第1話 はじまり(3)
確かに少年はさっきまでここにいたはず。
彼のお陰でここまでたどり着けたのに、お礼を言う前になにも言わずに去って行くなんて。
しかもこんな豪雨の中。
少し雨宿りしていけばいいのに。
そんな言葉が次々と梨里香の脳裏に浮かぶ。
それにここがどこかも解らない梨里香は、少年にいろいろと聞きたいことがあった。
いろんな思いが頭の中を駆け巡る。
見も知らぬ山小屋でひとり。
ガタガタと窓に打ちつける大粒。
明かりもなく薄暗い中、時折小屋中に鳴り響く轟音とともに閃光が走る。
温かい暖炉はあるけれども、こんなところにただひとりでいると、やはり心細い。
とりあえず祖母に電話をして、少し遅くなると伝えることにした。
が、疲れからか、梨里香はそのまま眠りについてしまった。
* * *
そして翌朝。
窓から差し込む光と、小鳥のさえずりに梨里香は目を覚ます。
心地良い目覚めに起き上がり、「うーん、よく寝た」と大きく伸びをする。
そこではたと気づいた。
「ここは……どこ?」
寝ぼけ眼をこすりながら、梨里香は自分が今まで眠っていた部屋を見回した。
いつもの自宅のふかふかベッドではなく、可愛いピンクの布団でもない。
ただ暖炉のようなところの前の床に座っている。
……ということは、自分はこんな木の床で眠っていたのか、と。
少し状況が飲み込めてきた梨里香は、昨日の出来事を順を追って思い出してみた。
「暖炉……」
そう発して梨里香が見つめた暖炉。
昨日は確かに灯が灯っていた。だけどいつの間にか消えている。自分で消した覚えはない。誰かが消したのか?
いや、そもそもその暖炉には灯をつけた形跡すらない。
梨里香は少し不審に思ったが、考えていてもしょうがないとおもむろに立ち上がり、小屋の外に出てみることにした。
木製の扉を内側に引いて、外の光を全身で受けた。
昨日の悪天がウソのような晴天である。
やっと祖父母の家に行ける、と嬉しい気持ちで再び小屋の中に戻り、リュックを肩に掛け、もう一度扉の外に出た。
さわさわと草木を揺らす音を立て、風が流れる。
真夏の蒸し暑さはなく、まるで初夏のような清々しさだ。
澄んだ山の空気を思いっきり胸に吸い込んで、梨里香がさあ出発しようと思ったその時だった。
「さあ、早く!」
「え?」
梨里香は少年に手を引かれて、駆け出した。
どこからともなく現れた少年。
突然の出来事になにがなんだか解らず、でも手を引かれるままに走った。
一体どこまで行けばいいのだろう。
そんなことが頭に過ったが、まだ寝起き間もない梨里香は取りあえずそのまま走り続けた。
しばらく訳も解らず走ったが、ついに走リ疲れて、「ちょっと待って」と声をかけ、大きな木の根元に腰かけて休む。はあはあと激しく息切れをしていた梨里香だが、深呼吸をしたりして、次第に落ち着いていった。
そして梨里香は呼吸を整えて、少年に声をかける。
聞きたいことが山ほどあったからだ。
「どういうことか説明して、あなたは一体……」
その時、閃光が走り、同時に大きな雷がどこか近くに落ちたのかと思うほどの轟音を立てて鳴り響いた。
こんなに晴れているというのに。
青天の霹靂。
梨里香は思わず目をつぶり身をかがめる。
しばらくして雷鳴がおさまり、あたりに静寂が訪れる。
爽やかな風と草木を揺らす葉音。
梨里香は恐る恐る目を開けてみた。
青天の霹靂。
梨里香は元いた駅前のバス停のベンチに、小説『Meet You Again』を広げて座っていた。
「えー」
思わず発した少し大きめの声に、バスを待つ他の人たちに怪訝な顔で見つめられる。
梨里香は顔を赤らめ「すみません」と小声で言うことしかできなかった。
さっきまでの出来事は夢だったのだろうか。
いや、いくらなんでもバス停で大好きな小説をドキドキしながら読んでいる最中に、居眠りするとは考えがたい。
梨里香には考えの及ばない不思議な出来事に、頭の中はパニック状態であった。
そして数分後、時刻通りに到着したバスに乗り込む。何ごともなかったかのように。
車窓から見える景色はいつもと同じ見覚えのある、のどかでこころが癒やされる風景だ。
やはり夢でも見ていたのだろうか。
それとも想像力豊かな梨里香の想像の世界だったのだろうか。
今となっては確かめる術はない。
しかしあの豪雨での出来事は、想像や夢ではすまされないほどに鮮明に、梨里香の脳裏に焼き付いていた。
少年の声もそう。
確かに彼はいた。
そしてその繋いだ手の温もりは、今でも憶えている。
お読み下さりありがとうございました。
登場人物紹介欄に、【謎の少年】を追加しました。
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