと┅┅」
俺はもちろん自分の顔を毎日のように鏡で見ている。だから、少女の言葉がまったくのでたらめであることは疑いようもない。だが、ここまでして俺に何かを伝えようとしている彼女の努力には、報いてやらねばならないだろう。
「分かった、話を聞くよ」
俺が正面に向き直って正座すると、少女はまるで花がほころぶような微笑みを浮かべた。
「では、まず改めてご挨拶を┅┅我は、ヌシ様よりそなた様の御霊を分けいただき命を授かりし柏木の精、名をカシワギノモモヨニサクヤタニヒメと申します。サクヤとでもお呼び
下さりませ┅┅」
「┅┅サクヤ┅┅」
俺はまだ赤い顔で、胸をどきどきさせながら少女の話を聞いていた。
「┅┅そして、そなたは、我が主にて、万物の精霊を従え、この世に厄災をなす妖魔、悪鬼どもを討ち滅ぼす七精の王、射矢王┅┅」
サクヤが〝我が主〟と言ったとき、彼女から悔しさに似た感情が流れ込んできたのを感じた。
(そりゃあ、そうだろう。役目とはいえ、俺みたいなのを主人と呼ばなくちゃいけないんだから┅┅)
「ちょ、ちょっと待ってくれ┅┅事態があまりにも突飛すぎて、夢を見ている気分だ┅┅まるで、RPGの世界じゃないか、あり得ないよ┅┅俺が、主人公なんて┅┅」
俺の心の動揺が伝わったのだろう、少女は目を伏せて小さなため息を吐くと、俺の手をそっと取って、自分の胸に持って行った。
「これは夢などではありませぬ┅┅ほれ、我の鼓動、息、血の温もりを感じなされよ┅┅」
俺の手には、確かに彼女が着ている服の手触り、手の温もり、そして柔らかい胸のふくらみと息づかい、心臓が打つ脈動まで感じられた。
「な、なぜ、これほど実体があるのに、他の人間には見えないんだろう?」
サクヤは緑色を帯びた美しい黒い瞳で俺を見つめ、少し俺の近くに寄ってきた。
「我も詳しいことは分かりませぬ。わが師にあたる方から聞いたことを、少しお話いたしましょう┅┅まず、この世の物はすべて陽と陰、正と負、言い方はいくつもあれど、二つの相反する力が混ざり合って生まれたと言われております┅┅我の体や衣服はほとんど陰の気でできております。また、普通の人間は陽の気八、陰の気二ほどでできていると言われます。ほとんどが陽の気の人間には、陰の世界は見えず、触れることもできませぬ┅┅」
そしてサクヤは、俺の質問にできる限り答えながら、この世界の成り立ちと俺の使命について語った。
「┅┅つまり、その陰と陽のバランスが崩れると、世界中に異変が起こり、へたをすると世界が滅びることになりかねない┅┅そして、まさに今がその時だということか┅┅」
「はい┅┅これまでの歴史の中で、幾度かこうした世界の危機は訪れました。陰の世界の者は、すきあらば陽の世界へ侵攻しようと狙っております。特に、この世の人心が荒廃し、陰の力が全体に及びやすくなったとき、戦争、疫病、内乱が各地で起きるでしょう┅┅」
「それで┅┅俺はそうした危機を未然に防ぐのが使命というわけか?」
サクヤは俺を見つめてしっかりと頷いた。
「いや、それは無理だって┅┅こんな中学二年生の俺に、何ができるって言うんだ?┅┅」
「いいえ、修一様にはできます。そのお力があるのです」
「力?┅┅俺に?┅┅いったい、どんな力だ?」
サクヤは俺の混乱した心をじっと受け止めるかのように目をつぶり、そして再び目を開いて、優しく微笑んだ。
「明日から、我が知る限りの知識を以て、修一様の持っておられるお力を引き出す訓練を始めます。ですから、今宵はもうお休み下さい」
俺は動揺してとうてい眠れるような状態ではなかったが、もうそれ以上サクヤに文句を言っても仕方がないと思って、やけ気味に寝袋の上に仰向けになった。
「┅┅君は寝ないのか?」
サクヤが出入り口の側に座っているのを見て尋ねた。
「我は精霊ゆえ、眠る必要はございません。こうしてお側でお守りいたしておりますゆえ、どうぞお心安くお眠りください」
「┅┅ありがとう┅┅それと、その┅┅すまない┅┅俺なんかが主人で┅┅」
サクヤは一瞬、複雑な感情の波を俺の心に送ってきたが、すぐに別の、何か興奮したような感情が、どっと俺の心に流れ込んできた。
彼女は真剣な顔で、すーっと空中を滑るように俺の横にやって来た。
「つい先ほどまで、確かに我は、そなたを主と呼ぶことにためらいがありました。なれど、もはや後戻りはできませぬ。そなたを主と定めたからには、我は我の持つすべての力を以てお仕えいたします。されば、そなたも、射矢王としてのお覚悟をお決め下さりませ。もし、それがどうしてもできないとあらば┅┅我にも覚悟がございます┅┅」
俺は思わず起き上がって、サクヤの放つ迫力に後ずさりした。
「わ、分かった┅┅どれだけできるか、自信はないけど、一生懸命頑張る┅┅と約束する」
サクヤはじっと俺を見つめていたが、俺の心に偽りは無いと分かったのだろう、安心したように微笑んで、元の場所に戻っていった。