2 出会い 1
それは俺が中学二年生の夏休みのことだった。
学校でよけいな神経を使う必要もなく、両親はずっと以前から放任状態だったので、夏休みは俺にとって心安らぐ、幸福な期間だった。もちろん、いろいろな奴らがひっきりなしに現れては、俺の頭の中にぺちゃくちゃと話しかけてくるのだが、それは無視すればすむことだ。昼近くに起きて、好きなだけテレビを見て、昼寝をして、深夜のラジオ放送を明け方近くまで聴く┅┅ああ、なんという幸せ┅┅。しかし、それも五日ほど続けると飽きてくる。前の年の夏休みもそうだった。ただ、前の年は、家族で父の郷里の奄美に行ったり、大型台風の襲来でばたばたしたりと、退屈する暇もなく夏休みの後半が過ぎていったが、この年はそうしたイベントも予定もなく、自分で何とかするしかなかった。俺は深く考えるでもなく、ひらめきで思いついたことをやることにし、両親に申し出た。
「えっ、キャンプ?一人で?無茶よ。お父さんと一緒ならいいけど┅┅」
「無理だな。学校は休みでも、会社は休みじゃないんだ。あきらめろ」
両親の返事は予想していた。当然、それに対する答えも用意していた。
「御殿場のばあちゃんちの裏山ならいいだろう? ばあちゃんの手伝いもちゃんとするし、宿題もちゃんと持っていくから」
両親にしても、俺が一日中家に居て、自堕落な生活をしているよりはよほどましと考えたのだろう。それに、何かをきっかけに俺の〝変なところ〟が消えはしないかと、ささやかな期待をしていたのかもしれない。案外あっさりと許してくれた。
「じゃあ、電話しておくから、ちゃんとお手伝いをして、迷惑をかけちゃだめよ。母さんたちもお盆前には行くから┅┅ちゃんと宿題もやって┅┅」
「はいはい、分かってるって」
こうして、俺自身、さしたる理由もなく、初めての一人旅に出たのだが、後で考えるとこの旅は俺が考えついたものではなかったに違いない。恐らく〝彼ら〟が、ずっと望んでいた旅だったのだ。その思念が、俺の脳の無意識の部分に蓄積した結果、必然的に意識の中に現れ出たのだと思う。
ともあれ、俺は意気揚々と電車に乗り込み、富士山の麓を目指した。
母方の祖母は、御殿場の街から西へ少し離れた郊外の村で、野菜を作りながら自給自足に近い生活をしている。祖父は俺が生まれる前の年に亡くなり、以来ずっと一人で暮らしてきた。今年で確か六十六歳になるが、元気そのもので、これまでの人生の中で病院に行ったのは、母のすぐ上の兄を死産したときと、二年前インフルエンザが大流行したときに予防接種を受けたときの二回だけだ、ということを自慢にしていた。
御殿場の駅からは、祖母の家まで三キロ余りの道を歩いていった。タクシーを使えば楽なのだが、往復の電車賃の他は、ぎりぎりの生活費しかもらっていなかったのだ。東京に比べるとかなり涼しかったはずだが、なにしろ真夏のこととて、歩いている身には地獄のような暑さに感じられた。ただ、雲間から時折現れる富士山が、少しずつ大きくなって近づいてくるのが、俺に元気を与えてくれた。
一時間半歩いて、ようやく祖母の住む村の入り口にたどりついた。畑や野原の間をあと七百メートルほど歩けば祖母の家に着く。俺は一休みすることにして、日陰のある場所を探した。右手の方に、こんもりとした林に囲まれた神社の鳥居が見えた。俺は誘われるように、その神社の方へ歩いていった。その神社の話は小さい頃から何度か聞かされていた。確か、俺のお七夜という儀式もそこでやったらしい。祖母は、毎日のようにこの神社にお参りに行くと言っていた。
木陰になった石段に座ると、ひんやりとした空気が包み込み、生き返ったような心地よさを感じた。そのまま昼寝をしたいような気分だった。
「ようやく来たか。待っておったぞ」
突然聞こえてきた声に、俺は夢心地から覚めて辺りを見回した。
「ここじゃ。そなたの頭の上┅┅」
そいつは、白い服を着て小さな人の姿をしていた。またか、という気持ちで俺は小さくため息をつき、立ち上がった。こういうたぐいはこれまでずっと無視してきた。俺は祖母の家に向かって歩き出した。
「あ、これ、待ちやれ」
そいつはきーきー声で怒りながら、空中を飛んで付いてきた。
「ええい、待てと言うに┅┅」
そいつは俺の顔の前に回り込んで、強引に俺の足を止めた。よく見ると、そいつは女の子の姿をしていた。まるで日本史の資料集で見た古代の女性のような髪型と服装をしている。
「やはり、モミギが言うておった通りのようじゃのう」
「モミギ?」
俺が〝彼ら〟の声に答えたのは、それが初めてのことだった。
「うむ┅┅ほれ、あそこに立っておるわ」
そいつが指さす方に目を向けて、俺は思わずあっと声が出かかった。神社の石段の上に立ってこちらを恨めしそうに見ているのは、去年頃まで、毎晩のように枕元に来て話しかけていた、あの茶色い肌の老人だったのだ。
「そなたが彼の言葉にいっこうに耳を傾けなかったゆえ、語り部の任を解かれたのじゃ」
「そうか┅┅すまないことをしたな┅┅」
「まあよい。その言葉で、あの者も救われよう。本来なら、昨年そなたはここへ来るはずであった。その一年分を急ぎ取り戻さねば┅┅よいか、これからそなたに与えられた使命について話をするゆえ、しかと聞くように┅┅」
俺は何の事やら分からなかった。ただ、面倒なことは嫌だったので、何も言わずまた歩き出した。
「ああっ、これ、どこへ行く、待ちやれっ!」
そいつは、俺を追いかけてふわふわと飛んでくる。
(幽霊にしてはえらくはっきり、くっきりしてるな)
「たわけっ。われは幽霊などではないわ」
「いっ┅┅な、何で分かったんだ?」
そいつは大げさなため息をついて振り返り、俺を見つめた。髪の色と同じ、緑がかった黒い、大きな目だった。
「われとそなたは、同じ御霊を分かち合った双子のごときもの、いや、もっと近しい存在なのじゃ。言葉は無くとも、心で通じ合える」
(ええっ、こいつと俺が双子だって?┅┅)
思わず心の中で叫んでしまい、俺はしまったと後悔したが遅かった。そいつはひどく機嫌を悪くした様子で、ぷいと前を向くと、勝手に祖母の家の方へ行き始めた。
俺はばつの悪い気持ちで歩き出しながら、今後はなるべく心を無にしようと決心した。ただし、どうやればいいのか、全く分からなかったのだが。